第31話 宴会
防府に戻ると、津軽の提案で、杉厩舎を交えて三厩舎合同で忘年会をやろうということになった。
前回、合同宴会をした防府駅前の『居酒屋 ふく丸』に多くの厩務員が集った。
服部は琴美と一緒に来たのだが、到着するやいなや大浦に絡まれ原に挟まれて、さらわれた村人の状態になった。
前回、酒に完璧に呑まれた女性陣は、調教師三人の前の席で調教助手と主任に挟まれ完全監視体勢を敷かれた。
津軽が立ち上がり『砂王賞』優勝おめでとうと言うと、開場は一斉に乾杯の大合唱で大盛り上がりになった。
「今日の朝刊にどえらい事が載ってたな。八級昇級初年度の成績を岡部が塗り替えたらしいで」
俺も見たと杉も大喜びで麦酒を呑んだ。
それまでは藤田先生の四位が最高だったらしい。
「まさか二位だなんてね。びっくりですね」
「さすがに秋山は抜けへんかったか。伊達に雷雲会の次期筆頭いわれとるだけの事はあるな」
そもそも岡部たち昇級組は最初の二か月は開業準備と初期調教に費やさないといけない。
それでももし『白浜賞』で優勝していたら首位も狙えたのだから、いかに岡部厩舎が凄かったかという事であろう。
「武田も五位やったらしいからな。そのせいで七位が昇級する異例の事態になったて書いてあったで」
お前はどうなんだと津軽が杉を見るともう寝ていた。
津軽は岡部の顔を見て大笑いした。
そんな杉も八位と大奮闘であった。
「しかし『砂王賞』は強かったな! いつもみたいに最後垂れへんかったし」
「雪で下が湿ってたのが良かったんですよね。もちろん脚力を上げる調教も加えましたけど」
砂が湿っていつものように脚を取られなかった分、坂の上りで体力を奪われなかったと岡部は分析している。
『金剛賞』の時も梅雨入りで前日までしとしと雨が降っていた。
逆に『
そこからすると恐らくパデュークの産駒は重に弱く乾いた砂を好むのだろう。
「そやけども、服部も坂上りきるまで、かなり追い出しを我慢しとったな。大浦も何遍も『菊花杯』の映像見てそれに気づいたらしく、同じようにかなりまで我慢したようやが」
「大浦さんも勝つ気満々だったんですね」
「そらそうやろ。俺も先輩の意地見せ付けたらんかいって煽ったったからな!」
津軽は大笑いしながら大浦の方に視線を移した。
岡部もつられて視線を移す。
大浦は原と二人でがははと笑いながら、服部を挟んで酒を吞みまくっている。
「仕掛けが服部は絶妙でしたからね。秋山さんの
「それ、服部に言うてやったんか?」
「まさか。そんなの僕より服部の方がわかってますよ。未だに粗削りのままですから、どこかで迷うこともあるんでしょうが」
変に照れた顔をする岡部を見て、津軽は良い師弟関係だとからかった。
石亀主任も弘中主任もうんうんと頷いている。
「そういえば、来年、松井と一緒に平岩が上がってくるな」
「そうみたいですね。坂さんは惜しかったですね、六位だなんて。しかも結構僅差で」
「大須賀、松本も上がってくるそうやな。これで『五伯楽』が全員八級やって記事になっとったわ」
西国の首位は松井、平岩は三位だった。
東国は首位が大須賀、二位が僅差で松本という結果だった。
「うちの会派としては、やっぱり櫛橋さんでしょ」
「おうおう! あの気の強そうな姉ちゃんな! 実習競走かなり好成績やったらしいな!」
新聞の記事によると、六回の実習競争で首位が四回、二着一回、三着一回と抜群の成績だったらしい。
「中継は観ました?」
「観た、観た! あの竜、良え末脚しとったやないか! あと、あの騎手の娘がかわいいって評判になっとるな」
「みたいですね。報道のおもちゃにならなきゃ良いんですが」
名前は
新聞や会派の会報での写真を見る限りであるが、目が大きく鼻筋が通っていて、まだ少しあどけなさは残っているものの、かなりの美形である。
岡部は最終の実習競争を防府の食堂で観ていたのだが、声が高くて可愛いと競争後の会見を見た人たちの間で話題になっていた。
「仮に報道からあの娘が悪戯されたとしても、あの姉ちゃんが何とかするやろ。お前と一緒でかなりの報道嫌いらしいからな」
櫛橋は冷たく見える顔をしている事を気にしているらしい。
下見も中継で映ってしまうので、できることならやりたくはないと戸川厩舎時代に言っていた。
報道が嫌いというより、恐らくは写真を撮られるのが嫌なのだろう。
ただ、松井はそんな櫛橋を何度も可愛いと言っていた。
思い出してみると松井の奥さんの麻紀さんと似た雰囲気を感じる。
「最低限の取材しか受けへんって記事になっとったで。お前と一緒で『セキラン事件』の当事者やからしゃあないって」
「そういうとこ巧いんだよな……あの人」
岡部が渋い顔をすると津軽は大笑いした。
翌日、
助手席には梨奈が、後部座席にはあげはが座っている。
梨奈はかなりお腹が大きくなっており、何をするのも大変そうである。
できれば長時間の移動は避けたいところであった。
だが、岡部とあげはは年末に豊川に行かねばならず、年末年始は梨奈を皇都で預かってもらうのが最適ということになった。
あげはは年末年始は皇都の大宿で過ごすことにしたらしい。
それを聞き最上も皇都までやってきて既に宿泊して待っているのだそうだ。
年始に戸川家に挨拶に来る予定なのだとか。
あげはを皇都の大宿で降ろし戸川宅へと向かった。
梨奈を車から降ろし家の呼び鈴を鳴らすと、中から少しご機嫌斜めな直美が顔を出した。
「もう! 朝から、あっちうろうろ、こっちうろうろ! ほんま落ち着きが無いんやから!」
直美の愚痴を聞きながら岡部と梨奈が客間に行くと、戸川がしゅんとして新聞を読んでいた。
「ただいま帰りました」
「遅いやないか! おかげで母さんにどやされてもうたやないかい!」
戸川が口を尖らせて拗ねた顔をするので梨奈がくすくす笑い出した。
「申し訳なかったです。手土産を購入してたら遅くなってしまって」
「そんなもん良えから、はよ来たら良かったのに」
「ほう。これを見ても、そんなことが言えますかね?」
岡部は、お土産の中から『
「こ、これは! だ、獺祭やないか!」
「新年に会長夫妻が挨拶に来るそうですから、そこで開けましょう」
そう岡部は言うのだが、戸川は獺祭から視線を外さない。
獺祭は一合の瓶に入った物が三本ひとまとめで箱に入っている。
戸川は何の差があるのだろうとぶつぶつ言って、それを一本一本眺めている。
「三本あるんやろ? 一本くらい良えやないか! 今日呑もうや!」
直美がそんなに美味しいのと聞くと、戸川は一樽あったら一樽呑める旨さだと胸を張った。
すると味はちゃんとみておきたいと、直美も満面の笑みを浮かべる。
そんな二人に梨奈が呆れ果てた顔をした。
夕方、ささやかな宴会が開かれた。
鱧と蒲鉾を肴に、岡部と戸川と直美はお猪口の獺祭をくいっと呑んだ。
直美は旨くて涙が出ると喜んだ。
三人で呑みはじめると一合の瓶はあっという間に空になった。
すると直美は最初から一本だったという事にしましょうと言って、もう一本開けてしまった。
そんな母を梨奈は非常に冷たい目で見ている。
「お! これさっきの奴と味が少し違うやないか!」
「呑み比べできるように、三本とも違う作り方なのだそうですよ」
二本目も半分を呑んだ辺りで戸川がぽつりと呟いた。
「……なあ、どうしても、会長に取っとかなあかんのかな?」
それを聞いた梨奈が、父さんは最低だと軽蔑の表情をした。
全部呑みきってしまえば、わからないと思うと直美が瓶に手をかける。
二人とも何考えてるのと梨奈は怒ったのだが、呑み比べで一本だけ開けないというのもねと岡部が言うと呆れ果ててしまった。
米酒を呑み終わると直美は満足顔で片付けを始めた。
梨奈は毛布を掛けてこたつで横になっている。
「ほんまに出産に耐えきれるんやろか……」
戸川は梨奈を心配そうな顔で見つめた。
「切開する方向らしいですね」
「体力的に分娩は絶対に無理やろうからな。問題はそこまで持つんかいうところやな」
岡部が梨奈の頭を慈しむように撫でると、戸川も何となく微笑ましい気持ちになった。
「もしかしたらかなりの早産になるかもって言ってましたね……」
「まあ、そうやろうな……無事産まれてくると良えけどな」
戸川の言葉で岡部は、梨奈には本来は兄がいて死産だったという話を思い出した。
「無事産まれたとして、育児ができるのかというのもありますね」
「それは無理やったら母さんに防府に行ってもらうんやな。どうせ半年程度の事やろし」
「わかりませんよと言いたいとこですけど、現状では武田くんと杉さんくらいしか」
その三人で仲良く呂級に来るんだなと戸川は嬉しそうな顔をした。
「ところで、津軽はどうしとるんや?」
「成績急上昇したそうですよ。うちと杉厩舎、交互に遊びに来て色々学んだんだそうで」
「あれも同じ坂井先生のとこで学んだはずなんやけどな。八級で頭打ちになりおってからに」
あの調子なら呂級昇級は時間の問題と言うと、戸川はどうだかと言って後頭部を掻いた。
「そういえば、斯波さんから聞いたんですけど、坂井先生って、あの斯波詮二先生の厩舎の出らしいですね」
「ああ、そうやで。斯波先生の調教理論を唯一理解した先生って言われとったらしいな」
実は斯波からその話を聞いた時から、戸川に聞いてみたい事があったのだった。
「で、なんで坂井先生って八級止まりだったんでしょう?」
「……それか。その話か……弟子の僕が説明するんは非常に心苦しいもんがあるな……」
戸川は徳利から最後の酒をお猪口に注いで口を付けた。
「君は自分の推論に結果が伴わへんかったら、どう感じる?」
「推論に誤りがあると思って修正を試みます」
「僕もや。そやけど先生は違うたんや。師の理論に誤りは無いはずやって思う人やったんよ」
よく言えば信頼、悪く言えば信奉。
坂井は斯波の調教理論が絶対だと信じ切っていた。
それで頭が凝り固まってしまっていた。
「どういうことですか? 理論は絶対に合ってるはずだから他に悪いところがあるはずだってことですか?」
「そういうことやね。調教が悪いはず、飼育が悪いはずってな。僕もようぶつかったわ」
「で、ぶつかってどうしたんですか?」
「もちろん僕がいつも折れてたんやけども、そのうちアホらしなってな。試験受けて調教師になったんや」
岡部はお猪口に口をつけ、さらに疑問を抱き首をひねった。
「何というか……これまでの、その、『竜に真摯に』だとか『拾い物に福がある』なんていう印象とは、だいぶ違いますね」
「いやいや、人となりは素晴らしい人やったんやで! ただ頭が固かったいうだけで」
方針で少し誤りがあったからといって人格まで全否定するのはちょっとと戸川は笑い出した。
「その後、坂井厩舎ってどうなったんです?」
「僕が開業した五年後に先生が病気で亡くなったんや。亡くなる前の年に厩務員してはった息子さんが、次いで津軽が調教師になったんや」
そこで厩舎は解散になり、残りの厩務員は散り散りになってしまった。
「その息子さんは今どこに?」
「
津軽と一緒で、あれももう何年八級で足止めされているのやらと戸川は呆れ口調で言った。
「津軽さん、そんな話、全然してくれなかったなあ……」
「そりが合わへん感じやったからな。僕から見たら同族嫌悪に見えるんやけどね」
坂井厩舎時代、喧嘩ばっかりしていて、いつも戸川が間に入って仲裁していたらしい。
「さっきの話だと津軽さんって五年後輩なんですよね」
「そうやね。津軽は久留米で、僕らは紀三井寺、津軽が防府で、僕らは福原。おまけに二人とも、ちいとも皇都に上がって来へん」
「そのうち二人とも上がってきますよ」
岡部はてっきり喜ぶと思ってそう言ったのだが、戸川は非常に嫌そうな顔をした。
「僕、君が上がって来はったらそれで良えよ。あの暑苦しい髭面や、師匠そっくりな面を毎日拝みたないもん」
あまりにもしょうもない発言に岡部は大笑いした。
じわりじわりと可笑しくなってきてしまい、暫く笑い続けた。
「ならその前に琵琶湖に行きましょうよ」
「もしかしたら来年上がれるかもしれへんぞ。今、良え竜が集まっとるからな」
「そしたら僕も義父さんを追って琵琶湖に行くまでです」
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