第5話 聞こえたのは

 冴え冴えとした青い星の帯が広がる下、旅支度を終えた少女が一人、初めて外の世界に踏み出そうとしていた。

 普段着慣れた服はそのままに、慣れない鞄を下げ、腰には愛用の剣をベルトで吊っている。それだけだった。大人たちは歯がゆそうに少女を見つめていた。

 まっさらな状態とは、なんて曖昧で心もとない言葉なのだろう。必要最低限の水、食料。外で必要になるであろう路銀もない。宿命を背負う者の出立どころか、これでは追放に近い。

 集落の重鎮たちを交えた誓いの礼の、すぐそのあとのことであった。眠っていた者は揺り起こされ、心に不吉な予感を抱えて会議が終るのを待っていた者は声がかかるなり外へ飛び出した。

 一族の者が、皆緊張した面持ちで篝火の揺れる広間へ集まっている。その輪の中心に、カロンはいた。

「……行って、きます……」

 表情を硬くして背筋を伸ばそうと努めるカロンの姿は、健気で、気丈な娘に見えた。だが、見るものの不安を掻きたてる姿でもあった。

 彼らが餞に与えることが許されたのは、ほとんど知恵くらいなものだった。道に迷った時に目指すべき星。獲物を売ったり、特技をいかす路銀の稼ぎ方。生きる術。時間があればもっとゆっくり教えられたのにと、後悔する大人は多かった。

 それは彼女の父や母も同じだった。教えてきたつもりでも、別れを前にして「充分教えた」と言える者などそうはいない。もっと教えたい、傍で見守ってあげたい、そう思うのが常なのだ。だが不安な気持ちを悟らせまいと、あえて頼もしい顔をして、娘の背中を叩くのだった。

 師は、せめてもの旅の無事を祈って、丹念に彼女の剣を研いだ。柄の革を油で染み込ませた布で拭き取り、薄暗がりの中でも光って見えるほどに仕上げた。

「……カロンや、少しお待ち」

 一身に視線を浴びるカロンを手招いて、パオドゥフはある物を彼女の首にかけた。

「爺様、これは何ですか……?」

 かけられた首飾りを手に取りながら、カロンは尋ねる。細く紡いだ若草色の糸を何本も寄り合わせ、複雑に編み込んだ輪の中央に、鷲の羽のような、大きく艶やかな羽が一枚通されている。

 ディーン族に伝わるアミュレットだ。

「旅の行く末を見守るくらい、許されるじゃろう」

 どれほどの御利益があるかは分からないが、パオドゥフはこれにせめてもの想いを託したのだろう。

「……ありがとう御座います、爺様……」

 その想いを感じ取ったカロンは、祖父の筋張った、皺だらけの手を握った。自分よりも大きくて、自分よりも固く温かい手。かさかさとした肌をしているけれど、カロンの大好きな手だった。

 パオドゥフは微笑む。柔らかな孫の髪を撫でてやると、向きを変えさせ、そっとその背を押した。

「……お行き、自分の信じるがままに」

 そして、ここへ戻っておいで。その言葉に、ふと、カロンの中に落ちたものがあった。

 ――そっか、戻ってこられるんだ。

「……はい!」

 一息吸って、カロンは集落の入り口目掛けて駆け出す。後ろを振り向くなんてできなかった。仲間達が送ってくる声援が、さらに追い風のように背中を押してくれる。

 集落の門を抜けても、周りが真っ暗闇の道になっても、ずっとずっと走り続けた。やがて息が切れて、膝に手をついた時。振り返ってみると、集落は既に遠く、小さく。大松が門を赤々と照らしているくらいしか見えなかった。

(本当に、集落を出ちゃったんだ……)

 妙な実感が沸いてくる。空を見上げて、辺りを見渡してみた。濃紺の空は一枚の布のように集落の上の空まで覆っているというのに、ここはもう、自分が足を踏み入れたことの無いなのだ。

「…………」

 弾む息のまま考えた。どうすればいいのだろう。どこへでも行けるし、どうしても良い。広すぎる世界は、自由過ぎて分からないのだ。最初の指針すらない。

 ただ、剣を探すためにどこかを目指さねばならないというのなら……

(今は、歩くしか無いのかな?)

 名残惜し気に集落を目に焼き付けると、カロンは決心したように背を向けた。そして、星空の下を一人歩き出した。


 ふと、感慨深い気分になる。覇王の剣を初代覇王に渡したのは、星の精霊であった。

 星と覇王の剣は繋がりが深いように思える。ならば、この星空の下を歩いていれば、自分と覇王の剣を巡り合わせてもらえそうな気がしてきた。

 根拠の無い思いつきが、勇気を与えてくれる。

 事実、空で淡い白銀の河となった星々は、確実にカロンを導いていたのだ。

 最初の出会い、そして、試練を与える街へと……。


 ‡‡‡


 ――カッタトスの港。大陸の最西に位置する、大陸きっての貿易港だ。

 一年を通して絶えることなく船が行き来し、他大陸からの輸入品も、この街からエルタニオン大陸中に広がっていく。『世界を知りたくばカッタトスを訪ねよ』とは、よく言ったものだ。

 そのような顔を持つ傍ら、過酷な航海を繰り返す船乗り達のための街と言ってもいい。そこら中に酒場が軒を連ね、まだ陽が高いというのに、帰還した船乗り達の陽気な声が聞こえてくる。両開きの扉の隙間からは、愉快な弦楽器や打楽器の音と、吟遊詩人の――海の男が好みそうな軽快で勇ましい――歌が漏れ聞こえてきた。

 捌かれた魚や、種のくりぬかれた野菜が窓や軒下に麻紐で結わえて吊るされ、それを狙う鳥たちは赤瓦の屋根の上を低く旋回をしている。礫の壁には赤く小さな花を植えた鉢が飾られ、踊っては翻る少女たちのスカートのように愛らしく揺れていた。

 人と荷車が激しく往来を繰り返す通りを前に、カロンは呆然と立ち尽くすことしかできなかった。あまりに集落と様子が違い過ぎるのだ。

 自分と同じ髪と瞳の色しか持たない一族しか映してこなかった瞳には、この港を行き来する色とりどりの髪、肌、瞳はとても鮮やかに、眩しすぎるくらいに映る。

 圧倒されたのは視覚だけでない。清閑の地にあった集落とは違い、この街は常に四方八方から音が聞こえてくるのだ。

 荷車の車輪が転がる音、上陸しようとする船乗り達の掛け声、恰幅の良い商人達の談笑、おこぼれに預かろうとする猫の鳴き声……

 何一つ、眠っているものは無かった。

「うわぁ……」

 辺りをきょろきょろと見渡しながら、恐る恐る通りに足を踏み入れる。すぐに、人の流れにそって歩き出さなくてはいけなくなった。背の小さいカロンは、すぐに周りに埋もれてしまう。

(どこに行くのかな、この人達……)

 この流れの行き着く先は何処なのだろうか。空気を求めて上を向きながら、疑問に思った。先を見ようと爪先立ちで歩いても見られないし、足を止めることも出来ない。

 流されるがままに歩き続け、どのくらい経っただろう。ふと、人の間隔が開き、まばらになったのを感じる。

 ようやく確認できた目の前光景に、カロンはピンときた。

(もしかして、これが……)

 沢山の人や馬車が列を成し、一つの門の前で役人達に検査を受けている。

 間違い無い。きっとこれが、話に聞いていた関所なのだ。

 煉瓦造りの壁の横は鉄格子で塞がれており、その隙間から長い橋が見える。潮騒の砕ける音が響く。橋のように見えるここは、悠久の時を波と風によってくり抜かれた天然のアーチでもあったのだ。切り立った崖のくぼみに、海鳥が巣を作り、白い翼を広げて飛び交っている。

 初めて見る迫力のある光景に、圧巻され、心が躍った。集落を出た直後では考えられないことだった。あの先へ行ってみたい。気づけば関所へと続く長い列に並んでいた。

 しかし、高まる鼓動と反比例するように、列の進みはいやに遅く感じる。

(それにしても、ゆっくりだなぁ……)

 決してせかせかとした性格をしていないカロンだが、列の進みの遅さに若干焦らされるような心持がした。なにせ、関所の大きな門は一つしか無いうえ、一組一組、もしくは一人一人門番たちに検分されているのだから、当然といえば当然である。

 仕方無しに、カロンは待っている間、周りにいる人々を観察することにした。

 カロンのような一人での旅人もいたが、どちらかといえばそれは少数派らしく、圧倒的に徒党を組んだ者達や、鮮やかな織物を垂れ下げた馬車が多かった。それぞれ、自分の出身地なり所属している団体を表しているのだろう。少し、祖父のいた部屋に掛かっていたタペストリーを思い出した。

 トゥール、マルシャン、ゴート、ヴァンル、ゴバルド……正直見たところで何処かも知らないのだが、同じ旅人というだけで、どこか身近に感じる。旅における先輩のようだ。

 そういえば、自分の剣の師も、初めてこの門を潜るときは緊張したりしていたのだろうか?

 いや、武者修行の旅に出たくらいなのだから、今の自分のようにキョロキョロと辺りは見渡していなかったかも知れない。あの鋭い眼光が目に浮かぶ。きっと、これから自分が潜るであろう大門を、背筋を伸ばしてじっと見据えていた筈だ。少しでもその落ち着いた姿勢を見習いたい。あくまで、想像の中での姿だが。少しでもあやかりたい。

 ものは試しと、ぐっと胸を反らし、精一杯背筋を伸ばした時だ。


 泡の弾ける音が、鼓膜に届いた。

 幾つもの小さな泡が、ちぶちぶと煮え切らない音を出しながら、連鎖するように消えていく音。この潮騒のなかにあってもくっきりと浮かんで聴こえてくる。

 音にひかれて辺りを見渡してみても、その正体は分からない。また、この音を気にしている様子の人もいない。ただ、聞こえていないだけなのか。

(何だろう)

 絶えることなく囁きかけてくる音に、カロンはいてもたってもいられなくなった。探しに行きたいが、列を抜けてしまえば、また最後尾に並び直す羽目になる。今いるところよりもずっと後ろに列は伸びているのに。

 その葛藤が、意識しない間に態度に現れていたのだろう。

「お嬢ちゃん」

 後ろから声をかけられた。明るく、膨らんだ腹一杯巡ってきた柔らかい声は、カロンを気遣うように言う。

「いいよ、我慢しないで行っておいで。おじさんが、前はとっておいてあげるから」

 濃い眉の下で、目が細められた。どうやら、お手洗いに行きたがっていると思われたらしい。だが、これはありがたい申し出だ。ありがとう御座います、と頭を下げると、カロンは列を外れて走り出した。

 相変わらず、聞こえて欲しいのか欲しくないのか分からない音は鳴り止んでいない。どこから流れているのかも分からない。

 それでも、幸いなことに、森の近くで育ってきたカロンの耳は良かった。葉が擦れれば生き物の位置を感じ取れるし、遠くの小鳥の囀りだって聞くことができる。真っ直ぐにとはいかないものの、ぼんやりと滲んで広がった音への道を、徐々に徐々に進んでいく。

 この人混みの中、不思議なことに、今にも消えてしまいそうな音は常にカロンの耳に届いていた。泡の音だけが、はっきりと輪郭を持っていた。

 音の流れる元を探り当てた時、カロンは意気揚々とそこに向かった。音は、一つの馬車から流れていたのだ。

「ここ……?」

 間違いは無さそうだった。中の積み荷を覆い隠すように、アーチ型の骨組みに沿って張られたがほろがそよぐたび、溢れるように泡の音が押し寄せてくる。

 人の馬車を勝手に覗き込むというのは流石に気が引けた。

 そんな泥棒に間違えられそうなこと、できる筈がない。かと言って、ここで何時までも悩んでウロウロしているのもよろしくない。用も無いのに挙動不審な動きをしていたら、積み荷を狙っていると勘違いされかねないからだ。

 どちらにせよ、今の自分は十分不審者であるに違いない。カロンは後ろめたい気持ちで、内心溜め息を吐いた。

(こうなったら……)

 やらない後悔よりやった後悔の方がいい。かつて、祖父……だったか師匠も言っていたじゃないか。

 意を決して、カロンは忍び足で馬車に近付くと、大きく息を吸って止めた。

 ばっ! と、馬車の入り口を覆う幌を勢いよく持ち上げると、首を突っ込んで中を覗き込む。途端に、ずっと聞こえていた音はぴたりと止んだ。

 やはり、この馬車が関わっているとみて間違いは無さそうだ。

 中は四面を覆われているため薄暗く、目が暗さになれるまでは中がどうなっているのか良く分からなかった。外の賑わいのせいか、唯一光が差し込んでいる御者席――中の荷物を確認する為だろう、御者が振り返って覗ける位置に小さな窓がある――そこに座る禿頭の男も、荷台の変化には気付かないようだ。

 息を詰めたまま、カロンはもう少しだけ身を乗り出してみる。じっと奥に目を凝らした時、その荷台の奇妙さに首を傾げた。

(なにこれ。檻……と、枝?)

 少なくとも、彼女にはそう見えたのだ。檻から、かさかさに乾いた木の枝が飛び出しているように見えた。しかし、暗闇に慣れた目は、驚愕の事実を映し出す。

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