第18話 ライバル現る

「ふふ、ふふふ、へへへ」


 エルヴァンクロー公爵夫人の執務室には、魔女さながらの気味の悪い笑い声が響いていた。ほかでもないサナの笑い声だ。彼女の目の前には大量の資料が積み上がっている。既に正午だが、仕事量は朝から一向に減っていない。


「奥様」


 サナはすぐに我に返る。目線を上げた先には、エリルナが。


「昼食の時間です。食卓の間に向かわれますか? それとも執務室で召し上がりますか?」

「コホン……。食卓の間に行こうかしら」


 サナは咳払いしたあと、そう答える。席を立ち、エリルナと執務室を出た。斜め後ろを歩く彼女の様子をうかがいながら、歩を進める。


「何か仰りたいことでもあるのですか?」

「ふぇっ!?」

「先程から私の様子を気にしておられるので」


 様子を窺っていたことがバレていたらしい。やはりエリルナには敵わないと感じたサナは、苦笑を浮かべる。


「その……さっきの笑い声、もしかして聞いてた?」

「……笑い声というのは、気味の悪い声のことでしょうか?」

「き、気味悪かったかしら……」

「奥様を知らない方が聞いたら、おぞましいと感じてしまうでしょうね」

「そんなに?」


 エリルナは頷く。


「まぁ、仕方ないわよね。だって先日は、アルベルク様とのデートだったんだから!」


 サナは両手で頬を包み込み、体をくねくねと動かす。エリルナから氷点下の眼差しを感じるが、まったく気にしない。なんて言ったって、サナの機嫌きげんは最上級に良いから。


「奥様。その話は、既に五十四回目です」

「あら本当? 嬉しすぎてついつい話しすぎちゃうのよね」


 そう言うと、エリルナは「仕方ないですね」と言いたげに目をつぶったのであった。

 一週間前、サナはアルベルクと初デートした。人生で最も幸せな一日だったと言っても過言ではないほど、サナの心は高揚していた。未だに、その一日のことを忘れられない。


「あと五十回は聞いてもらうわ、エリルナ」

「……勘弁してください」


 サナの宣言に、エリルナは深々と溜息を吐いたのであった。




 食卓の間で昼食を終えたサナは、エリルナと共に廊下を歩いていた。ふと、窓の外が気になり、目を向ける。するとアルベルクが佇んでいた。サナは窓にへばりつくようにして、アルベルクを凝視する。


「今日もかっこいいわ、アルベルク様……」


 甘く呟くと、熱い吐息で窓がくもる。きゅ、きゅっと音を立てながらハートマークを描き、アルベルクに遠隔えんかくで愛を届けた。その瞬間、城の前に馬車が止まる。馬車から降りてきたのは、見覚えのある人物だった。


「あれは……トリンプラ侯爵かしら」


 ブロンズレッドの長髪を後頭部で纏め、アメジスト色の瞳を持った美丈夫、ハーベル・ダ・トリンプラ。エルヴァンクローの家門の中でも、上位の地位を持つトリンプラ侯爵家の当主だ。

 そんな侯爵のエスコートを受けて、馬車から降りてきたのは、見知らぬ人物であった。太陽の光に輝くブロンズレッドの長髪を緩く巻いた美しい女性。夏らしさを感じさせる薄緑色のドレスを纏っている。エメラルドグリーンの眼が印象的な顔立ちは、トリンプラ侯爵とよく似ていた。


「あの方は……」

「マリアンヌ・ダ・トリンプラ侯爵令嬢にございます。御歳20。旦那様の幼馴染のご令嬢です」


 エリルナの説明を受けたサナは、マリアンヌとアルベルクを見つめる。ふたりは仲睦なかむつまじく会話をしている。滅多に笑わないアルベルクが微笑んでいるのを見て、サナの胸にわだかまりが生まれた。

 まるでふたりだけの世界。トリンプラ侯爵やサナでさえ、ふたりの世界に土足で踏み入ることは許されない。そんなオーラをふたりは纏っていた。


「ちなみにですが、トリンプラ侯爵令嬢は未だ未婚にございます」

「え……?」

「婚約者の方がいらっしゃいましたが、すぐに破談になったそうです」


 エリルナの険しい表情を目の当たりにしたサナは、大きな不安を覚えた。

 20歳を迎える貴族令嬢は、既に結婚している、もしくは婚約者がいるのが普通だ。20歳を過ぎた頃に未だ結婚、婚約していない令嬢は、売れ残りだと社交界で後ろ指をさされる。

 なぜ、マリアンヌは結婚しないのだろうか。アルベルクと話す彼女を見つめながら、そんなことを考える。


(誰にだって、理由のひとつやふたつはあるでしょうから、私が首を突っ込む問題ではないわ……。でも、その理由が、アルベルク様にあるのなら……)


 マリアンヌのエメラルドグリーンの瞳に宿るのは、明らかな熱。その熱の正体が、アルベルクへ向ける恋情な気がしてならないのだ。


「エリルナ。変なことを聞いてもいいかしら?」

「もちろんです」

「トリンプラ侯爵令嬢は、アルベルク様のことを……そういう意味でしたっているの?」


 サナの質問に対して、エリルナは首肯しゅこうする。


「恐らく、ですが、慕っておられると思います。昔は割と有名な噂でしたが……旦那様と奥様が婚約期間を設けずご結婚されたと同時に、そんな噂もパタリとなくなりました」


 トリンプラ侯爵令嬢マリアンヌは、エルヴァンクロー公爵アルベルクに恋している。

 その事実は、高揚していたサナの気持ちを殺すには、十分すぎるものだった。

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