~四年目~

第2話 櫛橋

 年が改まると呂級の競竜場は『金杯』の準備で慌ただしくなる。

一月は伊級で重賞が行われないので余計に呂級の『金杯』に注目が集まる事になる。

短距離竜にとっての最大の大舞台が、この『金杯』という事になるだろう。




 一年ぶりに岡部が戻ってきた戸川厩舎では、とある事が話題になっていた。


 元日には皇都競竜場周辺では多くの人が伏見稲荷に初詣に出かける。

岡部も戸川一家と共に伏見稲荷に初詣に出かけている。

その伏見稲荷で垣屋が櫛橋を見たらしい。

それも男性の腕を抱いて歩いているところを。


 垣屋は世間話の感覚で櫛橋に話を振った。

垣屋からしたら櫛橋も良い年齢なのだし、そういう相手がいても別におかしくはないだろうと、さほど気にもしていなかった。

ところがそれに櫛橋が過剰な反応を示した。

垣屋は聞いてはまずい事だったとすぐに気が付いたようだが、他の面々はそういう者ばかりでは無かった。

その典型が池田だった。

池田はいつものノリで櫛橋に下衆く相手が誰かと掘り下げようとした。



 戸川と岡部が仲良く出勤してきて竜房で新年の挨拶をすると、池田の頬が赤く腫れている事に気が付いた。

一旦全員の手を止めさせ、全員で事務室の神棚に今年一年の無事と厩舎の好調を祈願した後、今年最初の会議が開かれた。


「なんや池田、新年早々カミさんと喧嘩か?」


「カミさんやのうて、さっき櫛橋にやられたんですわ」


「新年早々、卑猥な事しとるんとちゃうで。ほんまに櫛橋と交代させるぞ」


 櫛橋は露骨に機嫌が悪いという顔をし冷たい眼で池田を睨んでいる。


「何もしてませんよ。『あの櫛橋』に連れ合いができたいうから嬉しうなってもうただけで」


「そら櫛橋かて年頃の娘なんやから、連れ合いの一人や二人や三人」


 櫛橋はぱんと机を叩き、二人も三人もいませんと戸川に抗議した。


「……え? ほんまの話なん?」


「……先生、それ、どういう意味ですか?」


 戸川は酷く驚き、櫛橋はそんな戸川を目を細めて睨んでいる。


「相手は誰なん?」


「そうやってしつこく聞かれて、池田さんひっぱたいたんですけど」


 戸川は顔を引きつらせ、櫛橋から距離を取って椅子を後ろに引いた。



 会議が終わると戸川は、岡部と櫛橋を残し池田と長井を退出させた。


「櫛橋。僕、実はこれまで女性の厩務員って持った事無くてな。こういう時どうしたら良えかわからへんねん。こうして欲しいいうんがあったら聞かせて欲しい思てな」


 戸川はかなり戸惑った顔をして、その言葉が偽りでは無いと言う事は何となく櫛橋も察した。

 

「岡部先生も後学の為いう事ですか?」


「そうやね。恐らく他の者も、こういうんをどう扱って良えかわからへんと思うねん。開業からずっと男所帯やったもんでな」


 櫛橋も最初に来た時からそれは感じている。

力仕事をしようとすると必要以上に自分たちがやるからと言われたり、なるべくこちらを見ないようにと、いい歳したおじさんたちが思春期の男子のような態度を取るのだ。

徐々に慣れてきているのは感じるが、まだこういう事があると右往左往してしまうらしい。


「厩舎では普通に過ごしてたら良えと思うてたんですけど。これまでみたいに、仕事以外の時にこっそり二人でしのんだらって」


「そない窮屈な事……もっと櫛橋が自由にやれるんが良えと僕は思うてるんやけど」


 厩舎内で独身なのは現状では岡部と櫛橋だけである。

他は全員奥さんがいるわけで、櫛橋の事は皆が応援してくれるはず。

その方が過ごしやすいのではないだろうかと戸川は思っている。


「こういうたら何ですけど、普通にしといてくれたら良えと思うんです。仕事は仕事、私事は私事です。私も学生やないですからね、それなりに線引きはできる思うんです」


「そういうもんなん?」


 櫛橋が無理をしているのではないかと戸川は心配しているらしい。

そんな戸川を櫛橋はかわいいおじさんだと感じ、思わずクスリとした。


「そりゃあ、人によって違うとは思いますよ。そやけど、多くの女性はそう思うんやないかと思いますよ」


「はあ、そうなんや。こういうんを相談できる相手が近くにおらへんいうんは何とも不便な事やな」


 戸川は渋い顔で岡部を見ると、岡部も渋い顔をしていた。


「相手は、その……ここの関係者なん?」


 櫛橋は柄にも無く頬を赤くして手をもじもじさせている。


「ここのやないんですけど同業者です」


「ほなそれ以上の話は聞かんどくわ。何やあったらすぐ僕に相談するんやで」


 こんなつまらない話さっさと忘れてくださいと言って、櫛橋は耳を赤くして事務室から出て行った。



 戸川は会議の後で池田に、櫛橋の連れ合いの話にはこれ以上触れさせないように周知させた。

この話はそれで終わると戸川厩舎では誰しもが思っていた。



 ところが思わぬところから話が進展する事になった。



 それは一本の電話によるものだった。

電話が終わると戸川は慌てて岡部を会議室へと呼び出した。


「正月の話覚える? 例の櫛橋の。実はその櫛橋のお相手なんやけどな。ひょんな事からわかってもうた」


「そういう言い方をするという事は僕も知っている人と。まさか、不倫じゃないでしょうね?」


 それを聞くと戸川は、君の想像力は無限だなと笑い出した。


「三浦さんとこの中里や」


「……中里さんって……あの中里さん?」


 あまりの驚きに岡部は思わず口を押さえ椅子を後ろに引いた。


「そうらしいねん。そんでな、三浦さん、どうしてもこの話をまとめたいんやって」


 それを聞くと岡部は、櫛橋さんは放っておいてくれと言っていたはずと指摘。

それはそうなんだがと戸川は少し困った顔をした。


「絶対、打算ですよね。三浦先生、意外と腹黒いから」


「打算でも何でも良えよ。僕も櫛橋を自分の娘のように思うとるから何とかしてやりたい」


 岡部も戸川と三浦の気持ちがわからないではない。

だが他人が口を出して良い問題では無いという気もしている。


「何とかって、何をするつもりなんですか?」


「三浦さんは中里をこっちに研修に出す言うてきた。実際、前々からそういう話はあったからな」


 確かに随分前にそういう話をしていたのは岡部も覚えている。

だが、今さらそんなカビの生えた話を持ち出したら不自然極まりないようにも思える。


「三浦先生、そこまでするんですね」


「どう思う? やっぱり櫛橋怒るかな?」


 正直、強引なやり口にも思えるし、もしかしたら櫛橋が意固地になるかもとも感じる。


「もし年初のあの一件が無ければ、こっそり二人で逢引して、こっそりまとまったなんて事もあったんでしょうけど……」


「そうなんよなあ。やっぱり櫛橋にちゃんと承諾もろた方が良えよね」


「一筋縄では、いかないでしょうけどね」


 戸川は心底困ったという顔をし髪を掻きむしった。



 戸川に呼ばれ、櫛橋が会議室にやってきた。

戸川も岡部も目を泳がせており、その表情を見て櫛橋は何かを察した。

いきなり機嫌の悪そうな顔をして、どかっと椅子に腰かけた。


「私が二人に呼ばれた言う事は、私の私生活の事で何やあったいう事ですね」


 櫛橋は中里との事を『私生活』という言葉で牽制した。

それだけで戸川は心が折れそうになったが、岡部に促され何とか話を続けた。


「さっきな、三浦さんから電話があってね。その……」


「という事は、私の相手の事を聞いたいう事ですか」


「申し訳ない……」


 戸川は櫛橋に大げさに頭を下げた。

何故か岡部も櫛橋に叱られているような気分になり黙って俯いている。


 櫛橋は特大のため息をつき頭を抱えた。


「あの人、べらべら喋ってもうたんや」


「正月に休みを取ったんが、あかんかったんやろうね。向こうで、最近よう皇都に行っとるようやけどってなったらしくてな」


 まるで言い訳をしているように泣きそうな顔で戸川は言った。


「寺めぐりが趣味やて言うとけって散々言い含めたんですけどねえ」


「誰とやいう話になったらしいよ。最初、彼も誤魔化そうとしたらしいんやけどね」


 櫛橋は再度、特大のため息をついた。


「あの人は一体何をしとんねん。全く……」


「そういう腹芸のできへん、実直で真面目な人やいうのは知ってるやろ?」


 戸川から急に恋人を褒められ、櫛橋は何だか恥ずかしくなって頬を赤らめ、それはまあと言って照れた。


「三浦さん、前々からうちに交換研修をしたい言うてたんや。そんでな、一人ずつ交換する事になったんや」


「ほな、私が向こうに?」


 戸川は目を閉じ無言で首を横に振った。


「逆や。中里がこっち来るんやって」


「そしたら交換研修ですから私が代わりに幕府に……」


「残念やけど向こうは牧をご所望や」


 三浦の思惑などバレバレである。

無理にでも自分と中里をくっつけて自分を調教師に送り出そうというのだろう。

それが見え見えなだけに櫛橋は憮然とした表情をした。


「私、公私混同した無いんですけど」


「厩舎にいる間は公に徹したら良えやろ。いつもの櫛橋やったらできるはずなんやけど」


 櫛橋は自分の頬を二回叩き、気丈にもやれますと返事した。



「で、その、いつから付き合うてんねん?」


 櫛橋はかつて見たことがないほど照れまくり、体をくねくねし、手をもじもじさせている。


「会長から貰た慰安旅行があったやないですか」


「一昨年の秋の話やな」


 『セキラン』を取材しようと報道が厩舎にどっと押し寄せ、その対応の礼だと言って最上が用意してくれた宿泊券である。

ちなみに岡部は戸川一家と一緒に駿府の大宿に宿泊に行っている。


「あれで私、友達と太宰府行ったんです。その時、同じ宿に泊まっていたあの人たちに偶然会うたんですよ」


 戸川は甘酸っぱさに酔いそうになったが、なるべく感情を押し殺して話を聞いている。


「私の友達があの人の友達に声かけられて、私も一緒に付いてきて言われて……」


「そこから続いとんのか」


 だとしたらかなり長く続いていると言う事になる。

だが櫛橋は照れながら、その時はそこまでじゃなかったと言い出した。

 

「その後、『上巳賞』で幕府行ったやないですか。そこであの人見た時に、これは運命なんやと。そこから遠征やら何やらでちょくちょく会うて……」


 言われてみれば、『重陽賞』の時の打ち上げで、泣きじゃくっていた櫛橋を中里が声をかけ続けていたのを岡部は思い出した。


「まあ、その……会うた場所がそこやったら、紅花会の関係者の可能性が、その……」


「冷静に考えたらね」


 櫛橋は、あははと笑いだした。


「僕は君の事を娘のように大事に思うてる。そやから櫛橋が嫌や言うんやったらこの話断るけど、どうする?」


 櫛橋は少し考えると、腹をくくるから受けてもらって構わないと厳しい目で言った。

その代りこの話はここだけに留めておいて欲しいと。




 翌週、牧光長が幕府に行き、中里実隆が皇都に来る事になった。


 中里は挨拶をすると、池田に付き添われ竜房に向かった。

櫛橋はその日から調教計画について岡部から指導を受ける事になった。

岡部の研修が終わった後は、かつての岡部の仕事を櫛橋に行ってもらう事になったからである。


 昨年秋、戸川が『タイセイ』たちの取材で忙しく、調教計画の修正がどうにもならなくなった事があった。

長井と櫛橋で何とか対処していたのだが、本格的に調教計画を知っている人がもう一人いた方が良いと戸川は判断した。

櫛橋は最初かなり嫌がっていたが、戸川が何度も頭を下げるので折れてしまった。



 水曜日の午後、『金杯』の最終予選の竜柱が発表になると、戸川厩舎の首脳部と中里が会議室に集まった。


「中里君は、なんちゅうか真面目な人やね。いちいち全部丁寧に帳面とって」


 池田がそう言って中里を褒めた。


「俺、要領が悪いから。これ、帰ったら全部見直して整理するんです」


「ほんま真面目やな。牧は絶対、向こうでそんな事してへんで?」


 池田がゲラゲラ笑うと、中里は笑ったら悪いですよと池田を窘めた。


「牧さんは牧さんで、向こうで違う役割があるんです」


「そうなん? 牧いうたら、竜乗った感想言えるくらいやと思うけど」


「それできる人、今向こうには高城さんと喜入さんしかいないんですよ。もう結構長い事その二人だけだから、竜の見え方が固定されちゃってるんだそうで。先生の息子さんたちも元騎手ですけど、もう竜には乗れないそうでして」


 他の人、できれば若い人の感性が入らないとこれ以上は成績が上がらないと思ってるそうだよと戸川が言うと、中里も、先生はまだ伊級を諦めてませんからと笑った。


「櫛橋は調教計画の方はどうなん?」


「未だ勤務表もまともに作られへん池田さんには一生無理やと思いますよ」


 櫛橋はかなり棘のある言い方をしたのだが、池田はあまり気にしていない様子で、そんなに難しいんだと驚いた。


「いつも先生の代わりに岡部先生かてしれっとこなしてたやん。長井さんだけやなく、なんやったら櫛橋かて修正やらやってたんと違うの?」


「長井さんや私がやってきたような修正だけやったらそこまでや無いんですけどね。先生たちがやってるような一から作るんは……」


 戸川が慣れたら繰り返しなだけだからと笑って言うと、岡部も一頭からやって慣れちゃえば、後は一頭も十頭も同じだと笑った。

櫛橋はぶんぶんと首を横に振って、そんなの嘘だと池田に訴えた。

長井もうんうんと頷いて櫛橋に同調する。


「この二人が一般やとは絶対思わへん方が良えと思いますよ。ほんまに難しいんやから」


「大丈夫や。ここにおる人たち全員、その二人が一般やなんて誰も思うてへんから」


 池田の言葉に戸川は嬉しそうにしたが、岡部は憮然とした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る