第32話 豊川

 今回、豊川には服部じゃなく斯波を連れて行くことになっている。

それを聞いた松井も、臼杵じゃなく別の者を連れてくことにすると言っていた。

戸川は今年も三浦の要望で牧を連れて行くことになっている。

三浦は中里と櫛橋を連れてくるらしい。



 岡部と戸川は斯波と待ち合わせし、松井たちと牧の到着を待って豊川稲荷へ参拝に行った。


 松井が連れてきたのは新納にいろという厩務員。

年齢は臼杵と同じ歳ということなので、服部、成松と同じ歳ということになる。

かなり軟らかそうな髪質をしており、顔もどこか中性的。

女性だと言われたら信じる者がいそうな見た目である。


 最初、成松と同じく未成年で応募してきて追い返されたらしい。

今年、改めて応募してきて採用することになった。

未成年の時は、ただ単に松井が新規開業だからという理由で応募してきたらしい。

だがその後、松井厩舎に起った惨劇を新聞で知ることとなった。

そこから立ち直ろうとする松井に感銘を受け、一名の募集に応募し、見事採用を勝ち取った。

雑賀さいかと高森が口を揃えて優秀だと言っており、松井は調教師に育てようとしているのだそうだ。


 よろしくお願いしますと新納は頭を下げた。

良い調教師になれるように、しっかり松井君の下で学ぶんだぞと戸川が言うと、新納も松井も嬉しそうな顔をした。


 岡部が斯波を紹介すると、戸川は、あの斯波家のと驚いた。

今年、調教師試験に受かって今うちで研修していると言うと、牧が僕と同じだと嬉しそうにした。


「牧さんの方はどうなんですか? 調教計画の方は」


「ぼちぼちや。去年に比べたら各段に理解できてるよ」


 牧はそう胸を張ったのだが、その後ろで戸川が目を閉じ首を横に振った。

それを見て斯波が腹を抱えて笑い出した。



 豊川の大宿に着くと、今年の受付は氏家家の次女あやめが行っていた。

あやめはきっちりと着物を着こなし、長い髪を結い、若女将の修行中という感じであった。

十代の美少女の着物姿に、おじさんたちはすっかり心を掴まれてしまい、受付は大混乱になってしまっていた。

戸川はそれを見て、混んでるんだから受付終わったやつはさっさと会場に行けと一喝。

筆頭調教師の叱責に人だかりの七割がいなくなった。


「あ、戸川先生! それに岡部先生! お久しぶりです!」


 戸川はあやめに、変なおじさんたちに取り囲まれてすまなかったねと微笑んだ。

あやめは、修行のうちですからと健気に笑顔を振りまいた。


「岡部先生、今年凄かったですね。競技新聞でよく先生の記事読みましたよ」


「ありがとう。あやめちゃんはもう女将の勉強してるの?」


「はい! 岡部先生が所作が綺麗って褒めてくれたおかげです」


 あやめは両手を胸の前で合わせて、腰をくねらせている。


「大丈夫? 修行、辛くない?」


「はい。毎日刺激的で楽しいですよ!」


「それは良かった」


 岡部があやめの元から離れようとすると、極めて不機嫌そうな女性の声が聞こえてきた。


「そこの人! 受付終わったんやったら鼻の下伸ばしてへんで、さっさとはけてくれませんかね?」


「く、櫛橋さん、久しぶりですね。実習競走の中継観ましたよ」


 『実習競争』という単語に櫛橋は過剰に反応し、さらに顔を不機嫌そうにする。

その後ろで三浦と中里が非常にバツの悪そうな顔をしている。


「ふん。どうせ先生も春海はるみ目当てで中継観たんやろ?」


「春海って?」


犬童いんどう春海。うちの専属騎手や。ちょっと若うて顔が良えからって、みんなして鼻の下伸ばして、春海ちゃん、春海ちゃんって」


 櫛橋は振り返り、ぎろりと三浦と中里を睨みつけた。

後ろで三浦と中里が非常に申し訳なさそうな顔をしている。


「僕は純粋に、あの櫛橋さんがどんな竜の育て方したのか気になって中継観たんですけどねえ」


「あらそう。で、どう思うたん?」


 明らかに櫛橋の顔は信じていないという顔である。

どうせ繕った言い訳だろうと。


「良い末脚でしたね。津軽先生もそう褒めてましたよ。強いて言えば、ちょっと仕掛けが遅かったようにも思えましたけど」


「おお、さすがやね! よう見てるやないの!」


 本当にちゃんと竜を見てくれたとわかり、櫛橋はぱっと表情を明るくした。


「仕掛けって騎手の勝負勘だから、今のままだとちょっと取りこぼしが出そうですよね」


「そうなんよ! ほんま岡部先生だけやわ。鞍上のケツやのうて、真面目に競走観てくれたんわ」


 櫛橋は呆れ顔で中里と三浦を見てから、笑顔で岡部の顔を見た。



 受付を済ませ会場に入ると、櫛橋はちょっと良いかなと言って岡部の袖を引っ張った。


「先生、実はちょっと相談があるんよ……」


「何かあったんですか? なんだか、ずいぶんとご機嫌斜めみたいですけど」


 櫛橋は大きくため息をつくと、少し頬を赤らめぼそりと呟いた。


「一昨日、妊娠が発覚したんよ」


「それはおめでとうございます!」


 二人の間にしばし沈黙が訪れた。

さすがの岡部も、ぱっとは事態が飲み込めなかったらしい。


「……え? この時期にですか?」


「そうなんよ! この時期になんよ! ほんま最悪やわ!」


 櫛橋は怒りを込めるかのように言った。


「どうするんですか。これから開業だってのに」


「そやから、今こうして先生に相談してるんやないの!」


 あの二人では役に立たないと櫛橋は恨めしそうに三浦と中里を見た。


「開業を遅らせるというわけには?」


「そないな事したら、その間春海が自由騎手みたいになってまうやないの。そない可哀そうなこと……」


 それに開業が遅れた新規開業の厩舎の求人なんかに、中々応募してくれる人などいない。

そうなると開業しても規定の竜を受託できなくなってしまう。

竜はどんどん歳をとってしまって、最終的に竜主に迷惑がかかってしまう。


 櫛橋の説明は容易に想像できるだけに、岡部も返答が難しかった。


「当面は朝の数時間だけ出勤して調教計画だけ立てて、他の業務は中里さんに代行してもらうしかないんじゃないですかね」


「そやけどさ、出産したら今度は育児やん。小田原やとどっちの両親も家離れてるから頼られへんのよ」


 夫の中里が業務を代行という事になれば朝は一緒に出勤しないといけない。

つまりはその朝の数時間、赤子の面倒を誰が見るのかという問題が出てくるのだ。


「赤子の鳴き声は竜に悪いって聞きますからね。厩舎で育児ってわけにもいかないでしょうし。これはかなりの難題ですね……」


「せめて競竜場の横に保育所が無いもんやろか……」


「じゃあ大女将に相談してみましょうよ。保育所作ってくれるかも」


 こちらは本気で相談しているのに、岡部の回答が軽くていい加減なものに感じ、櫛橋はかなり不快感を感じた。

じっとりした目で岡部を睨んでいる。


「ちょっと! もうちょい真面目に考えてくれる? 箱だけ作ったらよしいうもんやないことくらいわかるやろ?」


「今うちの妻も妊娠中で、実はちょっと前からそういう話題自体出てるんですよ。だからあの方たちならもう何かしら考えてくれてるかも」


「そやったんや。わかった。ほな淡い期待抱いて後で挨拶行ってみるわ」


 すっかり櫛橋の機嫌が良くなったのを見て、中里と三浦は安堵した顔で岡部にすまなかったと謝った。



 会場の扉が閉められると、戸川、松井、櫛橋が挨拶で連れていかれた。

最初に最上会長が挨拶をし、戸川が挨拶後に乾杯の音頭を取ると、会場全体から乾杯という声が響いた。


 最上と戸川が壇上を降りると、次に昇級調教師の挨拶となった。

まず平岩が挨拶し、次に松井が挨拶した。

最後に開業調教師として櫛橋が挨拶した。

平岩は防府、松井は福原、櫛橋は小田原にそれぞれ配属になるということだった。


 調教師の挨拶が終わると義悦が壇上に上がり、三宅島興産の話と止級運搬船の説明をした。



 一通り壇上の挨拶が済むと、斯波が、叔父の斯波詮利調教師を連れて岡部に挨拶にやって来た。


「岡部君、詮人の研修を引き受けてくれてありがとう!」


「いえ。僕も自分のやり方以外を知りませんし、今後、部下の教育の練習にもなりますから」


 ただ迷惑をかけたわけじゃなく、岡部君の役にたっているのなら行かせた甲斐があったと言って斯波調教師は微笑んだ。


「しかし、詮人からちょくちょく話を聞くんだけど……いやはや」


「何かありました?」


「そりゃあ昇級初年度から重賞制覇するよって思ってね」


 斯波調教師の笑顔は明らかに引きつっている。

どうやら自分との調教の理論の水準の差に恐れ入っているらしい。


「僕、結構、八級が得意かもしれませんね」


「これはこれは……夏空三冠取った調教師が得意とは。来年の結果が楽しみだね」


「斯波さんには来年一年かけて、じっくり学んでもらえればと思っています」


 斯波調教師は俺が代わりに研修に行きたいくらいだと笑った。



 斯波調教師が別の所に挨拶に行くと、入れ替わりに久留米の調教師たちが挨拶に訪れた。

昇級初年度から凄かったなと千葉が岡部の背中をパンパン叩いて喜んだ。

そこに松井と平岩がやってきた。


「おかしなもんだ。俺は去年六位だったんだぞ。何で今年三位なんだよ。松井だけならまだしも二年目の奴にまで抜かれて。悔しいったらないよ」


 平岩がぼやくと、坂が、去年九位なのに六位で昇級できなかったと言ってふて腐れた。


「平岩さんは防府でしたよね。津軽さんと杉さんとでお待ちしてますよ」


「お待ちしてますよって……どうせ再来年には皇都に行ってしまうじゃないか」


 平岩がそう指摘すると、松井がでしょうねと言って大笑いした。


「そうしたら皇都でお待ちしています!」


「俺が必死になって皇都に行った時は、お前は確実に大津じゃないか!」


 その平岩の指摘に、久留米の調教師たちは一斉に笑い出した。


「そうとは限りませんよ! 皇都で足止めくらうかも」


「俺が防府で足止め食う確率の方が圧倒的に高いわ!」


 松井がでしょうねと言って笑い出すと、平岩は松井を睨んだ。


 千葉たちは、その会話を腹を抱えて笑っている。


「笑ってますけど千葉さんたちはどうなんですか?」


「うわ……藪蛇や……僕たちも頑張ってはいるんやで。少し時間がかかってるいうだけで」


 千葉がしどろもどろで返答すると、高木と神代は後ろを向いてしまった。


「で、今年何位だったんです?」


「……二八位や。いやな、これでも去年からしたら大躍進なんやで!」


 顔を引きつらせながら必死に言い訳する千葉に、岡部はため息をついた。


「ちゃんと情報交換してるんですか?」


「しとるよ! お前の言うた事はちゃんと守って実践しとる! そやから大躍進なんやろうが」


 背を向けている高木と神代は背を丸めて何やらぼそぼそと言い合っている。

千葉はそんな二人を恨めしそうな目で見る。


「目途は付いてるんですか?」


「三人とも付いてはおるんや。ただな、中々、突発の事象に対処できへんくてな……」


「つまり応用が効かないと」


 岡部が松井の顔を見ると、松井は困り顔をして首を傾げている。


「お前がおってくれたら、お前に聞いてどうとでもなるんやろうけどな……」


「松井くんに聞かなかったんですか?」


「聞いとるよ! そやけど毎回怒られんねん! そうなる前に前兆で聞きに来いて」


 松井と岡部は顔を見合わせ、同時に笑い出した。


「笑いごとやないねんぞ! 来年はその松井もおらへんねん。心細いことこの上ないわ」


「……千葉さん、今年、開業何年目でしたっけ?」


「聞くな聞くな。心細いもんは何年経っても心細いんや!」


 高木と神代が背中を丸めて笑いあっている。


「お・前・ら! 他人事みたいに笑いくさってからに!」


 千葉が高木と神代に拳を振り上げて怒った。



「松井くん福原なんだね……」


「そうだな。また暫くお別れだ」


 松井は遠征で会えるんだから寂しがるなと言って岡部の肩に手を置いた。

 

「それより、その、福原って……」


「そんな顔すんなよ。あいつらはもう会派も違うし、赤の他人だよ」


 それに福原には武田くんがいる。

きっと何かあっても武田くんが味方になってくれる、そう言って松井は微笑んだ。


「それなら良いんだけど」


「俺は心に覚悟が無かったんだよ。久留米でその事を嫌というほど思い知った。今後は自分の厩舎は自分の手で全力で守ってみせる。その為の術は君から色々学ばせてもらったからな」


 松井は岡部の肩に腕をまわした。


「こっちに来たら武田くんと三人で一杯やろう。約束だぞ!」


「武田くんと二人でこっちに来てくれても良いんだよ?」


 ごく自然に挑発してくる岡部を松井は鼻で笑った。


「言うじゃないか! 絶対、来年中にそっち行ってやるからな! 君の覇業を邪魔してやるから覚悟しろよ!」


「いや、覇業って……」

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