第57話 帰還
下宿を後にした岡部と松井は土肥駅で武田と合流。
修善寺駅で三人で電車を降り、わさび漬け、わさび、米酒、生蕎麦を購入して駿府へと向かった。
駿府駅で昼食に海鮮丼を食べ郷土市場に向かう。
やぶきた茶、安倍川餅、追分羊羹と抹茶羊羹を購入。
更に奥さん用にストールと梨奈用にシュシュを購入。
三人とも荷物とは別にお土産で荷物が一杯である。
黒いはんぺんと缶麦酒を購入して東海道高速鉄道に乗り込んだ。
帰りの電車での三人の話題は、やはり研修の思い出話であった。
半年ぶりに皇都の地に降り立つと、盆地特有の山からの冷えきった風が岡部を包んだ。
両手に大荷物の岡部は皇都駅で戸川家に連絡を入れた。
駅前で外套の前を押さえて冷気をさえぎり、暫く待っていると奥さんが迎えに来てくれた。
後部座席に荷物を置こうと扉を開けると梨奈が座っていた。
岡部はニコリと微笑み、梨奈にお土産袋を渡して助手席に座った。
戸川家に帰ると玄関で立ち止まった。
戸川家固有の優しい香りが岡部の心を包みこむ。
帰って来たのだと実感する瞬間である。
客間に顔を出すと戸川が待ち疲れたぞと岡部に不満を漏らした。
岡部は奥さんにお茶を渡し、餅を買ってきたのでお茶にしましょうと言って安倍川餅を取りだした。
買ってきた土産を品評会かのように全て客間の机に並べ、酒、わさび、蕎麦を梨奈に台所に持って行ってもらった。
二人きりになると戸川は岡部の顔をじっと見つめた。
「おかえり。それと研修ご苦労様」
「ありがとうございます。来年から実地研修よろしくお願いします」
久々に会ったからだろうか。
戸川が距離感を測りかねているようで、どうにも余所余所しい。
「何やあっちこっち遊びに行ってたらしいな。酒、魚、温泉以外、あそこは娯楽が無いもんな」
「武田くんが、とにかくあっちこち行きたがって」
思い起こせばこの一年、暇さえあれば武田、松井と三人であちこちに蕎麦を食べに行っていた。
当然その都度異なる米酒を呑んでおり、卒業する頃には三人すっかり好みの銘柄が出来ていた。
今回お土産に買ってきたのは岡部が色々吞み比べて気に入った銘柄である。
「そうそう、御殿場のお酒どうでした?」
「ほんまに呑んで良えもんなんか迷ったわ。母さんが構わず開けて呑んでもうたから、僕も呑んだんやけど」
「僕、あれ呑んで旨さにびっくりして、思わず二本買ったんですよね」
岡部が嬉しそうに言うと、戸川は人差し指を立て口に当てた。
「呑まれへんように一本隠してあるんや。母さんには内緒やぞ!」
「……絶対、バレてると思いますよ」
奥さんはお茶を入れ安倍川餅を皿に盛り、何の話と言って梨奈と共に客間に戻って来た。
戸川は土肥の海鮮丼の話だと誤魔化したが、奥さんの顔は明らかに疑っている。
四人は安倍川餅を食べながらお茶を啜った。
「で、開業はどこになったんや?」
「久留米だそうです」
戸川と岡部が話していると、その横で奥さんが梨奈に久留米ってどこだっけと尋ねた。
梨奈が面倒そうに「太宰府の下」と答えると、奥さんはそんなとこなんだと驚いた顔をした。
「遠い方になってもうたなあ。紀三井寺ならすぐ近くやったのに。で、住居はどないするんや」
「仁級は宿舎があるそうなんで、とりあえずはそこでしょうか」
戸川は岡部の言い方に引っかかるものを感じ眉をひそめる。
「『仁級は』って、八級以降はあらへんのかい」
「昔はあったらしいんですけど、今は厩務員宿舎以外は廃止になったんだそうです」
仁級から上がってくる頃にはどの調教師もに家族がおり、調教師の宿舎は極めて利用頻度が低かったらしい。
そのため、調教師の宿舎も自然と厩務員宿舎になり、結局老朽化を機に廃止になったのだそうだ。
「まあ、しゃあないやろな。仁級も八級も貧乏やからな」
「色々計算してみましたけど、やりくり結構大変そうですよね」
「僕の時よりも多少賞金上がったって聞いたけど、それでも大変やと思うで」
竜主会と執行会、労働組合で毎年調整し、仁級の支援金を上げたり、競竜場に資金融通したりしているが、それでも厳しいのが現状である。
奥さんが、実習競走の中継視たよと安倍川餅をつまみながら言った。
私も観た、皆泣いてたねと言って、梨奈がちまちま安倍川餅を齧る。
「そいえば、あれを提出してきた調教師、久留米の調教師なんですよね」
「及川の奴が寄こした言うてたな」
「どのような方かご存じですか?」
戸川は腕を組み渋い顔をする。
その表情を見るに聞くまでも無くろくでもない人という事なのだろう。
「久留米の紅花会の代表面してる調教師や。開業からかなりの年数経っとんのにまだ仁級におる。その時点でお察しやろ」
「仁級で満足してるという事なのでしょうか?」
「仁級より下は無いからな。下がりようのない級で偉ぶっとるような奴や。ようはろくでもない奴いう事やな」
梨奈が抹茶羊羹に手を出そうとして奥さんに手を叩かれたのを見て、岡部も食べようと提案した。
「僕も映像で見させてもろたけど、あの騎手、ちと荒いが中々追えそうやね」
「万事仕事が雑なのが気にはなりますけど、騎乗は剛腕な感じですね」
あの子は磨けば光ると、戸川は自分の専属騎手かのように嬉しそうに服部を褒めた。
「追うのが巧いんは良えぞ。仁級や八級は追えてなんぼやからな」
「研修で一年やってみて思ったのですけど、確かに仁級は道中の駆け引きが少ないですもんね」
「最初の位置取りくらい違うか? そう言うて極端に後ろばっか鍛えても頭打ちするんやけどな」
戸川の言葉に岡部は湯飲みを落しそうになった。
その少し慌てた姿を見て戸川は高笑いする。
「もしかして、試した事あるんですか?」
「そらそうやろ。色々やったに決まっとるがな。やっとる間に八級に上がってもうたけどな」
戸川は奥さんの切り分けてくれた抹茶羊羹を齧り、これは旨いと唸った。
夜、ささやかな宴会が催された。
岡部の買ってきた米酒で岡部と戸川が乾杯すると、奥さんは御殿場の蒸留酒を水割りにして乾杯した。
台所から梨奈が次々に料理を運んで来ている。
「今年は残りはどないするんや?」
戸川がお猪口を啜りながら岡部に問いかける。
「一度、厩舎にお邪魔しようと思ってます。構いませんか?」
「予選の頃やったら大丈夫やで。最終からはもう報道がうるさなるやろから難しいやろけど」
「今は関係者じゃないから仕方ないですね」
そんな大事な時期に厩舎に呼んでもらえるだけで御の字だと岡部は微笑んだ。
「そうや、『タイセイ』の事なんやけどな。『重陽賞』の時、逃がそう言うたら松下が渋ってな。まあ、結果的に途中から逃げみたいになってもうたんやけど」
「逃げを嫌うんですか?」
「周りに他の竜が見えへんと巧く速度が制御できへんのやって」
単独で逃げさせたらどこまでも好きに逃げてしまい、大逃げになってしまうらしい。
今年に入って毎回並走調教ばかりさせたせいで、変な癖がついているのかもと松下は言っているのだとか。
「そういうのは松下さんしかわからないですもんね」
「なあ、正直なとこ聞きたいんやけど『クレナイアスカ』とうちの、どっちが上やと思う?」
岡部は梨奈の作った竹輪に胡瓜の刺さった物に、買ってきたわさび漬けを付けて食べた。
それを見て戸川と梨奈も真似した。
戸川はやっぱりこれだなと喜んだのだが、梨奈は、鼻が痛い、飲み物飲み物と、涙目で慌てふためいている。
「そうですねえ。現時点では良い勝負……というところかと思います。来年になれば負けないでしょうが」
「そうか。君もそうみるか。まだ『タイセイ』は途上やって」
岡部は言葉を濁したが、戸川はその言い方で若干『アスカ』の方が優勢と岡部も思っていると察した。
「春の『アスカ』の状態と、中継で見た『重陽賞』の『タイセイ』を見比べて、まだ超えるまでは行ってないかなと」
「何が足らへんと思う?」
「圧倒的な中盤の速さと無尽蔵の体力が持ち味ですけど、思ったより終いが弱いように見えるんですよね」
末脚が切れないというのは、岡部が調教計画を練っていた新竜の時からの『タイセイ』の課題である。
牧場で見た時に感じた通り、生粋の長距離走者という弱点が出てしまっている。
「新竜の頃からずっと鍛えとるんやけどな。なかなか」
「例え今後逃げ戦法を磨いていくと言っても、終いは重要ですからね」
現時点では差し戦術の『アスカ』に差される展開しか見えてこないというのが二人の共通の見解であった。
かなり酒が進んだところで、梨奈が岡部の袖を引いて、来年までお休みなんでしょと顔をニンマリとさせた。
岡部は梨奈から目を反らし戸川を見る。
ところがその戸川の横で奥さんも酔っぱらいながらニコニコして岡部を見ている。
岡部の責めるような視線に耐えきれず戸川が白状した。
「そのな……夏休みの事、まだ根に持ってるらしうてな。何度も言われるもんやから……その、ついな」
「ついって?」
「つい、その……卒業したら、冬休みがあるんやからって」
戸川がそこまで言うと、奥さんと梨奈が戸川を押しのけ視線に割って入って来た。
来週に厩舎行くって事は再来週は空くんだよねと、梨奈が顔を近づけ岡部の顔を覗き込んだ。
「……どこ行きたいとか決まってるの?」
岡部はかなり引きつった顔で梨奈に聞き返す。
梨奈は無邪気な笑顔で、どこか行きたいとこあるのと逆に聞いてきた。
「じゃ……じゃあ、前回行けなかった琵琶湖かな?」
岡部が気圧されながら回答すると、梨奈はパッと明るい笑顔で、綱一郎さん竹生島に行きたいんだってと隣の奥さんに報告。
奥さんも良い笑顔で聞いた聞いたと喜んでいる。
岡部がじっとりとした目で戸川を見ると、戸川は誰が見てもわかるくらいに目を泳がせた。
「……綱一郎君、その……よろしう頼むな」
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