第35話 キスに溶けて

 マリアンヌとアルベルクが一晩を共にしたという話は、マリアンヌの嘘であったことが判明した。

 俯きながら肩を震わせて泣いているマリアンヌに、同情を寄せる者は誰ひとりとしていない。父親であるトリンプラ侯爵までも沈黙を貫き、彼女の愚行を庇おうとしない。トリンプラ侯爵は、「どう責任を取るか」と路頭に迷っている様相だった。

 地獄のような空気を終わらせたのは、リリアンナだった。


「エルヴァンクロー公爵、こちら、夫から預かった契約書にございます。確認次第、サインをお願いいたします」

「あ、あぁ」


 リリアンナは契約書を取り出し、アルベルクの執務机に置く。


「ではトリンプラ侯爵、侯爵令嬢、参りましょうか」


 満面の笑みを浮かべたリリアンナに、トリンプラ侯爵は目を点にする。マリアンヌも充血した目で彼女を見つめる。


「あら、何をほうけていらっしゃるのですか? あなた方がいかに愚かな真似をしたのか、私や友人であるサナ様に対してどれほどの愚行を犯したのか、しっかりとご自覚なさるまで私自ら、あなた方の性根しょうねを叩き直してさしあげます」


 ミニウサギのような可愛らしい顔で、前世の世界では最強のへびとして知られていたインランドタイパン並の猛毒を吐くリリアンナは、トリンプラ侯爵とマリアンヌの襟首を掴み上げた。


「執事長もお手伝いくださいな」

「か、かしこまりました」

「エルヴァンクロー公爵、サナ様。私たちはこれで失礼いたします」


 リリアンナは頭を下げて、ふたつの獲物を引きりながら執務室を出ていった。ハルクも彼女に続いたのであった。

 恐ろしい捕食シーンを目撃してしまったサナは、顔面を蒼白にして白目を剥きながら、プルプルと震える。


(サナ・ド・エルヴァンクロー……いいえ、サナ・バルテル。小説の設定とはいえ、リリアンナ様をいじめてよくぞ無事でいられたわね……!)


 下手したら、無惨に捕食されていたかもしれないのに。改めてリリアンナの恐ろしさを目の当たりにしたサナは、できるだけ彼女の機嫌を損ねないようにしなければならないと思った。


「面倒な役目をリーバー伯爵夫人が請け負ってくれたようだ」

「……ですが、家門の主としてトリンプラ侯爵とご令嬢に処罰を下さなければならないことに、変わりはありませんよね?」

「あぁ。二度とあんなことができないようにな」


 アルベルクの目が細められる。ガラスの破片の如く尖った目つきだ。リリアンナに続く捕食者が牙を剥いた姿に、サナはまたも身震いした。その時、アルベルクに再び手を握られる。


「サナ。誤解させて、本当にすまなかった」


 捕食者から一転、被食者になる。ぎこちなくサナの顔色を窺う様子が、あまりにも可愛らしい。

 加虐心を擽られたサナは、アルベルクの手を優しく振り払った。


「私がどれくらい悩んで悲しんだか、アルベルク様には分からないでしょうね」


 肩にかかったローズブロンドの髪束を手の甲で払い除けながら、冷たくそう言う。行き場を失ったアルベルクの手が宙を彷徨さまよう。


「本当に一晩を過ごしていたらどうしようと……離婚まで考えたんですからね?」


 嘘だ。本当は、離婚することなんて考えていない。少し話を盛りすぎたかもしれないと危機感を抱いたと同時に、アルベルクが纏う空気が変わった。


「アルベルク、様?」


 サナはアルベルクの名を呼びながら、怖々と彼の顔を見上げる。アルベルクは信じられないくらいの無表情を浮かべていた。被食者に成り下がったと思い込んでいた彼が、実はそうではなかったという事実を前に、サナは慄然とする。テーブルに手をつきながら、ゆっくりと後退る。


「い、今のは言葉のあやと言いますか……。嘘と、言いますか……」

「………………」

「離婚なんて本気で考えていないですから、その……勘違いをなさらないでほしいんですけども、」


 ある程度距離を取ることに成功した途端、アルベルクが距離を一気に詰めてくる。彼はサナ越しに、テーブルに両手をつき、腕の中にサナを閉じ込めた。

 至近距離。お互いの息遣いがよく分かる。


「離婚は、絶対にしない」


 アルベルクの言葉を聞いたサナの心臓がより強い反応を示す。


「たとえお前が心の底から離婚を望んだとしても、俺はそれに応じない」


 無限の青紫。リーユニアの夜空を彷彿とさせる瞳子は、熱を孕んでいた。真っ向から火傷しそうな熱をぶつけられたサナは激しく混乱する。視界が霞み、頭も上手く働かない。このままアルベルクの熱に浮かされて、全身だけでなく心まで丸裸にされて、彼と共に溶けきってしまうのだろうか。


(私だって、あなたがどれほど嫌がっても、離婚なんてしてあげないわ……)


 潤んだ目で、彼を見上げる。

 それが、最後だった――。

 唇を、塞がれる。

 触れるだけではない、食むような口付けだ。

 アルベルクの唇はマシュマロみたいな柔らかさで、クリームみたいに甘くて、暖炉の炎みたいに熱い。それで、それで……。

 唇がゆっくりと離れていく。アルベルクは、あまりの幸福度により自然と溢れ出たサナの涙を人差し指で掬い取る。


「悪い、」


 アルベルクは一言謝ると、執務室を出ていく。ひとり取り残されたサナは、ズルズルとその場に座り込む。アルベルクの唇の感触を思い出し、今すぐ冷水を浴びたい気分だと思ったのであった。

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