一章 入学旅行一日目

1-01a 平和な読書の時間――それは唐突に終わりを告げる

 古い書物が集まる場所の、独特の匂い。

 時折響く、本のページをめくる音。

 波のように押し寄せる、物語の洪水。

 穏やかに、ゆったり流れる贅沢な時間。


――平日昼間の市立図書館は、まるで現実世界から引き離された、尊いオアシスのよう。


 渡会わたらいきりはそう思いながら、ひたすら読書に没頭していた。

 窓際に一つだけ、ポツンと設けられたお気に入りのいつもの席。空いていたのはラッキーだった。この席なら容易たやすく集中できるし、閉館までに、より多くの本を読み進めることができる。


 読みたい本は、山ほどある。

 どれから手を付ければよいのか、迷うほどに。


 命を質に取られた日常は、いつも霧から時間を奪ってゆく。

 生きるための労働に無為むいに消費される日々の中、霧の「時間ができたら読む本リスト」は、消化されることなくまってゆくばかりだ。


 けれど、今日は違う。一日中、本を読んでいたっていいのだ。

 そして今日だけではない。明日も、明後日も、そのまた次の日も。好きなだけ、読書に時間を費やせる。


 なぜなら現在、霧は無職だからだ。


 長年働いていた仕事先から、契約更新を打ち切る宣告をされたのは、1か月前のこと。店長はただ、「次の更新、しないから」とだけ霧に告げ、彼女はバッサリ切られた。半年更新の非正規雇用とはいえ、酷いものだ。

 仕事仲間がこっそり教えてくれた解雇理由は身勝手なもので、組織内上層部による縁故えんこ入社の人間を迎え入れるため、現在雇っているスタッフを一人辞めさせて、空きを確保する必要があったということだ。それを知った時、霧は最初こそ怒りで心が震えたが、すぐにどうでもよくなった。


(そりゃあね、あたしはもう36歳だしね。誰か一人切るなら、スタッフの中で一番高齢のあたしだわな。しかも店に対する辛口意見も率先して発言してたあたしなんか、年下店長にとっちゃウザい目の上のたんこぶ。クビにするいい機会だ、ってなもんだよね)


 霧はそう思いながら、脱力した。怒りはすぐさま、諦めに変わる。彼女は不当な扱いに、慣れ過ぎていた。親ガチャ大ハズレの霧にとって、人生はまるで、罰ゲームのようなもの――抗う気力すら、もう無い。


(なぁ~に、クビだって悪いことばかりじゃ、ない。おかげで時間ができた。この機会に、読みたかった本をっ片っ端から読んでやる。むしろ良かったんじゃないか? こりゃ、神さまからの「好きなことをして過ごせ」っていうお告げかもしれん! うんうん、そういうことにしとこ!)


 そんな風に切り替えた霧は、勤務最終日を迎えるまでの1カ月をわくわくしながら過ごし、遂に自由の身となったこの日を迎えたのだ。


(家賃? 食費? 電気代? 水道代? 明日への不安? そんなものはすべてくそくらえ。求人情報、おとといおいで! ハハッ!)


 半ば自暴自棄になりながらも、冷めた気分で人生を保留箱に入れ、霧は今、自分の心に最も必要なものを補充しに来たのだ。そう、ここ、本の溢れる図書館に。


 その生い立ちのせいか、霧には生への執着というものが希薄だ。行けるところまで行ったら、もういつ終わってもよい、と思いながら生きてきた。

 とはいえ、したいことが無いわけでは決してない。

 霧の望みは、この世界に数多あまた存在する物語たちと出会い、それらと触れあうこと。読み尽くし、味わい尽くし、想像力の許す限り思い描き、物語の世界にダイブする。それを継続するのが、霧の望み。だからまだ、自ら命を捨てるわけにいかない。

 この体がまだ温かいうちは、絶望に酔ったりせず、心が心地よいと感じるもので満たそう――霧はそう、決意していた。


 心の奥にある泉は枯渇こかつして、渇いた人生にはヒビが入っている。

 彼女は今、その場所に水と栄養を注ぎ始めた。

 浴びるほど活字を摂取し、物語という料理に舌鼓を打ちたい。

 その願いを実行し、霧はひたすら心の中の大切な領域に、糧を蓄えていった。


 そうやって読書に没頭し続け、日が陰り始めた頃。

 霧はふと、すぐそばにたたずんでいる誰かの気配に気付いた。

 本から目を離し、何気にかたわらに視線を移すと、そこに小さな女の子が立っている。たちまちその子と目が合った霧は、ギョッとした。


(えっ、何?! 何なの、この子?! めっちゃ、こっち見てるんだけど!)


 5~6歳くらいだろうか。瞳の色は榛色はしばみいろ。薄茶の髪を三つ編みにして、両端に垂らしている。その外見は明らかに日本人ではない。

 女の子はぱっちりした大きな目で食い入るように霧を見つめ、声をかけてきた。


「おねえさん、ねえ、おねえさん、私、迷子なの」

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