第58話 厩舎
翌日、岡部は戸川を訪ね厩舎に向かった。
残念ながら来年の実地研修までは厩舎関係者では無いので守衛に面会の申請を出しての入場となる。
迎えに来た戸川と共に厩舎へ向かう道は、非常に見慣れた道のはずなのにどこか懐かしいものを感じる。
考えてみればこうして戸川の案内で厩舎に向かうのは研修初日以来の事だろう。
あの時は確か厩舎に行く途中で……
「おお! 岡部先生やないの!」
戸川厩舎に着く手前で相良に出会った。
「相良先生、お久ぶりです!」
いつもと変わらぬ相良の笑顔であったが、どういうわけか昨年とは少しだけ違って見える。
隣の厩舎の調教師だったのが、別の会派に所属する先輩調教師という感じに自分の目線が変わったのだろう。
「見てたで見たで、最終の実習競走。最後、ごつい脚で上がっていったな!」
「もう、ずっとあれだけ狙ってましたからね」
研修でそれを実践研究するなんて末恐ろしい、そう言って相良は岡部の背をパンパン叩く。
「僕の見立て通り、君は良え調教師になれそうやな」
「期待にそえるように頑張りますよ」
「一年でも早う呂級に上がってくるんやで。一緒に竜走らせようや!」
それをうずうずしながら聞いていた戸川が、我慢できす横からチクリと指摘した。
「あんま綱一郎君に惚れ込んで、お前が八級に会いに行かへんようにな。何や今年の不甲斐ない成績は」
「こ、今年は、ちと星のめぐりが悪うて……」
「ずいぶん遠いところに、お前の星はおるんやな」
戸川が背を向けると、相良は舌を出して抗議した。
戸川に促されるままに竜房で竜を見てまわった。
『タイセイ』の状態を見ようと体を軽く揉むと、何かを思い出したかのように『タイセイ』は急に懐いてきた。
「良い状態ですね。これならあるいは」
「そうやろう。月末勝てたら三年は天下やと思うとるで」
「三年……そうですね、長距離だけに出してれば、それくらいは」
竜房から出ると、休憩から帰ってきた垣屋がいち早く岡部を見つけ駆け寄ってきた。
「岡部君、久しぶりやな!」
それを聞いた花房が笑い出した。
「垣屋さん、岡部先生やで。岡部先生」
「おお、そうやった。岡部先生やったな。中継見たで! 気持ちの良え抜きっぷりやったね!」
あの最終の実習競争以来、あまりにも皆にそれを言われる為、実は岡部はだんだん恥ずかしくなってきている。
「いやあ、中継あるからって皆で食堂行ったんやけどな。食堂満員でえぐい事になってたんやで。吉川先生がうちらの分まで席取っててくれてな。先生のとこも最後の直線は皆で大興奮や」
最後抜いた時は、これがうちの厩舎の厩務員なんだとかなり鼻が高かったと垣屋は嬉しそうに岡部の肩を叩く。
今思い出してもサブイボが立つと花房もニコニコである。
来月からの研修お願いしますと岡部が言うと、二人はビシバシ行くぞと笑い出した。
岡部たちが事務室に入ると、休憩から戻ったばかりの長井と松下が待っていた。
「おお、岡部先生! いやあ、ほんまに岡部先生になってもうたんやなあ」
長井がそう言って笑い出すと、松下も笑い出した。
「ずっと冗談で言うてたんが、ほんまになってまうんやもん。口にするとほんまになるてよう言うけど、ほんまの事なんやな」
岡部は、自分がいつも仕事をしていた簡易机の椅子に腰かけて照れ笑いしている。
「あの騎手な。かなり追えそうやけども、まだ相当粗削りやな」
岡部は何か助言が貰えないか松下に尋ねた。
「そうやなあ。竜上で興奮するんはわかるんやけども、激しうしたら竜牙傷つくでいう事くらいかなあ」
基礎の基礎な助言に岡部は思わず苦笑いした。
「いやあ、基礎は基礎なんやけどもね、開業したての頃は興奮すると忘れんねん。特にああいう激しい乗り方する子はすぐに忘れる思うよ」
岡部は同じ質問を長井にもした。
「そうやなあ。自分の力で追っとるうちは、どっかで頭打ちになるでって事かなあ」
松下がそれを聞くと、わかるわかると笑った。
「皆、一回はそれで躓くねん。それにどれだけ早う気付けるかが新人は重要なんや」
「いまいちピンと来ませんけど、服部にそう伝えておきますね」
「あの子は剛腕いう感じの子やから、ちと気づくんが遅れると思うけどな。まあそれでも八級に来るまでには頭打ちになるんと違うか」
長井と松下は二人で笑い出した。
そう言えばと思い出したかのように松下が岡部に問いかけた。
「『重陽賞』って向こうで中継見てくれたん?」
「ええ。『タイセイ』かなり強かったですね。『優駿』もアレできてたら二冠だったかも」
新竜戦の時、岡部の口から直接聞いていた垣屋が露骨に悔しそうな顔をしている。
松下も額に手を当てガッカリした顔をしている。
「逃げやろ? 君、いつそれに気が付いたんや?」
「気付いたというか、新竜戦の時にそんな話を吉川先生と。中盤の速さが異常だから逃げさせたら面白いって」
「かああ。その時に言うてくれてたら二冠やったのに!」
松下は酷く悔しそうな顔をする。
当時は受験勉強でそれどころじゃなかったと岡部は言い訳した。
でも垣屋さんもその時一緒にいたようなと岡部が垣屋を見ると、言っていたのは覚えているけどそんな重要な話だとは思っていなかったと首を振った。
「あのな、僕、夏に先生からそれ聞いてな。その後、単騎で速度抑えれるようじっくりと調教したんや。そしたら『重陽賞』はあれや。まだ逃げで調整効くんは、それほど長くないんやけどな」
「じゃあ、これからは徐々に?」
「上手くいったら、後ろにおる奴には影は踏まさへんで!」
松下は得意そうな顔を岡部に向けた。
そこに櫛橋と池田が入って来た。
騒がしいと思たらやっぱり岡部先生だと言って、池田は岡部の背中をパンと叩いた。
「岡部先生、中継視たよ! 仁級ってあない速く走れるもんなんやね」
正直驚いたと櫛橋が言うと、戸川が、あれはちょっと異常な速さだったと指摘した。
「かなり均衡の悪い状態だったんですけどね、服部が巧く乗ったんですよ」
「私、調教ってまだようわからへんのやけど、色々できるもんなんやね」
それを聞いた岡部がにっと櫛橋に笑いかけた。
「それなら櫛橋さん、もっと本格的に調教に手出してみたらどうです?」
「私、竜乗られへんから、わからへんもん」
櫛橋が無理無理と顔を引きつらせると、戸川が僕も竜は乗れないよと笑い出した。
「同期にも厩務員上りの奴がいましたよ?」
「嫌やて。私こういう性格やもの、のめりこんでもうて婚期逃してまいそうやもん」
櫛橋が恥ずかしそうに言うと事務所内がどっと沸いた。
櫛橋は口を尖らせ耳を赤くして岡部の腕をパンと叩いた。
「まあ、無理強いはしませんよ……僕は。他は知りませんけど。そういえば『サイヒョウ』の状況はどうですか?」
「ちょっと良くなったんよ。年明け『金杯』で、どこまで持つんか試してみる事になってるんよ」
「おお! 実地研修早々に重賞に挑戦とか。良い研修になりそうですね」
珈琲を貰い談笑していると、吉川がやってきた。
「おう。岡部が来てるって聞いたけどまだおるか?」
「あ! 吉川先生、御無沙汰でした!」
吉川は満面の笑みで岡部に近寄った。
「おう、岡部! 中継視たで! 武田んとこの坊主の竜を最後きっちり押さえおって、見事やったな!」
「そういえば聞きましたよ。武田先生の厩舎って先生の厩舎の向かいだったんですってね。武田くんから聞いて驚きましたよ」
「そうやで。うちに何回も来てたのに気づかへんかったんか? 俺もあいつに何遍もお前の事聞かれたで。あれの坊主にもな」
井戸先生の厩舎も近くだと聞いたと言うと、それも気付かなかったのかと吉川は大笑いした。
岡部さんが来てたのを何度か見かけたよと櫛橋が笑い出した。
「しかし武田くん凄い成績安定してて、ほんと強かったんですよ。正直言うと、最終戦も差しきれないんじゃないかって気が気じゃ無かったんです」
吉川は、そうかそうかと好々爺のような顔をして楽しそうにしている。
すると大事な事を思い出したと言って柏手を打った。
そう言えば礼を言いに来たんだったと言い出した。
岡部は唐突な事に首を傾げた。
「実はな、調教助手の松田がついに退職したんや。もう限界やいうてな」
「そうですか……前々から休みがちでしたもんね」
「そうやねん。それでお前に乗りに来てもろてたんやもんな。そんでな、去年の夏にうちの若いの鍛えてもろたやろ。あの二人が今、調教助手やっとるんや」
確か名前は繁沢さんと森脇さんといったと思う。
二人とも若いせいか、数日でみるみる上達したのを覚えている。
「繁沢の方が上手いから、そっちが調教助手、そんで森脇には主任をやってもろとる。二人とも今ではうちの厩舎の柱や」
「そうですか。あの時、荒木さんたちと一緒にやっておいて良かったですね」
資格を取ってからも、あの二人がちゃんと調教助手がやれるまでと言って松田もかなり頑張って指導していた。
石野が太鼓判を押した事で、松田は安心して退職していったのだそうだ。
「あの二人の代わりに補充で若いの二人取ってな。それを今繁沢たちに騎乗訓練してもろうとる」
「まあ、乗れるにこした事は無いですからね」
「実はな、繁沢と森脇には調教師試験受けさせよう思うててな。誰かを見習うて、これから良え人材は調教師として送り出して、尼子会を盛り上げていってもらう思うてな」
それを聞いた戸川が、今度は調教師試験が流行りなのかと笑い出した。
吉川が自分の厩舎に戻ると、岡部はまた長井たちと談笑していた。
そこに一本の電話が入った。
戸川は本人が来てるから直接どうぞと言うと、岡部に、君宛てだと言って渋い顔で電話を代わった。
「おお、岡部君、そこにいたんだな。私だ。最上だ」
「あ、会長! 先日は土肥までわざわざご足労いただきありがとうございました」
「急な話で申し訳ないんだが、来週、南国に来れないかな?」
岡部は焦って戸川の顔を見た。
戸川は怯えた顔で、無言で首を横に振った。
戸川のその態度で、二人で行くという選択肢は無い事を岡部は察した。
「来週はその……ちょっと家族と旅行に行く事になっていまして……」
「そうなのか! で、場所は決まっているのか?」
「いえ、まだ……」
実際には琵琶湖に行こうと言い合っていはいる。
だが、何となくそれを言ってもその後の話の流れは変わらない気がして、決まっていない事にした。
「それは好都合だ! ならば南国に家族分の宿も取る、旅費もこっちで持つよ」
「いやあ、さすがに仕事場に遊びの家族を連れて行くのは……」
「何、主目的は君の慰労なのだから何も心配せんで良い。……その間ちょっとだけ花蓮に付き合ってくれれば良いんだ」
どう聞いても、その『ちょっとだけ』が主目的にしか聞こえない。
岡部の顔が露骨に引きつった。
電話先の最上には見えていないが。
「で、どれくらいを予定してるんですか?」
「二泊三日だ。家族の旅行計画が決まったら連絡してきてくれ」
「……わかりました」
岡部は失敗したという顔で戸川の顔ちらりと見た。
戸川も顔を引きつらせ、ゆっくり首を横に振っている。
「ん? もしかして迷惑だったかな?」
「いえいえ。旅費の心配をしないで済んで非常に助かります。ありがとうございます!」
それを聞いた後ろの人たちからクスクスという失笑が聞こえてきた。
「うむ。では当日私も楽しみにしているからな」
「よろしくお願いします!」
電話を切ると岡部は、再度戸川を見た。
「すまんなあ。僕は『大賞典』に向けて手が離せへんからな。夏の件もあるからその……」
「あの二人に何て説明したら良いんでしょう? きっと今頃、竹生島行く気満々ですよね?」
岡部が泣きそうな顔をすると、戸川も笑顔を引きつらせた。
「僕そういうんで怒らせんと説明上手くいった試しないから。だから僕からは何とも……その、お、お土産を頼むな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます