第36話 幸せになってください

 次の日の朝。


「ホエ~…………」


 エルヴァンクロー公爵城の前にいたのは、口から魂を飛ばしかけているトリンプラ侯爵とマリアンヌだった。ふたりが公爵城に滞在してから、一ヶ月。今日、当初の約束通り、彼らは侯爵家の邸宅へと帰っていくのだ。


「屍か?」

「あら、エルヴァンクロー公爵。屍は声を出しませんよ」

「………………」


 アルベルクの独り言に対して、恐ろしい返事をしたのはリリアンナだった。彼女は、昨日から今朝にかけて、トリンプラ侯爵とマリアンヌを徹底的に教育した。魂を飛ばしかけている屍同然のトリンプラ侯爵とマリアンヌを完成させたのは、間違いなくリリアンナだろう。一体どんな教育をしたのだろうか。怖すぎて知りたくもないが。


「ご当主様……。一ヶ月間、ありがとうございました……。ご当主様からのありがたい処罰を受け入れ、家門のためにさらに身をにして働いて参ります……。エルヴァンクロー公爵家の私有地である山や森に列車を建設する計画が、無事に成功を収めることを心からお祈り申し上げます……」


 トリンプラ侯爵は、小声で述べる。


「この度は、本当に、申し訳ございませんでした……」


 トリンプラ侯爵が深々とこうべを垂れると、彼に続いてマリアンヌも頭を下げた。


「謝罪はもう結構だ。お前の働きで見せろ」


 アルベルクの現実主義的な答えに、トリンプラ侯爵はさらに深く頭を下げたのであった。

 トリンプラ侯爵が馬車に乗り込む。マリアンヌもそれに続くと思われた時、彼女が振り返った。


「エルヴァンクロー公爵、公爵夫人。度重なるご無礼を、何卒お許しください。公爵とのお約束通り、邸宅に戻り次第結婚相手を探し、三ヶ月以内に婚姻を結びます。そして二度と、この城の敷居しきいまたがないことを誓います」


 どこか、淡々と聞こえるマリアンヌの誓い。サナは、彼女に、かつての自分を重ねた。リーバー伯爵であるレオンにフラれ、傷心中にも拘わらずエルヴァンクロー公爵に嫁ぐことが決まった、あの時の自分を――。


「マリアンヌ嬢」


 いてもたってもいられなくなったサナは、「トリンプラ侯爵令嬢」ではなく彼女の名を呼んで引き止めた。


「私が今何を伝えても、なんのなぐさめにもならないかもしれません。ですが、かつての私も今のあなたと同じ、人生で最大の失恋を経験し、傷心中の最中にアルベルク様との結婚が決まりました。ですのであえて、今のあなたにお伝えしましょう」


 サナは、マリアンヌに歩み寄る。指先まで冷えきった彼女の手を握った。


「幸せになってください」


 涼やかな朝を感じさせる声色。サナの言霊ことだまは、マリアンヌの心の奥深くまで届く。


「今は、苦しくて悲しくて、お辛いでしょう。何年も想い続けた方との恋が実らないというのは、信じがたい苦痛を伴うと思います」


 マリアンヌの手を両手で握る。


「ですが、いずれ夜は明けます。今かもしれない、明日かもしれない、結婚してからかもしれない……いつになるかは分かりません。でも絶対に、あなたを出迎えてくれる太陽の存在に気がつける時が来るのです」


 サナがそうであったように――。


「ですからまずは、あなた自身を愛して、幸せにしてあげる努力をしてみてください。そうすればおのずと、夜明けを告げる太陽に気がつき、そしてその人を愛することができるでしょうから」


 ひとつひとつ、丁寧に言の葉を紡ぐ。

 エメラルドグリーンの瞳から、大粒の涙が溢れる。サナの言葉が治療薬となり、マリアンヌの失恋した心を癒したのだ。完全とまではいかないかもしれない。もしかしたら半分にも届いていないかもしれない。だがたとえ少しだったとしても、何も受けつけなかったマリアンヌの心を癒したのは事実だった。


「は、い」


 マリアンヌは涙を流しながら、震える声で返事をする。


「ありがとう、ございました」


 再度、深く一礼し、今度こそ馬車に乗り込んだ。小窓から見えるマリアンヌの目は、サナを捉えたあと、アルベルクに向けられる。キラリと光ってこぼれる一滴のしずく。その雫はまさに、マリアンヌがアルベルクに向ける最後の「好き」という感情であった。

 マリアンヌはハンカチを取り出して目元を優しく拭うと、サナに向かって微笑む。サナはぎこちなく、彼女に手を振って見せた。


(今はまだ、立ち直れなくてもいい。ぎこちない笑顔でもいいの。あと数ヶ月……数年も経ったら、あなたはきっと、最高の笑顔でいられるわ)


 サナは祈る。ただただ祈る。かつての自分と同じ境遇の、ひとりの令嬢の幸せを。

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