第29話 感情ジェットコースター

 サナはアルベルクとの間にあった蟠りを取り除くことに成功した。あの夜の晩餐会ばんさんかいから、マリアンヌは酷くショックを受けているらしく、エリルナによると彼女は客室から一歩も外に出ていないらしい。彼女には悪いが、正直自業じごう自得じとくだろう。

 サナはそんなことを思いながら、アルベルクの自室までの道のりを歩く。


「こんな時間まで付き合ってもらって悪いわね。おかげで楽しかったわ。ありがとう、エリルナ」

「私でよければいつでもお付き合いいたします、奥様」


 エリルナはいつもの仏頂面ぶっちょうづらでそう答えた。

 今日は、昼頃から夜にかけて、街で買い物をしたのだ。リーユニアを統治するエルヴァンクロー公爵家の夫人とあらば自らおもむくまでもなく、衣装室も宝石商も城に呼び寄せることができるというのに、サナはあえて権力を行使こうしせず自ら足を運んだ。気分転換というのもあるが、アルベルクが治める街を自分の目で見ることが何よりも好きなのだ。リーユニアは今日も、平和で穏やかで、多くの観光客で賑わっていた。近いうちにまた出かけたいものだ。

 リーユニアの街を恋しく思いながら、曲がり角を曲がり視線を上げた時、アルベルクの自室の前に誰かがいるのが目に入った。サナは反射的に、曲がり角に身を隠す。


「奥様?」


 サナは口元に人差し指を押し当て、エリルナに黙るよう促す。そしてゆっくりと、角から顔を覗かせた。アルベルクの部屋の前にいたのは、なんとマリアンヌだった。ところどころ透けている寝間着を纏い、部屋の前で佇んでいる。


「何してるの……?」


 思わず呟く。すると、部屋からアルベルクが姿を現した。彼もラフな格好をしている。彼とマリアンヌは、何やら言葉を交わしていた。声は微妙びみょうに聞こえるものの、何を話しているのかまでは分からない。そのもどかしさにモヤモヤしていると、突然マリアンヌがアルベルクに抱きついた。大声を出しそうになった瞬間、エリルナに口を塞がれる。


「っ〜〜〜〜〜!?!?!?」


 声にならない叫び声は、エリルナの手のひらの中に吸い込まれていく。

 アルベルクは非常に困った面持ちで肩を大きく落とした。熱量に負けたのか、マリアンヌを部屋に招き入れたではないか。アルベルクの部屋に、消えるふたり。それを見守ることしかできなかったサナは、その場に呆然と立ちすくむ。


「奥様、申し訳ございません。咄嗟にお口を塞いでしまったのですが……証拠は押さえました。突撃しますか?」


 エリルナは物騒ぶっそうなことを口にする。彼女の雇い主はアルベルクのため、アルベルクに無礼を働けばさすがの彼女もどう処分されるか分からない。それなのに彼女は危険をかえりみず、アルベルクの部屋に無断で突撃しようとしている。一体その短剣はどこから出したのか。一旦落ち着いて、しまってほしいものだ。


「部屋に、戻りましょう」


 サナは震える声を絞り出して、そう言った。エリルナは「ですが……」と反論しようとするが、彼女の体の震えを見て、黙り込んだ。

 街から帰ったことをアルベルクに報告するべく、彼の部屋にわざわざ足を運んだのだが、ショッキングな光景を見ることになるなら、そんな律儀りちぎなことしなければよかった。

 酷く浮かれていた自分を脳内でたこ殴りしながら、自室までの道のりを足早に歩く。無言で歩き続け自室に到着すると、エリルナに再度礼を言う。何かを言いたそうにしている彼女を置いて、扉を固く閉めた。


「………………」


 窓から射し込む月明かり以外、灯りのない部屋。サナは扉に背を預けながら、ズルズルとその場に座り込む。膝を抱え込み、唇を噛みしめる。

 あれは間違いなく、マリアンヌだった。あられもない格好をした彼女を、アルベルクは部屋に招き入れたのだ。ほかでもない彼の、部屋に……。今晩、ふたりはどんな夜を過ごすのだろうか。抱き合うのか。キスをし合うのか。それ以上も、するのだろうか。朝になったら、ベッドの下にある散らばった衣服を目にも留めず、ふたりで愛の水に浸り、身を清めるのか。それを想像したサナの胸がぎゅっと強くしめつけられる。

 妻であるサナでさえ、アルベルクと共用の寝室で一晩を明かしたことがないというのに。アルベルクはサナではなく、マリアンヌと一晩を過ごすつもりなのか。


「最初から、トリンプラ侯爵令嬢を娶っていればよかったじゃない」


 サナは顔を上げ、溜息混じりに不満を漏らす。

 アルベルクとマリアンヌは、幼馴染だ。それにマリアンヌは、エルヴァンクローの傘下である貴族の令嬢。婚姻を結ぶのは、そんなに難しくはないはずだ。悪女と噂の会ったこともないサナを娶るくらいなら、最初から馴染みのあるマリアンヌを妻に迎えていればよかったのに。どうしてアルベルクは、それをしなかったのだろう。


「はぁぁぁぁ……。イラつくわ、本当に」


 纏めた髪を乱暴に解きながら、行き場のない悲しみと怒りを抱えて、不貞腐ふてくされたようにその場で横たわる。我慢していたはずの涙が溢れ、絨毯じゅうたんに染みていく。ぼやける視界。サナはアルベルクに思いを馳せた。

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