授業『箱庭神話』
苦笑いしながらお兄様は、一つの絵本を私の前に差し出した。
いや……絵本にしては分厚いので、挿絵付きの小説に近いのかもしれない。
タイトルは、『箱庭神話』。
なんだか……一か月前の時間を思い出すなぁ。
椅子は変わっても……この距離感は変わっていない。
「……また、読み聞かせしてくれるの?」
「いいえ、今回は授業ですから」
「そ。ちょっとだけ残念」
「読み聞かせるなら、今度はもっと楽しい物語を聞かせてあげたいですから」
「……楽しみにしてるね」
「とりあえず、第一節まで読んでください。質問があったら、僕に伝えるのも忘れずに」
そう言ってお兄様は、頬杖をついて私を見始めた。
執事の態度としてはどうかと思うが……彼にとって楽な体勢なのだろう。そこに言及する気はない。それにしても、見すぎだとは感じるが……
まぁ、悪い気分はしないので、気にすることなく、紙の摩擦音を図書館に響かせた。
『箱庭神話』
『この世は夢を見た。過去、現在、未来を。この世は彩った。光、影の境界を。……「お兄様、これは?」』
「
『その狭間で混沌は生まれた。過去、現在、未来の子たる混沌は、光の中の影、影の中の光を、境界の中で覗き、その揺らぎを愉しんだ』
「お兄様、『この世』と、『過去、現在、未来』は同じカミサマで合ってる?」
「一般には同等の存在だと、解釈されていますね」
『だが、混沌の愉悦は、過去から現在へ、未来へと夢が進むたびに薄れていった。この世に一が生まれ、全へと近づいていき、それを
「どうして、混沌はカミサマになりたくなかったの?」
「この先の話にも関係しますが……一説として、『混沌』は『得体が知れない恐怖のみ』を快楽とするからと、言われていますね。『神様』への恐怖は、未知ではなく既知への恐怖なので、定義されること自体に嫌悪感を示したと、解釈されています」
「……メンドクサイ性格なんだね、混沌さんって」
「面倒くさくなかったら『混沌』じゃないですよ」
「それもそうだね」
『この世が未来へ歩を進め、『混沌』が名前を得始めた時、死を認識し、恐怖した混沌は、『既知』に溢れたこの世の中に、『未知』という箱を作り出し、箱の中に神を閉じ込め、『混沌』を『既知』へと変える罪人の子を、神殺しの道具、混沌の再来への儀式とした。この罪人こそが、『人間』であり、『未知の箱』が『箱庭』である。──箱庭神話、第一節』
「お疲れ様です。お嬢様」
「……なかなか難しいね」
これだから神話は苦手だ。妙に遠回しな言い方で、頭が痛くなる。
「何か質問はありますか?」
「ここかな……『混沌が名前を得始めた』って所。『混沌』の名前は混沌じゃないの?」
「違う……らしいですね」
「らしい?」
「この『箱庭神話』の中で、この『混沌』の名前は出てこないんですよ。あだ名のようなものは沢山出ますが。例えば……」
ぱららら。
慣れた手つきでページをめくり、指を指すと、そこには『這い寄る混沌』と書かれていた。
「こんな感じで、混沌に修飾した言葉はいっぱいあるのに、本当の名前は出てこないって感じですね。今読んだ第一節に出た『この世』や『黄衣』も同じです」
「ふーん。へんなの」
「そうなんです。この本、創世神話なのに変なんですよ」
お兄様は、語気を強めて解説を続けている。
宗教は苦手だと言っていた彼だが、この物語は別なのだろう。頬杖は既にやめ、立ち上がって私に解説を入れているのだから。
「普通、こういう創世記だったら、地面だったり生き物だったりが作られていく過程が描かれるのに、『箱庭神話』は、すでに生まれたものから始まる物語なんです」
「それが、どうして普通じゃないの?」
「これだと、この世界が作られる前に、すでに世界が既に作られていたような解釈が取れるからですよ。実際、そういった矛盾が現実的に起こっていますし」
「例えば?」
「お嬢様、昼に食べたサンドイッチ、覚えてますか?」
「……うん」
「じゃあ、お嬢様はこれがなんで『サンドイッチ』、もとい『サンドウィッチ』と呼ばれているか知っていますか?」
「え?ものを挟む……『
「分からないんです。世界中のどんな書類を調べても、パンに具を挟んだものを『サンドイッチ』と呼ぶとしか記載されていないんです。土地なのか、人名が由来なのかすら、わからないんですよ」
この時、私はようやく背筋を……寒気が撫でる感触に襲われた。
「まぁ、そんな与太話は置いておいて……」
「こっちはこっちで気になるけど……」
「『語源学』っていう、名称のルーツを調べる学問はありますが……あんまり実社会に役立つ勉強じゃないのでやめた方がいいですよ」
それを研究する学問があることが驚きだ。
「そんなに有益じゃないの?」
「ただでさえ、一般人から『そうなんだ』の一言で済まされるジャンルなのに、難解極まりないですから」
「そんなに?
「調べ方すらわからないものを調べるのは、暗闇で飴玉を探すようなものですよ」
「油断すると潰しちゃいそうだね」
「本題に戻ってもいいですか?」
「うん、大丈夫。いつもごめんね、ちょっとしたことに質問しちゃって」
「疑問に答えるのが、指導の基本ですから。さて、この世界における三大宗教ですが……現在最大の信者をもつ宗教である『
そう言って、彼はペンを指示棒のように持って、先程読んでいた本の文字をなぞり始めた。
彼は本当に優しい人だ。授業という体を取っているのだから、少しは計画を立てているであろうに、それを止めても
心の余裕、という表現が正しいのだろうか。
「……といった感じで、この三大宗教は広まっています。ただ、これらの宗教は、面白いことに、それぞれは神話上敵対している神を信仰にもかかわらず、聖典が同じであるが故に敵対が無いという特徴を持っています。まぁ、『
「なるほど……そういえば、『混沌』の戦火は『黄衣』が鎮圧するって言ってたけど、『
「それは『ナイラ教』が『アザト教』の派生だからですね。元々は信仰する神の違う『黄衣』と『
「んー?どしたのー?」
「いきなり後ろから現れないでくださいよ、びっくりしますから。三大宗教の歴史書を適当にお願いします」
「はーい、じゃあ机に置いておくねー」
かちり。
「ありがとうございます、氷雨さん」
「本を机に置いた時には、もういなかったけどね」
「相変わらずせっかちだなぁ……ちょっと待ってくださいね。えっと……どこだったけなぁ……」
かりかり……
図書館にある音は、心を落ち着かせる中性的な声と、紙とペン。
三つの音が響く一時間半は、私の知識をより深め、探求心という欲求を満たすのには十分すぎるほどのものだった。
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