第17話 隠された過去と女子

 弾んだ声が私を呼んだ。炭黒の手を白布に嵌めた。

「おかえりなさいませ白梅ちゃん。と、桃乃月様ではありませんか」

「ごめんなすって」

 桃色の風呂敷を抱えて薄い赤衣を着こなす美妖が側に立っていた。

「さすがですね、桃乃月様の周りは華やかです」

「褒め上手なのだから。顔を見せられなくてごめんなさいねぇ。近頃暑くて外出を控えていたから馬が合わなかったのさ。あらま、盛大に真っ黒にしちゃって綺麗な顔が台無しだよ。このままでは黒もんばかり見ちまうよ」

 半衿から手拭いを出して鼻辺りを拭いてくれた。顔まで黒いとは気づきもしなかった。

「元気かい?」

「私はいつでも元気ですよ」

「そりゃ精が出るねぇ」

「実はまだ大旦那様は出先から戻っていなくて」

「いいの、あたしは花純ちゃんに用があったのさ。遅くなったけど花筵の礼がしたくてねぇ」

「お礼は頂けません」

「金華楼共々命が助かったのよ。心ばかしの礼を尽くしたい。欲しい物はあるかしら?」

 私の欲しい物。考えもしなかった。

「お礼は大旦那様が致して下さいました」

「やーねぇ、酒呑様とあたしの礼を一緒にしないでよ。あたしが花純ちゃんにあげたいの」

「ですが」

「されば見つかった時でよいではないか? お姉さんには麻呂が伝えられるぞよ」

 白梅ちゃんは花筵後も稽古を続けている。

「そうね、白梅に言付けなさい。あたしはいつでも待つからさ。何だって無期限の礼なんだから」

 桃乃月様は華奢な拳で胸をポンポンと叩く。 おやきが最ものご褒美だけれど、さぞ豪華な物でないと許可が下りなそう。


 夕刻過ぎ、引き続き真っ黒の手を止めたのは吟の帰宅だった。

「表座敷に来られるか」

「面座敷に? 日が暮れていますが私がお伺いしても宜しいのでしょうか」

 空を指さした。

「ああ」

 夜は鬼のお家芸、宴会が始まる。吟は三味線の音の中に入ってしまえば、丑三つ刻まで出てこない。その後、私の間に酒を漂わせて入って来ては一言二言を交わせば吟は柱に頭を預けてしまい一日が終わる。

 お香用の炭を小さく砕き終え、身なりを整えてから表座敷に入った。

「紹介する。裏鬼門の鬼頭、もみじだ」

 そのもみじさんは女性だった。

 髪色の帯が華美な着物を引き締まらせ、富や華やかさを表した御所車の模様はその方を象徴する。立派なお方だとお召し物で直ぐに分かった。

「お初お目にかかります。花純と申します」

 脚を折りたたみ頭を丁寧に下げる。

 表鬼門を吟一族が守り、裏鬼門もまた別の鬼が守る妖都。裏鬼門の鬼頭に会ってしまえるのも鬼屋敷だからこそ。

「ふーん、この子が栴檀師なの。あっしは茨木もみじ。もみじと呼んで。よろしくお頼み申し上げます」

 魅惑的な紫の瞳が印象的。風格ありながら妖艶な仕草には眼を引いてしまう。

「もみじ様。こちらこそでございます。宜しくお願い申し上げます」

 茨木童子の子孫が裏鬼門を守っているのなら吟とは深い仲。失礼がないように深々と頭を下げた。

「そう何度も頭を下げなくてもよい」

 御簾が上がり、同時にもみじ様が腰を上げられた。向かった先は吟の側。

「はい、あーん。吟君は照れやなのよ」

 指先で摘んだ氷の雫がぽつぽつと畳を濡らした。

「毎回のことだが、我から離れろ。距離を保て」

「やだ。幼馴染のくせに距離なんて無に等しいのよ。それにあっしは照れる吟君が欲しいわ。可愛いんだから」

 幼馴染なら二方の間には見えない糸が繋がっている。私は一層この場に身を引き締めなければならない。

「あ、ごめんなさい。まだ、花純さんがおる側で」

「私のことは気になさらないで下さい。空気と思って下されば」

 きっともみじ様は吟の大切なお方。教訓を守らなければ私はまた邪魔をしてしまう。

「やだぁ、空気だなんて。まるであっしらが恋情を抱いておるみたいじゃない」

「いいかげにしろ。花純に用があるんだろ。さっさと済ませろ」

 もみじ様の指先で溶ける氷を奪い返した吟。しかしもみじ様は再び氷を摘まんでは吟の口元へ運んだ。

「そうね用があって出向いたのよ」

 指先をじっとり舐めたもみじ様は横眼を効かせた。真っ直ぐ伸びた深い黒髪をたおやかに揺らしながら金木犀の香りを靡かせる。

「この香りって」

 胸がざわついた。

「香り? そう、吟君とお揃いの香りなの。分けて貰ったのよ。でもそろそろ切れる具合らしくて、お気に入りだったのに」

 私が吟に送ったお香。吟は眉間の皺が深くなっていた。

「もみじが勝手に取り出した」

「お揃いで嬉しいくせに。さあ用は今終わったわ」

「え?」

「あなたを一眼見たかっただけなの。それより吟君、まだこの子を屋敷に置くつもりかしら?」

「我の勝手だ」

「神嫌いの吟君なのにまだ四神を屋敷に置いてさ、この子もしぶしぶ置くつもりなのかしら。花純さんなら栴檀師として独り立ちできるわ。なんならあっしが屋敷を紹介しましょうか? ね、花純さん」


 ――コリ


 轟かせる氷音はもみじさんの舌打ちを鳴らさせるものだった。

「慎め。花純の道を決めるのはお前ではない。帰るぞ」

「むきになってさ。要するにお気に入りなのかしら。あっしも口煩くなるわよ。あっしを正妻に選んでおきながら妾を作るなんて言語道断。今だけなら許してあげる。でも婚姻が成立したらこの子は追い出すわ。夫婦円満のためにもね」


 吟が婚姻。

 正妻。


「大事にする気はない」

 吟の声は氷よりも冷たいけれど……婚姻を否定しなかった。

 私は何を期待していたのだろうか。鬼頭に許嫁がいたって不思議ではない。

 怒り悲しみ、どれも当てはまらないこの感覚は浮遊しているようでとても居心地が悪い。

 でも、ただ一つ明確なのは私が邪魔をしてはならないということ。

「私は皆様のお力添えがあり下界に降り立ちました。まだ知らない部分もありますが、大旦那様の婚姻までには鬼屋敷から出て行きます。妾など心配なさらないで下さい。私はただの栴檀師ですから」

 華奢な笑い声が響いた。

「あっしったら、よく考えれば花純さんには妾の役目はなり立たなかったわ」

「私は触れられない。そのとおりでございます。この手がある限りありえません。断じて恋に耽るなど迂闊にも口にできない身分でございます」

 私と共に生きる呪いは誰をも傷つける。愛する者も友も親でさえ生き地獄へ送ってしまう。分かっていたのに今更、胸に突き刺さってしまった。軟弱はまだ治っていない。白布の手袋が今日はひどく目立って見える。

「ゆくぞ」

 私の腕を吟が掴んだ。

「吟君? なぜその子なの? また大怪我をしてしまうわね。忘れたの? その痣」

 吟は私の腕をさらに引っ張った。

「痣?」 

 動作に紛れたもみじ様の声を私は確かに聞き取った。

「大旦那様の痣って、顔の?」

 突拍子もない言葉が出てしまった。振り返った吟は恐ろしい顔をしていた。

「それ以上口になすならば、もみじよ、首が飛ぶと思え」

「へええ。吟君は事実を隠すことを優しいと思っておるのね。だったら大間違いよ」

 床が抜け落ちそうな足音に私は黙ってついてゆく。吟の寝所でようやく脚が止まった。素早く息を整えて、今にでも吐き出したい言葉を口に託した。

「顔の痣は穢れですか」

「見たのか? 顔の……半分を」

「見て、しまいました」

「そうか。見たからといって杞憂するな。この痣は事故であってな、昔のことだ」

「事故? それは私と関係するのではありませんか? もしかすると私の手が顔に……」

「僕とてやらかしてしまう下手がある。されどこうして生きておる。この痣に花純は関係ない」

「いつですか? その事故とは」

「昔だと言っただろ。掘り起こすな」

「もみじ様は知っていました。私には教えて下さらないのですか」


 記憶を失った昔に関係するのであれば、私は吟を……


「誰とて口にしたくない過去はある。もみじにやっかむな」

「私はただ知りたいのです。大旦那様の昔を」

 吟の背は語らない。盾のような背はまるで格子と同じ。

「宴会に戻る」

 手が勝手に動いた。吟の羽織を掴んでいた。

「めずらしいな。花純が僕を引き止めるとは」

「逃げるの……ですか」

「この僕が逃げるだと」

「隠すことは逃げでもあります。向き合って下さい」

 吟はこちらを向き直した。

「用が済んだのなら、手を離せ」

 抱いてしまった欲。それは吟の側だった。

 でも私ではなかった。馬鹿だ。あやかしと対等だと錯覚を起こしたせいだ。皮肉にも今なら桃乃月様に懇願できるお礼が浮かんでしまえる。

 私の欲しいのは物ではなくて、吟を忘れさせる媚薬が欲しいと伝えたい。

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