第56話 卒業
翌日から学校は十日後の卒業式に向けての準備で大わらわだった。
二年生の騎手候補は卒業する三年生への手向け作りに、一年生は会場作りにと忙しかった。
三年生の騎手候補は、卒業後開業するにあたっての納税の話や、社会保障の制度など再度じっくりと講習を受けた。
調教師候補は、仁級で厩舎を開業するにあたり、財務管理、福利厚生、労働法、法人法といった基礎知識を再度おさらいした。
授業が終わると岡部は学校に服部の外出許可を申請。
二人は前回同様駅前の喫茶店に入るとお品書きを見た。
岡部は服部に何でも好きな物を頼むと良いと促した。
服部はじゃあこれをと前回同様果実山盛りの氷菓を指さした。
岡部はクスリと笑うと、店員を呼び珈琲と牛乳寒、果実山盛りの氷菓を注文した。
「ほんまに良えんですか?」
「これからは自己管理で仕事をするんだから、自分が良いと思えば良いんだろ」
「そやった。もう僕が自分で判断するんやった」
もうお前は学生じゃなく一人の騎手になるのだから。
そう言って微笑む岡部に、服部は何だか照れくさいものを感じた。
「ただし、節制できずに乗れないなんて恥ずかしい事になったら、容赦なく契約切るけどね」
「……肝に銘じておきます」
服部は氷菓が運ばれてくると幸せそうに匙を動かした。
岡部はそれを見て微笑みながら珈琲を啜った。
服部が半分ほど食べたところで、岡部は珈琲を机に置いた。
「あれから周りにちゃんと相談したかな?」
「ええ。みんなに相談しました」
服部は匙を止めずに返答をする。
その態度に若干岡部は不安を感じた。
「で、みんな何て言ってたかな?」
「岡部さんの事、良え人やって」
「いやいや。僕の事じゃなく、お前の所属のこと!」
やっと匙を止めた服部は岡部を一瞥すると、少し口を歪め視線を横に反らした。
「回答を保留にしたって言うたらボロクソ文句言われましたよ。岡部さんの会派に移る以外の選択なんて無いって」
「事情があるんだから仕方ないよ」
岡部は軽く鼻で笑って服部を慰めるようにそう言った。
「で、最終的に臼杵によう相談しました。そしたら、自分にとって何が一番なのかを考えたら良えんやないかって」
「臼杵らしい優等生な意見だな。で、考えてみて何が一番だったの?」
服部は照れくさそうな顔をして匙を取り、無言で一口だけ氷菓を口に運ぶと、また匙を置いた。
「僕、これからずっと岡部さんの竜に乗ってたいです。調教師の話は引退してからの話やから。その時にどこの会派か選んだら良えと思うんです」
岡部は静かに目を閉じ、ゆっくり堪能するように珈琲を啜った。
「じゃあ、うちに?」
「はい! お願いします!」
岡部はカップを机に置くと、優しく微笑んで右手を差し出した。
「紅花会へようこそ!」
服部は満面の笑みで両手でその手を取った。
最終日、いつもよりかなり遅く起き、身だしなみを整えて、松井と共に学校へ向かった。
一年通った道もこれが最後かと思うとかなり感慨深い。
一年通して降雪もほぼ無く、比較的温暖な土肥ではあるが、さすがにこの時期は寒風が吹きすさんでいる。
「土肥とも今日でおさらばか。酒も魚も旨い、焼き鳥も旨かったなあ」
松井が両手を空に伸ばし、空を仰ぎ見てしみじみと言った。
さすが十二月、空が非常に高い。
「松井くん、呑み屋の事ばっかだね」
「そりゃあ。嫁の下じゃこんな好き放題呑めやしないからなあ」
そういえば戸川も学校の話を聞くと酒の話ばかりする。
今なら戸川の気持ちが非常に良くわかる。
「奥さんたち、今日、来てるの?」
「さあなあ。少なくとも連絡は来てないな。そっちは家族来てるの?」
「さあ、どうだろう。来てないんじゃないかな。妹、体が弱いから」
万に一つこちらに来てたとして、昨日はしゃぎすぎて今頃、宿で熱出して寝ているのがオチだろう。
そう考えると、なんだか無性に可笑しくなった。
守衛まで行くと、その前で武田たちが岡部たちの到着を待っていた。
「君ら遅いで。僕らずっと待ってたんやぞ。おかげで何遍も報道に囲まれて。守衛のおっちゃん、かんかんやで」
武田の後ろで守衛のおじさんが、武田の頭に拳骨を落とすような仕草をして、岡部たちに悪戯っぽい笑みを向ける。
「すまんすまん。便所が長引いてな」
「どっちの便所が長引いたん?」
武田の問いに、岡部と松井は互いに互いを指差した。
それを見て大須賀と松本は大笑いした。
「そしたら土肥での最後の大仕事に向かおうや。来賓の人ら、もうとっくに来てんねんで」
五人は守衛を通ると体育館に向かって歩き出した。
報道が五人の姿を見つけ、一斉に駆け寄って来て写真を撮らせて欲しいと言って囲もうとした。
それを見つけた教官が体を張って報道と調教師候補の間に入り、式の後にしてくれと報道を制して五人を体育館に誘った。
体育館に近い教室で待っていると、教官が準備をお願いしますと伝えに来た。
五人は粛々と体育館の入り口に整列。
前には服部たち騎手候補が一列に並んでいて、時折、チラリチラリと岡部たちを見ている。
教官の合図で、まず服部たちが入場。
体育館の中からは割れんばかりの拍手が響いている。
その後、教官たちに促され岡部たちも入場していく。
岡部たちが入場し席につくと拍手は鳴りやんだ。
竜主会会長の武田会長の祝辞、執行会会長の朝比奈会長の祝辞、労働組合長の祝辞、調教師会長の武田調教師の祝辞、競竜協会理事長の矢田議員の祝辞の後、騎手候補の過程修了書の授与が行われた。
そして、卒業式で最も緊張の時間が訪れる。
仁級の開業許可証の授与である。
最初に呼ばれたのは大須賀だった。
許可証の内容が読まれると愛子での開業が告げられた。
次に呼ばれたのは松井。
内容の朗読は省かれ、久留米での開業が告げられた。
三番目は松本。
同じく内容の朗読は無く、小田原での開業が告げられた。
四番目は武田。
紀三井寺での開業が告げられた。
最後に岡部が呼ばれた。
岡部に告げられた開業先は松井と同じ久留米だった。
式が終わり調教師が退場しようと席を立つと、場内はまた割れんばかりの拍手に包まれた。
調教師に次いで騎手たちも退場してきた。
退場してきた騎手たちは笑顔で自分の調教師の元へ駆け寄った。
「岡部さん! いや岡部先生! うちら久留米でしたね!」
「そうだったね。久留米でもよろしくね」
服部の顔は今日の青空のように晴れやかで、感動で涙などという事は無く、ただただ希望に満ちているという表情をしている。
「久留米言うたら焼酎で有名なとこやそうですけど、呑みすぎて体壊さんようにしてくださいよ!」
服部はからかうように岡部の腕をぽんと叩いた。
そんな服部を岡部は鼻で笑った。
「お前が騒ぎおこさなきゃ大丈夫なんじゃないの?」
服部は一本取ったとでも思っていたのだろう。
瞬時にやり返され、露骨に悔しそうな顔をする。
「酷いなあ。先生が松井先生と毎日飲み歩きそうやから言うてるのに」
「確かに、それはありそうって言えばありそうだけどね」
二人で談笑していると服部の母親がやってきた。
紺のスカートに白のブラウス、紺のジャケットを羽織っている。
その上にかなり暖かそうなコートを羽織っている。
まるで授業参観のような恰好である。
顔は少しやつれ気味だが、色白で目鼻の整った美形な女性だった。
服部は母親が来ているだなんて思ってもみなかったようで、かなり居心地悪そうな顔をしている。
服部の母はそんな服部を捕まえて、無理やり頭を下げさせた。
「先生。何卒愚息をよろしうお願いします」
「僕の方こそ、大切な息子さんをお借りいたします」
岡部は服部の肩に手を置き、母親に頭を下げた。
「お母さんは久留米には来られるんですか?」
「いえ、私は夫の両親の世話がありますんで」
その言葉で、服部の父が亡くなった後、母が祖父母の面倒をみてきたのだと知った。
紀三井寺であったらどんなに良かったかと感じる。
もし八級も防府だったらどうしようとも感じる。
一年でも早く呂級に上がろう。
そう岡部は胸に誓ったのだった。
「じゃあ、服部がおいたしないように、僕が注意していないとですね」
「くれぐれも、よろしうお願いします」
服部の母は優しく微笑み小さくお辞儀をした。
服部は隣で何だか納得いかないという顔をしている。
服部の母親と話していると、最上会長がやってきた。
「岡部君、卒業おめでとう!」
「会長! わざわざいらしてくださったんですね!」
岡部の『会長』という言葉に、服部と服部の母は同時に驚きの声をあげた。
「本当は入学式も来たかったんだがね。生憎と仕事でね。今日はちゃんと、ずっと前から予定を外したんだよ」
「来ていただけて光栄です!」
服部の母が会長に挨拶しようとしたが、岡部はそれを制し、服部に挨拶するように促した。
服部が最上に挨拶をすると、最上は満足そうな顔をした。
「最終の実習競走、中継で観ていたよ。あの竜で、よくあの競走をしたね」
「ありがとうございます!」
「これからも、岡部君をしっかりと支えてくれ」
服部は大きく頷くと最上と握手を交わした。
岡部は服部の母に背を向け、少し最上に身を寄せ小声で話した。
「実は彼の亡くなった父は日章会の調教師だったそうです。それで彼も日章会で入学したんですが……」
「そうなのか。では会長の藤原さんに一言礼を言っておかないとな」
岡部は先ほど同じ立ち位置に戻ると、よろしくお願いしますと最上に頭を下げた。
「日章会のままでも良かったのに、わざわざうちに来てくれたんだなあ」
「ええ。本人の英断で」
最上と岡部は微笑みながら、二人で服部の姿を見た。
「そうかそうか。紅花会へようこそ」
服部が酷く恐縮しているのを見て、最上は服部の背中をパンパン叩き笑い出した。
二年の騎手候補が体育館から出てくると、真っ先に岡部たち新米調教師の元に駆け寄ってきて一箇所に集めるように手を引いた。
一年の騎手候補も駆け寄って来て、同じくその中に加わった。
それを写真や映像に撮ろうと報道も加わって、体育館の外は大混乱になってしまった。
翌日、早朝から岡部と松井は下宿の自分の部屋を掃除した。
一通り掃除を済ませると、荷物をまとめ食堂で合流。
まだ帰りの電車の時間までかなりの余裕があり、のんびり一服しようという事になった。
「昨日、家族は来てたの?」
岡部は珈琲を淹れて松井に差し出した。
「来るわけないだろ。家族はおろか会の人すら来てなかったよ」
「そっか。さすがにここ遠いもんね」
娘はまだ二歳だから、嫁一人でここまで連れてくるのは無理があると松井は笑い出した。
「臼杵の両親が来ててさ。息子をよろしくって何度もお願いされたよ」
「僕も服部の母親からお願いされた」
臼杵の父親は会社員なのに、わざわざ休みを取って来たらしい。
自分はこの人たちの大切な家族を預かる事になるのだと思うと、改めて身の引き締まる思いであった。
「昨日見たか? 武田くん、俺たちを涙目で見てたんだぞ」
「そんなこと言ったって、うちら以外みんな別々じゃん」
「西国同士なら、遠征でいつでも会えるってのにな」
さっさと久留米に遠征できるような竜を育てれば良いだけ。
そう言う岡部に松井はそんな簡単にいかないと笑い出した。
「服部に言われたよ? 焼酎が旨いからって松井くんと毎晩呑みに行って体壊さんようにって」
「あの野郎言うじゃないか! 久留米に行ったら覚えてやがれ!」
人が気持ちよく呑んでるとこに何度もたかりに来た分際で。
松井の恨み節に岡部は思わず吹き出してしまった。
「久留米に行ったらさ、服部と臼杵誘って四人で呑もうよ」
「そうだな。ある程度落ち着いたら呑みに行こう」
残念ながら彼らは未成年だからお酒じゃなくお茶だけどと岡部が笑い出した。
さんざん酒が旨いと見せつけてやろうと、松井は意地の悪い顔で笑った。
「そろそろ電車の時間だね。名残惜しいけど出発しよっか。次会うのは四か月後だね。実地研修、頑張ってね」
そう言って岡部は珈琲を飲み干し椅子から立ち上がった。
松井も椅子から立ち上がると紙コップを潰してゴミ箱に入れた。
「そうだな。四か月後に久留米で会おうな!」
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