第6話 誘いに乗っちゃって!

 初日の仕事が終わる頃には、夜が訪れていた。ぽつりぽつりと星が姿を現し始める頃、サナはおぼつかない足取りで廊下を歩いていた。


「ホェ~……」


 開いた口から間抜けな声と共にたましいが飛び出る。頬はせこけ、顔色は真っ青。時間も相まって、誰が見ても幽霊ゆうれいと誤認してしまうだろう。

 エリルナのスパルタぶりはそれはもう恐ろしかった。前世でもいわゆるブラック企業と呼ばれる会社で社畜生活を送っていたサナでさえ、一日で音を上げるくらいだ。

 エリルナは執事長のハルクの娘であり、代々エルヴァンクロー公爵家を影で支えてきた縁の下の力持ち、リットナー家の直系だ。仕事ができる、熱を持って取り組んでいるとは聞いていたが、まさか教育にまでその熱量を持ち込むとは想像していなかった。本当の仕事人間、本当の社畜は、エリルナかもしれない。


「明日からもあの地獄じごくを体験するのね……。私が過労死したらエリルナのせいよ……」


 ボソボソと独り言を口にする。気を抜いたら腰が抜けてしまいそうになるため壁伝いに長い廊下を歩いていると、前方に人影が見えた。情けない公爵夫人だと笑われないために、なんとか背筋を伸ばす。人影が段々こちらに近づいてくるではないか。恐る恐る顔を上げると、目の前にアルベルクが立っていた。


「ハワ……」


 どこからか入り込んだ風に、黒髪がなびく。無表情なのに美しい顔貌がんぼうに、呼吸するのも忘れて見惚れてしまう。


「公爵夫人としての職務を果たしてくれたと聞いた。ご苦労だった」


 思ってもなかったねぎらいの言葉に、ヒュッと喉が鳴る。

 タイプだ。タイプすぎる。物語の悪役としての務めを果たすためにヒーローであるレオンに執着しゅうちゃくしていたが、実際のサナはアルベルクみたいな男がタイプなのである。どのくらいタイプなのかというと、クールイケメンしか勝たん連合の幹部に名を連ねるほどだ。

 確かに前世の彼女は、恋愛小説〝レオンに恋して〟のファンだった。ヒーローの人間性や風貌ふうぼうが好きというよりかは、ヒロインとヒーローがつむぐ「物語自体」が好きだったのだ。もし、小説にアルベルクが出てこようものならば、彼のファンになっていたと断言できる。


「サナ」

「はいっ!!! なんでしょうっ!?!?!?」

「………………」


 体育会系も恐れ入る大声を反射的に出してしまう。圧倒されたアルベルクは無言になってしまった。


「声が大きいな……」

「申し訳ございません!!!!!」

「………………」


 謝罪する声も必然的に大きくなってしまう。仕方がないだろう。アルベルクに名を呼ばれるだけで、言葉では上手く説明できない感情がぐわっと込み上げてくるのだから。その感情の処理の仕方が分からないため、自然と声量に反映されてしまっているのだが、どうか多目に見てほしい。

 顔を赤らめ羞恥に苦しんでいると、アルベルクの奥、物陰からこちらを見つめるハルクの姿を発見する。


「あら、ハルク」


 ハルクはギクッと肩を跳ね上げ、ゆっくりと近づいてくる。空咳からせきして喉の調子を整え、アルベルクの後ろに立った。そしてもう一度咳払いする。


「………………」

「………………」

「………………ゴホンッ」


 沈黙ののちの咳払い。もう三度目だ。チラチラと主人の方向を見ていることから、何か話すよう促しているのだろうか。ハルクの何かの意志を受け取ったアルベルクは、バツが悪そうな顔をして窓の外に目をやる。


「このあとは……あるのか?」

「……え?」

「だから、その……用事は、あるか?」

「いいえ、特には。夕食を食べて入浴して眠るだけです」


 アルベルクの表情が晴れる。彼の後ろに立っていたハルクが静かにガッツポーズを決めるのを見て、サナは小首をかしげた。


「よければ、一緒に夕食を食べないか?」

「…………へっ!?」

「断ってくれても構わない。強制はしない」


 これは驚いた。アルベルクに夕食を誘われたことがこれまでにあっただろうか。記憶を掘り起こしても、ひとつも見当たらない。結婚して以来、初めて一緒に食べる夕食。その事実に、サナは感慨無量かんがいむりょうとなった。


「一緒に、食べましょう」


 震える声で告げる。決してアルベルクが怖いのではない。彼に誘われたことが嬉しくて発狂しそうなのだ。


「既に夕食の準備は整っております。参りましょう!」


 興奮を隠しきれていないハルクの提案を受け、サナは頷いた。歩き出そうとすると、アルベルクが手を差し出してくる。黒い手袋に包まれたその手を見つめた。


「先程からふらついている。余計な世話かもしれないが……俺が支えよう」


 脳内でこだまする。


(俺が、支えようですって? どこで覚えてきたのよそんなセリフ!!! 体どころか、私の人生まで支えてくれようとしているなんて!!! ただでさえ顔面が最強なのに甘いセリフまで楽々と口にしちゃうなんて反則よっ!!!)


 都合つごうよく解釈かいしゃくしたサナは、微笑ほほえみながらアルベルクの手を取った。いつか手袋越しではなく、生の肌の感触を感じてみたいとニマニマしたことは、ここだけの内緒だ。

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