第6話 泡沫の悲鳴

 檻から突き出た、乾ききった枝。しかしそれは思い違いだった。 

 枝などでは無い。脚だ。

 どきりと心臓が跳ね上がる。草むらに横たわる動物の死体を見つけてしまった時のような寒気と、目を逸らしたくなる衝動が駆ける。

 唇が乾き、胸の鼓動が早くなる。

 隠されていたものを見てしまったカロンの耳に、再び、あの泡の弾けるような音が聞こえてきた。

「ね……あなた、なの……?」

 四つん這いになって、馬車に身を潜らせながら、恐る恐る尋ねる。

「私に話しかけてきたのは、あなた……なの?」

 小さな泡は弾けるばかりで、言葉らしいものは発しない。その代わり、檻の中にいたがゆっくりと目蓋を持ち上げた。暗闇に刃物が走ったように裂けて現れた二つの緑色の瞳は、しっかりとカロンを捉えたのだ。

 まるで瞳そのものが発光しているかのように思えた。そのくらい、この瞳は暗闇でもはっきりと輝いていたのだ。

 そして、その瞳の持ち主は、カロンとそう変わらない年頃の、やせ細った子供だった。目鼻立ちははっきりとしていて、もう少し肉付きが良かったら、さぞかし美しい子供だったことだろう。きらきらと輝く瞳の色は、長い睫毛に淡くその色を映していて、陽の光を通した硝子玉の影を見ているかのようだ。

 カロンは、しばらくその瞳と無言で見つめ合った。

「……、……ぁ、っ」

「え?」

 先に口を開いたのは、檻の中の子供からだ。ようやく聞いた『泡の弾ける音』ではない『声』に耳をそばだてるカロンであったが、あまりにも小さ過ぎて聞き取れない。

「なぁに?」

「……び、……」

「び?」

 掠れた声と共に、相手の視線が下へと落ちる。つられるように視線を落としていったカロンがはっと息を飲んだ、その瞬間だった。

「何をしているっ!!」

 雷が落ちたような怒声と共に、襟首を乱暴に掴まれ、力任せに後ろへと引き擦り出される。ぐっと喉が詰まる息苦しい感覚に、思わず呻いた。

「い、ぐ……苦しっ……!」

「こいつめ、人の馬車に潜り込んで何やっていやがった!?」

 容赦ない罵声を浴びせてくるのは、あの禿頭の御者である。一言発する度に唾の飛沫がかかる勢いで吼えてくるものだから、カロンの身が竦んでしまったのは言うまでもない。

 さらに悪いことには、男の声で周りにいた旅人達が騒ぎに気付いてしまったのだ。眉を顰めて視線を投げてくる旅人達。剣呑な視線の数々に、恥ずかしいやら怖いやらで、頭の中は真っ白になってしまった。

 しかし、そんな時だ。

 男の声に反論するように、あの泡の弾ける音が馬車の中から流れてきた。男の声には決して適わないけれど、その声は、怯んでいたカロンの良心に訴えかける。

(……そうだ、このまま言われっぱなしじゃ……!)

 あの子供は、自分に助けを求めていたのだ。あんなにボロボロになってもなお、酷い仕打ちをされてもなお、助けを信じて呼び続けていたのだ。普通に喋れるだけの声を無くしても、ひたすら叫び続けた。普通の人には聞こえなかったようだけれど、自分には聞こえた。

 、助けてあげなければいけないのだ。

 大の大人、それも怒り狂っている相手を前に、それはひどく勇気のいることだった。しかし、あの子供の辛さを思えば……。

 この男は決して正しい理由で怒ってなんかいない。それを、周りに知らせてしまえば、こちらに正義がある。

 その時、関所の方から騒ぎを聞きつけた役人達が駆けつけてきた。

「一体、どうしたと言うのだ」

 カロンの喉の手前で溜まっていた勇気が、勢い良くがむしゃらに溢れ出す。

「あ、あのっ! 私、こ、この中に子供が捕まっているのを見たんですっ!」

「……なに?」

 緊張で声が上擦った証言に、役人の顔がしかめられた。いまだにカロンの首根っこを掴む男に、鋭い視線が投げられる。

「それは、本当か? 人身売買なら話を聞くことになる」

「滅相も無い! この小娘が、私の馬車に潜り込んでいたのです。こそ泥の、言い逃れのための嘘です! 適当抜かしやがって!」

 男は実に滑らかな口調で答える。まるで、本当の被害者のようだ。

 困惑気味の役人に、カロンは必死で訴えた。

「ほ、本当です! 声が出せないように、首に大きな傷を付けられていたんです!」

 周囲にざわめきが走った。役人も、この証言には大きく目を剥く。とても信じがたいことだが、目の前の少女が嘘を吐いているようにはみえなかったのだ。

「……商人。申し訳無いが、中を見せてもらっても構わないな?」

「は、はぁ……あの、しかし、日光に弱くデリケートな品物ですので……」

 曖昧に答えながら、男は右に左に目を泳がせた。何かを隠しているのは一目瞭然だ。

 役人が馬車に歩み寄り、割けた幌を掴む。御者の目が固く閉ざされた。

 しかし、あと一歩で悪事が暴かれるというところで突然、まるでそれを遮るかのように、いやに気取った声が役人にかけられたのだ。

「まぁ、待ちたまえよ。ショーン君」

 豪奢な服装から見て、今、ショーンと呼ばれた役人の上司なのだろう。口の上に八の字に生やした髭を指で摘みながら、声をかけた中年の役人は、ショーンの肩に手を置く。

「まずは、手にしたそれを離したまえ」

「しかし……」

「分かったね?」

 話し方や態度からして、きっとこちらの方が上司にあたるのであろう。ショーンは何か言いたげであったが、口を引き結んでそこをどいた。

「ふむ、よろしい、よろしい」

(え……?)

 カロンには訳が分からなかった。ポカンと口を開いたまま、男達の顔を順々に眺める。

 そんなカロンの様子を一瞥すると、髭の役人は微かに鼻で笑った。

「ふぅむ、どれ。君がこそ泥か勇気ある告発者か、私が見てあげようではなぁいか。ショーン君は下がっていたまえ。君は過ぎる。もしも本当に繊細デリケートな品物が入っていた場合、駄目にしてしまったら君はどう責任を取ると言うのだい? ううん?」

「……」

 いやに節のついた口調でそう言うと、髭の役人は何も答えないショーンの横をすり抜けて、馬車の幌を指先で摘んだ。相変わらず、片方の指先は髭を摘んだままである。

 ショーンの眉間に皺が寄る。この上司に、ほとほと嫌気がさしているらしい。

「どぅれ……」

 ピラリと布を小さく持ち上げると、役人はその中に頭を突っ込んだ。そして二、三回首を振ると、首を引き抜いて肩を竦める。

「はてぇ、私の目にはそのようなものは見えませんでしたなぁ……」

「そ、そんな筈無いよ!」

 声を上げるカロンに合わせるように、泡の弾ける音が溢れた。しかし、役人は素知らぬ顔で

「そもそも、馬車に掲げられたこの幕を見よ、小娘」と、髭を指で捻りながら顎でしゃくる。

「この家紋を知らぬとは言わせぬぞ?」

「……ごめんなさい、知らないです」

「ぬわに?! む、ははは! いくら、ちんちくりんの田舎娘とはいえ、知らぬということはあるまい?」

 しかし、カロンはふるふると首を横に振った。村を出たことの無いカロンが見たことが無いのは当たり前である。しかし、それを見た途端に、役人の男のこめかみに青筋がたった。

「こ、小娘! お前は、なんっ……と、非常識な娘なのだ! いや、その教養の無さにはむしろ哀れみさえ覚えるわっ!」

「……ごめんなさい」

「何でも、ごめんなさいで事が済むと思うなよ? いいか、今回はこの私が、慈悲深く麗しい心にて教えてやるから、有り難く拝聴するのだぞ!」

 鬱陶しさ全開である。部下のショーンはというと、片手で顔を覆い隠し、気付かれぬように薄く長々と溜め息をついていた。気苦労の多そうな男である。

 そんな部下の心は露知らず、役人の男は胸を張ると、盛大に咳払いをして語り始めた。

「いいかね、小娘。この家紋は、偉大なるハープギーリヒ家のものなるぞ。分かるかね? ううん?」

 名前くらいは聞いたことがあるだろうとカロンに視線で尋ねる役人であったが、相も変わらずポカンとしているのを見て、苛立たしげに舌を打つ。

「有名な名家であろうに! 何を隠そう、この私もハープギーリヒ家の出身なのだからな!」

「おじさん、そんなに凄い人なの?」

「ああ、そうだとも! 頭が高いぞ、小娘」

「なんでそんなに凄いの?」

「この一帯の治安を守るのは我が一族の務め。正しい交易が行えるのも我が一族のおかげ。清き町並みは我が一族の誉れ。そしてその当主が私。ほらすごい」

 カロンは奥歯を噛み締めた。

「嘘ついて隠し事をする人が、すごいわけない!」

 瞬間、鋭い痛みが左頬に飛ぶ。じわじわと熱を持ってくるそれが、ハープギーリヒに平手打ちをされたからだと気づくのに、時間がかかった。

 赤の他人に頬を打たれたことなど、なかったから。

「まだ言うか」

 言葉を失うカロンに、憎々し気な声が投げられる。

 この失礼極まりない小娘を、地下に繋いでおきたまえっ!!」


「この海を渡りたくばっ!」

 ハープギーリヒは声高に叫んだあと、口元をいやらしく歪ませながら指先で髭を撫でつけた。

「……ここで騒ぎは起こさないでくれたまえ。わかるだろう? ここは彼の北の大国、ルトシェスタ王国の海軍の庇護を受けたロイヤルな港ぞ、ううん? 皆、自由に商売をしたいだろう? 首にお縄など欲しくはなかろう? 私は嫌だねぇ、つまらない理由で自分の亡骸を鳥に啄まれるのは」

 誰も、何も言わなかった。満足げに周りを見渡したハープギーリヒは、よろしいと頷く。

「さぁ、後は頼んだよショーン君」

 そう言い残して、役人は禿頭の御者を連れて、どこかに行ってしまったのであった。

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