第5話 今世でも社畜?

 結局一晩中眠れなかったサナは、朝食を済ませるとエリルナが持ってきた悪臭の薬を飲む羽目はめになった。


「奥様。本日のご予定はいかがいたしますか?」


 異臭を放つ薬を飲ませた張本人は、平然と問いかけてくる。サナは口元を拭いながら、熟考じゅっこうした。

 城内にてアルベルクと鉢合わせたくないため、頻繁に外に出かけていた。当然今日もそのつもりでいたのだが、お互いに歩み寄るための第一歩を踏み出すとハルクと約束してしまった。昨晩、ハルクからアドバイスを受けたであろうアルベルクが、サナのもとを訪ねて来てくれたのだ。たとえハルクにうながされたからだとしても、サナの部屋にわざわざ来てくれた事実は変わらない。

 初夜以来、アルベルクを遠ざけていたが、それももう卒業しなければならない。

 婚約期間はなかったし恋愛結婚ではないのだから、彼が自分を好きになるのは難しいだろう。それに、アルベルクの美貌に目を奪われ、彼となら良い夫婦になれる、彼となら体を繋げてもいいという思いを打ちくだかれてしまったとしても、一方的に避けてね続けるのは大人気ない。

 アルベルクにできる限り歩み寄って、それで拒絶されるのであれば、サナの大人気ない態度や言動も許されるだろうし、万が一離婚する時にもこちらに有利に働くだろう。


(そうよ……。やる前から諦めるなんて……ダメよ!)


「今日は公爵夫人としての仕事を片付けるわ」

「かしこまりました。本日も街に………………え? 今なんと?」

「公爵夫人としての仕事をすると言ったのよ」

「……奥様がですか?」

「私がよ! ほかに誰がいるのよ!」


 エリルナは何かを深く考え込む。

 今思えば、公爵夫人としての仕事をしたことは一度もなかった。全てアルベルクやハルク、エリルナに任せていたから。仕事をしなかったからと言って、アルベルクには何も言われなかった。だが、それではダメだ。アルベルクに妻として認めてもらうためには、公爵夫人としての仕事を真面目にこなさなければならない。彼にとってはなんの利益もない妻なのだから、せめて仕事くらいはわなければ。


「そうと決まれば、執務室に参りましょう」

「え? 執務室?」

「公爵夫人のための執務室もございますので、さぁ!」


 エリルナに急かされるがまま、執務室に向かう。サナの気が変わらないうちに机に向かわせなければ、と思っているのだろう。

 到着したのは、サナの自室がある階の端の部屋だった。全体的に落ち着いた雰囲気だ。豪華な部屋、と言うよりかは静かな書斎しょさいと言ったほうが正しいかもしれない。


「奥様、今から、本日の仕事の分の書類を持って参りますので、お待ちくださいね」

「えぇ」

「……ここでお待ちくださいね!」

「分かってるわ」

「…………絶対ですよ!」


(私ってどれだけ信用ないのよ……)


 ようやく部屋を出ていったエリルナを見送り、サナは深々と溜息をついた。執務机を通り越して窓辺に向かうと、広大な街と海を見渡すことができた。絶景だ。


「代々の公爵夫人も、この景色を気に入っておられたのかしら……」


 誰もいない部屋でひとり呟く。

 きっと、全員がこの景色を気に入っていたことだろう。アルベルクの母、サナにとっての義母も……。

 先代公爵夫妻は、既に他界していると聞いている。それも、アルベルクが幼い時に不慮ふりょの事故で。これから両親の加護のもと、すこやかに成長していくであろう時期に、両親が亡くなってしまったのだ。アルベルクもえることのない深い傷を負ってしまったはず。それなのに、彼は幼いながらにエルヴァンクロー公爵家を守っていかなければならないと理解していた。直系ではない分家の者が公爵家の財産を狙う中、アルベルクはそれを全て退しりぞかせ、自らが公爵の座に就いたのだ。物心はついていたといえども、なかなかできる所業ではない。

 両親から受けた愛の記憶も時間と共に薄れていく中、アルベルクは必死に公爵家とリーユニアを守ってきたのだ。全て、ハルクやエリルナから聞いた話だが……。大きな苦労をしてきた彼に、さらに苦労をかけることがあってはならない。どうしてそんなことにも気がつけなかったのだろう。前世を思い出したおかげで、ようやく人間としての成長の道を歩み出すことができた。


「アルベルク様の仕事も片付けるくらいの勢いで頑張らないと……」

「それは心強いですね」


 背後からエリルナの声がしたと共に、重量のある何かがテーブルの上に置かれる音がした。サナは「ひぇ……」と情けない声を漏らしながら、恐る恐る振り向く。テーブルに積まれた大量の書類。前世にて社畜しゃちくをしていた頃の血が騒ぎ始め、全身の細胞が警報を鳴らす。


「早速始めましょう、奥様」


 滅多めったに見られないエリルナの笑顔は、魔王のようであった。

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