1-01b 不思議な迷子

「おねえさん、ねえ、おねえさん、私、迷子なの」


 日本語だ、ときりはホッとしながらも、眉間にしわを寄せた。正体不明の違和感を覚え、探るように相手を見つめ返す。


(「おねえさん」?……こんな小さな子が、あたしのことを「おねえさん」と呼ぶだろうか? たいてい「おばさん」だよなぁ……。いや、「おねえさん」と呼ばれることは大歓迎だ。むしろ嬉しい。気分が良い。「おーよしよし!おねえさんに任せとけ!」なんて言いつつこの子を満面の笑みで保護したいところだが……なんだろう、このぞわぞわする心持ちは? 何か、チグハグだ。見た目と一致しない何かがある。自ら「迷子」と名乗りなが、落ち着き払っている様子もおかしい。それに……)


 やっぱり何か変だ、と霧は続けて考え込んだ。


(あたしは小さな子に懐かれたことなんて、一度もない。何なら目が合った瞬間に泣かれる。まあ無理もない、この人相だもの。切れ長・吊り目の三白眼のせいで、あたしがチラッと誰かを見ただけで、にらんでいると誤解されることはしょっちゅうだ。その上、今日のあたしは全身真っ黒の服。威圧感しかない。つまり、小さな子なら、全力であたしを避けるはず。哀れで心細い迷子なら尚更、声をかける対象ではない!)


 迷子といえど……いや迷子だからこそ、子供は安全で頼れそうな大人を、本能でかぎ分けるはずだ、と霧は思った。例えばあちらの席に座っている上品な老婦人。彼女ならぴったりだ。優しい雰囲気がにじみ出ている。あるいは書棚の前に立っている、あのポッチャリした中年女性なんかもいいな。すごく親切そうだ。――なのになぜ、自分に白羽の矢が立ったのか、と霧はいぶかった。


(この状況は不自然! これは罠……罠の匂いがする!)


 そう、現代社会は至る所にトラップが仕掛けられたサバイバルゲームのようなもの――というのは大げさだが、世の中というのは大なり小なり危険に満ちているものである。何事も慎重に、思慮深く行動せねば、落とし穴にはまりかねない。

 例えばこのあどけない風情の子供は、悪い大人によって何らかの犯罪に利用されている可能性もある。下手に関わると「36歳無職独身オタク女」という世間様から生暖かいで見られる哀れな身の上が、「誘拐犯」という不名誉な肩書きに取って代わるかもしれないし、とんでもない詐欺の片棒をかつがされる恐れだってある。それは霧のようないわゆる「底辺」……いや、社会的弱者にとっては特に、危惧きぐされるべき案件だ。


――しかし、どうしたものか。


 霧は考え込んだ。

 この、自ら迷子だと名乗っている子供を、このまま放置することもできない。本当に、ただの迷子かもしれないのだから。

 そこで、「この子供を保護するべきだが、同時に保身にも回らねば!」と最終決定を下した霧は、顔にぎこちない笑顔を張り付かせ、精一杯優しい声を出しながら言った。


「お嬢ちゃん、あそこに図書館の職員さんがたくさんいるから、『私迷子なの』て、言っておいで。大丈夫、あのひとたちみんな、きっと親切にしてくれる。さあ、行っといで。今すぐ行っといで。さあさあ」


「いや! おねえさんがいいの!」


(ズバッと即答ですか!!)


 霧は「うへぁ」という顔文字のような表情を心の中で浮かべた。そしてそっと辺りを伺う。図書館内にチラホラと散らばっている人たちは、まだ霧と子供のやり取りに気付いてる様子はない。

 霧は静かな声で女の子に問いかけた。


「おうち、どこかわかる? この近所? ここには誰か、大人と一緒に来たんだよね?」


「うん。一緒だった。でもはぐれたの。こっち。こっちよ。おねえさん、早く! 私、おうちに帰りたいの!」


 女の子がぐいぐいと、霧の袖をつまんで引っ張る。

 霧は小さく溜息をつくと、席を立った。その瞬間、子供の目が満足そうにニンマリと歪んだような気がしたが、気のせいかもしれない。その表情は、不安な気持ちを抱えた子供にはおよそ似つかわしくない、奸計かんけいを感じるような笑みだったから。

 霧は子供に急かされながら机の上を片付け、図書館の本を手近な返却ワゴンに置いた。そして本を読みながら活用していた私物の辞書をバッグにしまおうとしたところ、子供がサッと、手をつないできた。


 ――その瞬間、霧は正体不明の衝撃を感じ、眉をしかめた。


 熱いような冷たいような、ゲリラ的に訪れる静電気のような小さな嵐が、手の肌を粟立あわだたせる。その不可思議な感触を消化する間もなく、霧の視界がぐにゃりと歪んだ。

 異様な雰囲気に声も出せず、操られているように霧の足が交互に繰り出され、体が書棚の合間を泳ぐように前へ前へと突き進む。

 書棚の列が伸びたり縮んだりして波打ち、超高速の動く歩道に乗っているかのように視界が後ろに吹き飛んでゆく。

 やがて永遠に続くかと思われた書棚の列が、まばゆい光と共にふいに途切れた。


 ハッと気が付いたとき、そこはもう――見慣れた市立図書館では、なかった。

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