第30話 救世主の降臨
「アレハユメヨ。ゼッタイユメヨ」
部屋を真っ暗にしたサナは、ベッドの上で
「奥様。部屋に引き篭もられてから数日が経っております。旦那様からのお食事のお誘いもお断りになられて……。そろそろお外に出て、気分転換されてはいかがでしょうか?」
「………………」
エリルナのアドバイスを受けたサナは、B級映画に出てくるゾンビみたいに起き上がる。長嘆息して、仕方なくベッドから下りた。
「まずは、お風呂に入らなきゃ……」
「すぐに準備いたします」
微笑を浮かべたエリルナは、サナに深々と頭を下げたのであった。
湯浴みを終え、朝食を取ったサナは、ひとり宮の外に出る。
半世紀ぶりに太陽光を浴びた気がする。照りつける太陽の光とカラッとした程良い暑さ、そして潮の香りを運ぶ風。サナは、リーユニアの夏の気候を全身で感じる。
そう、あの女の声が聞こえるまでは、全てが完璧だったのだ――。
「あら、エルヴァンクロー公爵夫人、ごきげんよう」
つばの大きい帽子を
「挨拶もなさらないとは……。いくら家門の主の奥方様といえど、許されませんわ。ねぇ?」
マリアンヌは傍に控えていた侍女に同意を求める。彼女の手下である侍女は強く頷いた。
「申し訳ございません。どなたかすぐに思い出せなかったもので……ご挨拶が遅れてしまいました。ごきげんよう、トリンプル侯爵令嬢」
わざと名前を間違えると、マリアンヌの笑顔に明らかな亀裂が入る。
「傘下の侯爵家の名を間違えるなんて……これでは、アルベルクがあまりにも
高らかに笑いながらそう言ったマリアンヌに、サナは足を止める。ゆっくりと振り向くと、マリアンヌは
いつもとは、違う。ただ単純に、苦しまぎれのマウントを取っているわけではない。これまでは、アルベルクの妻であるサナこそ勝者であったはずなのに、今はなぜか見下ろされている気分に陥るのだ。立場が、逆転したかのような……。
(もしかして、あの夜、本当にアルベルク様と愛し合ったわけ?)
マリアンヌの謎の自信と優越感、勝者の風格は一体どこから来ているのか。その答えは、サナも知っていた。数日前の夜、マリアンヌはアルベルクの部屋を訪問し、実際に体を繋げる行為をした可能性が高い――。
「まぁ、いいですわ。すぐにご自身の立場を理解することになるでしょうから。公爵夫人が公爵夫人でなくなることを心からお祈りしておりますわ」
マリアンヌは、満面の笑顔となる。動揺を隠しきれないサナに、エリルナが耳打ちをしてくる。
「この場でなら、事故に見せかけ殺すこともできますが、いかがなさいましょう」
「ダメに決まってるでしょ?」
平然と物騒なことを口にするエリルナに、サナは釘を刺す。
「公爵夫人としてのお務めを果たせないのであれば、代わりに私が果たしましょうか?」
明らかに、サナを下に見る物言いだ。なんだか反論する気も失せたサナがマリアンヌには見えぬよう、耳の後ろをかこうとした刹那。
「まぁ、なんて失礼なお方なんでしょう。かのエルヴァンクロー公爵家の夫人にそのような言葉遣いをなさるとは。貴族令嬢としての自覚がないのでしょうか?」
背後から聞こえた声に、サナは愕然とする。
「あなた、は……」
マリアンヌも同様に驚きながら、サナの背後にいる人物を注視する。サナが振り返ると、そこには優雅な笑みを湛えたリリアンナが立っていた。彼女の背後には、申し訳なさそうな面持ちをしたハルクがいる。彼は、エリルナと視線を通わせるなり、親指を突き立ててウィンクをかました。恐る恐る隣を見遣ると、彼と同じように親指を突き立てているエリルナの姿が……。
(この親子は一体何を……)
「なぜ、リーバー伯爵夫人がここに……」
「ごきげんよう、トリンプラ侯爵令嬢。私はサナ様と仲が良いので、こうしてたまにサナ様を訪ねていますの」
マリアンヌの疑問にスラスラと答えるリリアンナ。彼女の目は、微塵も笑っていない。
(リリアンナ様……。息をするように嘘をついたわ)
リリアンナは、たまにサナを訪ねていると言ったが、まったくの嘘。そこまで親しい間柄ではないし、彼女が訪問してきたのも今回が二度目である。
マリアンヌは彼女の説明を聞いて、瞠目していた。無理もない。サナとリリアンナがひとりの男を取り合った
「ところで、トリンプラ侯爵令嬢」
リリアンナは風になびく髪を押さえながら、一笑する。
「謝罪はまだですか?」
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