第32話 修羅場

 サナは、リリアンナとハルクと共に、アルベルクの執務室までの道のりを歩く。


「ハルク、アルベルク様は今、お忙しいかしら」

「先程はトリンプラ侯爵とお話をされているようでしたが、特段お忙しい様子ではありませんでした。奥様とリーバー伯爵夫人がお見えになれば、こころよく対応してくださることでしょう」


 よかった、と安堵する。

 アルベルクの執務室に到着したと同時に、若干扉が開いていることに気がつく。つぎの瞬間、室内から切羽せっぱ詰まった大声が聞こえてきた。


「ご当主様! またも私の娘が公爵夫人に泣かされたのですよ!? これは見過ごせる事態ではございません! 早急に対応してください!」


 トリンプラ侯爵の声だ。サナは、扉の隙間から室内を覗く。するとそこには、トリンプラ侯爵の背中と、肩を震わせながら泣いているマリアンヌの姿があった。

 サナとリリアンナに徹底的てっていてきにやり返されたマリアンヌが、トリンプラ侯爵に泣きついたのだろう。彼女が使いそうな手だ。


「ご当主様……。マリアンヌは、亡き妻の忘れ形見……私の大事なひとり娘なのです……。娘がいじめられているのを見逃せるわけがありません。たとえその相手が、エルヴァンクロー公爵夫人でも、皇族の方々でも、です。どうか、しかるべき処置を、責任を取っていただきたい」


 トリンプラ侯爵は拳を握りながら、執務椅子に腰掛けているであろうアルベルクに訴えた。


「先日お話させていただいた件を、今すぐにでも推し進めましょう。このままでは、家門を守る立場にある公爵夫人が、家門の名を汚しかねません。まぁ……ご当主様が悪名高いバルテル伯爵家のご令嬢を妻として迎えると決断なさった時、既にある程度家門は汚されてしまいましたが」


 サナをあからさまに愚弄するトリンプラ侯爵。彼の言葉に、サナはショックを受けた。

 彼女がマリアンヌを虐めているという件については全面的に否定できる。しかしエルヴァンクローの家門を汚しているという件については、サナも否定できない部分があるのだ。

 サナは、金に目がない、金のためならば悪行も働くバルテル伯爵の娘。そして、リーバー伯爵のレオンと結ばれるために彼の恋人リリアンナに執拗に嫌がらせをした悪女でもある。豊かなリーユニアの地を統治する名門エルヴァンクロー公爵家の当主アルベルクが、そんな悪名高いサナを娶ると公表した時点で、エルヴァンクローの家門を汚しているも同然なのだ。実際、社交界でも反発が凄まじかったらしいし、あのベルガー皇帝も苦言をていしたらしい。それでもアルベルクは、周囲の反対を押し切ってサナを妻に迎えた。今でこそ、前世を思い出し、悪役としての運命から逃れられたため、サナは悪女を卒業したが、それでも過去の悪行はなかったことにはならない。家門を汚していると言われても、サナは反論できないのだ。

 サナは悔しさから、唇を強く噛みしめた。その時、無言を貫いていたリリアンナが容赦なく扉を開け放つ。


「黙って聞いていれば、随分と好き勝手なことを仰られていますね」


 戦地とも言える場所に躊躇せず乗り込んでいくリリアンナの背中は、とてもたくましく見えた。


「ごきげんよう、エルヴァンクロー公爵」

「リーバー伯爵夫人……」

「お手紙にも記した通り、契約書の件でお訪ねいたしました」


 リリアンナは、トリンプラ侯爵とマリアンヌには目もくれず、アルベルクにそう言った。


至急しきゅう、契約書にサインをいただきたいのですが……あまりにも無礼な言葉が聞こえましたので、こちらを片付けるほうが先でしょうか?」


 リリアンナはそこでようやく、トリンプラ侯爵とマリアンヌに視線を送る。


「ごきげんよう、トリンプラ侯爵。ご本人も聞いている場で、家門の女主人を愚弄するなんてあってはならないことではありませんか?」

「……本人?」


 トリンプラ侯爵とマリアンヌは、恐る恐る扉を見遣る。そこにサナとハルクが立っていることに気がつき、目を見開いた。


「リーバー伯爵夫人……! あなた様ならば、エルヴァンクロー公爵夫人がどれほど悪女であるかご存じでしょう!? なぜ公爵夫人の肩を持つのですか!? 私は散々っ、公爵夫人にいじめられたというのにっ……!」


 マリアンヌは全力で悲劇のヒロインを演じる。そんな彼女を前にして、サナの堪忍袋の緒が切れる。


「だからなんなの?」


 冷たい一言に、マリアンヌは緩徐に顔を上げる。


「私が悪女でありあなたをいじめたとしても、エルヴァンクロー公爵夫人である私をたかが傘下の貴族如きが愚弄していいと思っているのかしら」


 暴君さながらに宣うと、マリアンヌは衝撃に打たれた表情を浮かべる。


「いくら誰もが羨む美貌と斬新なアイデア力やカリスマ性をお持ちでも……公爵夫人は、エルヴァンクローの夫人の座にふさわしくありません!」


 トリンプラ侯爵はそう叫ぶと、アルベルクの執務机を激しく叩いた。



「ご当主様! 我が娘マリアンヌをまずはご当主様の側妻に、そしていずれは本妻としてお迎えください!」

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