第3話 目算
翌週、水曜の朝、三浦調教師が清水主任を連れて戸川厩舎にやってきた。
時間的にどうやら始発の高速鉄道で来たらしい。
「おう! 中里はちゃんとやってるか!」
「あ、三浦先生! 中里さんなら竜房にいますよ」
どうやら三浦は、事務室で櫛橋と中里が椅子を並べて、いちゃいちゃしながら勉強しているのを想像していたらしい。
だが櫛橋は岡部と椅子を並べて調教計画の指導を受けている。
「おお、岡部! ん? なんだ、櫛橋が指導してるんじゃないのか」
「櫛橋さんの授業は質が高過ぎて、まだ中里さんではついて来れないでしょ」
まずは基本をしっかりと押さえてもらわないと。
そう説明する岡部に、三浦は確かにそうかもしれんと言って一応は納得した。
納得はするが釈然とはしないらしい。
「櫛橋、期間中に中里をみっちり仕込んでくれよな」
そう言って、ちゃんと櫛橋が中里を教育するように釘を刺したのだった。
「そう思うんやったら、厳しいからって泣き言言うて逃げ帰らへんように、先生からちゃんと釘刺しといてくださいね」
櫛橋がくすくすと笑うと、三浦は豪快に笑い出した。
「泣いて帰ってくるような根性無しは、うちの厩舎には必要ないから戻って来なくて良いよ」
温かい珈琲を淹れた長井が、二人に寒かったでしょうと言って差し出した。
「牧の方はどうですか? 迷惑かけとらんでしょうか」
「あれは中々に良い感性してるな。岡部ほどじゃないにしても騎乗の姿勢が綺麗だよ。喜入もよう褒めてるよ。彼に刺激されて、あんなに渋ってたうちの若いもんが騎乗練習する気になってくれたしな」
おかげで厩舎に活気が出たと三浦は嬉しそうに言った。
「どうです? 研修期間中に若い人ら乗れるようになりそうですか?」
「一からだから難しいんじゃないかな。だいぶ厳しくやられてるらしく、やれ腰が痛い、太腿が痛いと泣き言ばかり言ってるけどな」
岡部が牧さんも最初そうだったと言うと、みんな最初はそうだよと三浦は笑い出した。
こう見えて三浦先生は昔騎手だったんだと長井が言うと、岡部と櫛橋が三浦を見て無言になった。
「何だ岡部、櫛橋、何か言いたい事があるならはっきりと言え!」
三浦が二人を恫喝すると、岡部も櫛橋も無言で首を横に振った。
それを見て長井と清水主任が大笑いした。
「今回の研修だけで駄目なんやとしたら、定期的にやってもらわなあかんですね」
「夏休みにまた来てもらおうと思っているよ。そこで一月みっちりやれば調教資格取れるようになるんじゃないかな」
中里もそこでもう一度研修してもらって、帰ってきたら実戦研修だろうかと三浦は櫛橋を見て言った。
三浦が岡部たちと歓談していると、中里が池田に連れられて竜舎から帰って来た。
三浦と清水が、しっかりやってるかと中里を激励する。
「はい先生! しっかり学ばせてもらってます!」
「しっかりと知識を持って帰ってきてもらわんと困るからな」
三浦は中里の肩をがっちりと掴むと頼んだぞとじっと目を見て言った。
「毎日、帰ってからその日の分をまとめています。ほんの少しでも無駄にしないように」
「そうかそうか。帰ってきたらそれを広めてもらわないとだから、そのつもりでな」
中里は背筋を伸ばして返事をした。
三浦が中里に何やら耳打ちすると、中里は耳を赤くして照れた。
戸川が事務棟から帰ってくると、三浦は岡部と戸川に話があると言い出した。
大切な密談だから誰も会議室に近づけないようにと櫛橋に伝言すると、三人分の珈琲を持って会議室に向かった。
「戸川、櫛橋を手放す決心はついたか?」
開口一番、三浦はそう戸川に尋ねた。
「そないに櫛橋を調教師にしたいんですか?」
「ああいう才能を適宜調教師に上げて行かないと、紅花会の質は上がらないんだよ」
それは重々承知していますがと言って、戸川は渋っている。
「何とかして伊級の調教師を出さんとというんはわかりますけども。なにも嫌がっとる娘を……」
「嫌がってるわけじゃない。色々要因があって自分には無理だって言ってるだけじゃないか」
三浦の指摘に岡部が、確かにそういう言い方をしている時もあると戸川に言った。
「結婚やら何やらを言い訳にしてるのは、自分だけで上手くやっていける自信が無いだけだ。ならば、あの娘を支えられるやつを横に置けば良いだろ」
「それが中里と……そしたら櫛橋の次は牧ですか?」
戸川は非常に渋い顔で三浦を見ている。
岡部は何となく戸川が何を危惧しているかわかる気がした。
減った人員は新人で補填しないといけない。
せっかく良い雰囲気になった厩舎の風をハズレの新人で濁らせたくないのだろう。
「うちらからも誰か出したいが、如何せんそこまで成熟してない。俺が元気なうちにどんどん後続を出していきたいとは思うがな」
「うちらが水を流さな、どんどん滞って腐っていくいうんはわかりますけども……」
言いたい事はわかるし、賛同もできるが、積極的にはなれない。
戸川の表情からするとそんなところであろう。
「俺は岡部で実感した。良い調教師候補を育てるのが、どれだけ会派にとって活性剤になるのか」
僕で何かあったんですかと岡部が尋ねると、三浦は何も聞いていないのかと逆に驚いた顔をした。
「先日豊川で騎手候補が入学したと言っただろ。あれ、お前の下でやれるかもしれんって入学したんだそうだ」
戸川もそうなんだよと頷いている。
「この先も岡部が活躍したら、それを見て騎手を目指すやつが出るかもしれんし、調教師を目指すやつが出るかもしれん。それをうちらがしっかり教育して送り出していくんだよ」
その為の交換研修だし、その為に竜に乗れる者を多く用意する必要がある、そう三浦は力説した。
「それもわかるんですけどね、なんやったら牧でも良かったんと違いますか?」
「二番手は櫛橋だ! これは絶対だ! うちとお前のところ両方で人気の岡部と櫛橋を次の世代の旗頭にするんだよ!」
戸川は頭では納得しているのだが、どうにも乗り気になれないという感じである。
ここ数年、級の昇格者が出ていない現状をちゃんと考えるんだと、三浦は戸川に喝を入れた。
午後、『金杯』の決勝の竜柱が発表になった。
『サケサイヒョウ』は六枠十二番、予想人気は二番人気。
『サケクラマ』は三枠六番、予想人気は四番人気。
予想一番人気は八枠十五番『風神 ジョウイッセン』。
その日の夕刻、戸川たちは皇都の大宿に呼ばれ激励会に参加した。
最上も義悦も、大手を振るって岡部に接することができるとあって、戸川たちが到着する前から待っていたらしい。
岡部の姿を見ると二人とも大喜びであった。
「岡部先生! 待ってましたよ!」
義悦は駆け寄って来て岡部と握手した。
「あれからどうですか? 少しは何か見えそうですか?」
「大山は何か感じるものがあったらしく、しきりに発想の転換って周囲に言っていますよ」
発想の転換をしないといけないと言う事は、それだけ研究が煮詰まってしまっていると言う事であろう。
「だけど、これだけ二人で苦労してますからね。私が経営から抜ける頃には、きっと大山が中心になって経営できるんじゃないかなって思ってますよ」
「会長からしたら一番望んでる結果かもしれませんね」
そう言って岡部が最上を見て微笑むと、最上も頷いて微笑んだ。
参加者が宴会場に入ると、既に料理が用意されており、最上は乾杯の音頭を取り各々呑んでもらった。
当初は楽しく歓談していたのだが、最上のとある一言が波乱を巻き起こす事になる。
場が荒れた一言、それは『サイヒョウ』と『クラマ』どちらが期待できそうかという問いであった。
戸川と三浦は互いに見合うと、ほぼ同時に自分の竜の名前を挙げた。
それを見て最上は、しまったという顔をした。
「予選の強さからしたらうちの『クラマ』の方でしょう。『天狼賞』には間に合わなんだが、今の『ジョウイッセン』相手なら良い勝負ができるでしょうな」
「いやいや、三浦さん。『サイヒョウ』は連戦できへんかったいうだけで、出れてたら余裕でしたよ。ここまで無敗やし」
「無敗を誇るなら、うちのだって短距離だけ見ればここまで無敗だぞ! たられば言うとは戸川らしくもない」
二人の調教師は露骨に牽制し合っている。
岡部はそれを見て大笑いしていて、櫛橋は困ったおじさんたちだと呆れ顔をしている。
だが、中里、清水、池田、垣屋はかなり焦った顔をしている。
困った最上は、目線の先に中里を見つけると、お前はどっちだと思うんだと問いかけた。
中里は『クラマ』だと即答しようとしたが、隣の席の櫛橋の刺すような視線が目に入ってしまった。
「どちらの調教も見た立場から言えば、どちらも勝てそうという雰囲気を感じますね」
「つまり、走ってみないとわからんという事か。これは本番が楽しみだな」
そうかそうかと高笑いをした最上だったが、背中には冷たいものを感じていた。
それは違う意味で中里も感じていた。
岡部は話題を変えようと、気になっていた事を最上に尋ねた。
「去年の夏に、今年の新竜を見ましたけど、あの時僕が選んだ赤毛の竜は誰の所有になったんですか?」
「ああ、あれな。私が聞いたのは、いろはと義悦で希望が被ったというところまでだな」
私が貰いましたと義悦が言うと、どっちに預ける予定なんだと最上が聞いた。
岡部と櫛橋は、あっと思わず声をあげた。
「今の感じだと、戸川の所には別の良い竜が行くんだろ? 当然、そっちは俺の方に預けるんだよな?」
「いやいや、それはそれ、これはこれやないですか。うちに預けるべきや思いますけど」
再度二人が言い合いを始め、最上と義悦はあちゃあと言って目を覆った。
「贅沢を言ってるんじゃない! 一頭良いのが行くんだから良いじゃねえか!」
「どっちも僕が見立てたんやから良えやないですか!」
二人のあまりにも大人げない喧嘩に、清水と池田は笑い出した。
垣屋と中里はまた焦った顔をしており、岡部と櫛橋は完全に呆れ顔である。
「もし俺が見立てたんだったら、もう片方はぜひ戸川にって言ってると思うぞ」
「そもそも三浦さん、飛行機が嫌や言うて牧場に行かへんやないですか」
参加者は戸川と三浦の鍔迫り合いに爆笑していたが、岡部と櫛橋は冷たい目で最上を見た。
義悦もじっとりした目で最上を見ている。
最上は両手で口を押さえ、余計な事を言ったと大いに反省した。
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