第24話 復帰

 翌朝、久々にいつもの時間に目を覚ました。


 梨奈を起こさないように静かに廊下を進み階段を降り食卓に向かった。

既に食卓にはあさげが用意されている。

献立は、小さ目のお好み焼きと味噌汁とお新香。

あさげを食べながら戸川は、昨日調子に乗って呑みすぎたと頭をさすっている。

昨晩、戸川は最後まで麦酒をあおっていた。

味噌汁をおかわりすると、家を出る頃には、すっかりいつもの戸川に戻っていた。




 車に乗り二人で厩舎に向かうと、既に厩舎はいつもの活動を開始していた。


 早々に岡部を見つけた相良が肩をバンバンと叩き、退院おめでとうと言ってきた。

御迷惑をおかけしましたと言って岡部は頭を下げた。


「あの時、僕、君の訓練覗いてたんやけど、急にコテンと竜から落ちるもんから、びっくりしたんやから。まだ病み上がりなんやから無茶はあかんで、無茶は」


 そう言って相良は笑った。


「お前が見てたから緊張したんと違うか?」


 戸川が相良を茶化した。

相良は少し気分を害したという顔をして戸川をじろりと見る。


「いちいち緊張して竜から落ちとったら、命がいくらあっても足らへんで」


 相良は岡部の肩を叩いて笑った。


「ほな、相良。あとで罪滅ぼしに、お前のとこの津野つの借りるな」


 そう言って手を振ると、戸川は自分の厩舎の事務室に入って行った。

相良は唖然とした顔をして、そんな話聞いてないぞと呟いた。



 引き運動を始める頃に長井が厩舎に現れた。

長井は岡部を見ると肩を叩き、本当に無事で良かったと頬を緩ませた。


「原因はっきりするまでみっちりやるから覚悟しとけよ!」


 長井はわははと笑いだした。


「お前の体力の方が持たへんやろ。年齢なんぼほど違うと思うてるんや」


 戸川が後ろから長井に言葉の刃を刺す。

長井は泣きそうな顔で、無言で岡部の肩を掴んでいる。


「お手柔らかにお願いします」


 岡部はそう言って頭を下げた。

事務室から外に出ると、二頭の竜に鞍が乗せられている。

長井は、今日はちゃんと見ていてくれと岡部に双眼鏡を手渡した。



 岡部と戸川が調教場の観覧台に向かうと、既に吉川が来ていて調教を見ていた。

岡部が挨拶すると、吉川は双眼鏡を外し岡部の方を一瞥した。


「もう良えのか?」


 吉川は呟くように尋ねた。

岡部が御心配おかけしましたと丁寧に返答すると、吉川は、そうかそうかと微笑んだ。


「無事やとは聞いとったが、何事もなくて良かった。若さに感謝せんとな」


 吉川は岡部の肩をつかんで人の良い笑顔を向けた。


「……くくく。戸川の狼狽えた姿を思い出すと、俺は未だに飯が食えるわ!」


 吉川は大笑いし、岡部の肩を掴む手を震わせた。


「狼狽えとったんは、お前もやろ!」


 戸川が横から反撃すると、吉川と戸川は調教そっちのけで笑い出した。


 岡部は双眼鏡で調教場を覗くが、長井の姿を見つけられない。

調教はそろそろですかと言って、また双眼鏡で長井を探し続けた。


「もうとっくに終わったぞ」


 戸川はそう言うと、吉川と笑いながら観察台を後にした。



 事務室に戻ると、長井が、何かわかったことはあったかと岡部に尋ねた。


「……残念ながら」


 岡部は顔を引きつらせた。

見てませんでしたなんて口が裂けても言えない。


「そうか、やっぱ竜に乗らなダメか……」


 長井は渋い顔をして唸った。

だが戸川は、先ほど観察台での岡部を見ているだけに思わず噴き出した。

あれでわかれば苦労はしないと笑い出した。



 そこに日野が現れた。


「俺の監督不足で怪我を負わせてしまって申し訳なかったね」


 日野は岡部を見ると、開口一番頭を下げた。


「いえいえ。こちらこそ自分の失敗でとんでもないご迷惑をおかけしてしまって」


 岡部は恐縮して頭を下げた。


「帰ったら始末書書かないといけないから気が重いよ」


 日野は岡部の顔を見て渋い顔をする。

そんな日野に戸川はほうと声を発し冷たい目を向けた。


「そらそんだけ皇都出張満喫しとったら、帰るのも気が重いわな」


 戸川がチクリと日野を言葉でいびった。


「昨日酒場で、奥さんから離れて独身満喫最高やって言うてませんでしたっけ?」


 長井まで日野を責めた。

言われてみれば日野は少し息が酒臭い。


「昨日はどこで呑んだんや? 毎日毎日、陽の高いうちから、あっちこち呑みに行きおってからに」


 戸川が非常に悪い顔をして日野を問い詰めていく。


「出張費呑んでもうたって言うてましたけど、お土産はどないするんですか?」


 さらに長井が畳みかける。


「と、戸川くん。もうすぐお別れだね。久々に会えて楽しかったよ」


 日野は、驚くほど下手くそな話のそらし方をして高笑いする。

戸川は岡部の顔を見ると、少し日野と話があるので先に事務棟に行ってて欲しいと言った。


「すみれちゃんも、だいぶ心配しとったから、早よ元気な顔見せてあげてや」


 事務室に保管されたままになっていた梨奈からもらった筆記用具を手に、岡部は事務棟に向かった。



 事務棟に到着すると、窓口まで、すみれが駆け寄ってきた。


「岡部さん、もう大丈夫なんですか? みんな心配してはったんですよ?」


 おかげさまでもうすっかりと、岡部は走るそぶりをする。


「今回の事はちゃんと労災いう事で処理しときましたから、安心してくださいね」


 後ろですみれの上司、本城事務長が笑顔で手を振っている。


「久々にここの美味しい珈琲飲みたいですね」


「そしたら、快気祝いに珈琲淹れますね」


 すみれは、はずむように給湯室に吸い込まれていった。


 休憩室で待っていると、すみれがカップ二つを持ってやってきた。

すみれは相変わらずの話好きで、とりとめのない話をやや早口で話している。

話し好きではあるのだが、異性を前に緊張してしまうのか、はたまた会話というものにあまり慣れていないのか、一方的に話す感じになってしまっている。

だが、話自体非常に面白いので、岡部は飽きずにずっと聞いていられている。


「そういえば、南条先生は元気ですか?」


「がっかりするほど元気ですよ」


「南条先生にも御心配かけちゃいましたね」


「叔父さんも心配してはりましたよ。あの日はずる休みやったんやけど、翌日聞いてびっくりしてはったんですよ」


 その後も、すみれは、南条の色々な暴露話をちくちくと話した。



 珈琲を飲み終わると、すみれと別れ研修室に向かった。


 窓から外を見ると、薄暗かった空はすっかり陽光に照らされていて、今日も暑くなりそうな気配を感じさせる。

ここからだと厩舎棟を一望することができ、厩舎関係者が働いてるのを見ながら日野が来るのを待った。


 競馬では見なかった、赤毛や白毛、月毛と思しき竜が厩務員に曳かれているのを見ると、ここは競竜場なのだという事を改めて実感する。

数日後には自分があの中の一員になっているなど未だに実感がわかない。


 ゆっくり厩舎棟を眺めていると、窓に日野が入ってきた影が映った。

振り返ると、日野は疲れ切った顔をしていた。

その顔を見るだけで、岡部が去った後厩舎で何があったかが容易に想像できる。


「酷い目にあったよ……」


 そう言うと、日野は岡部の座る椅子の隣に座った。


「いやあ、出張費の追加を申請してたんだけど、忘れてそれ呑んじゃってさ」


 岡部も窓際から席に戻った。


「戸川くんに無心したんだけど、いやあ、難航したよ」


「ちゃんと借りれたんですか?」


「だいぶ返済が高くついたけど、なんとか貸してもらえたよ。わさび漬け送るから楽しみにしていてね」


 日野は若干引きつった笑いを浮かべる。

岡部の顔も完全に苦笑いである。


 戸川と日野で話し合った結果、今日一日で残り二日分の学科を終える事になった。

哀しいかな、岡部はあまり座学が得意なわけではなく、小試験には大苦戦だった。

日野も普通に会話では回答できるのに、なぜ試験では回答できなくなるのかが不思議でならなかった。



 午前の学科が終わると、戸川厩舎で二人で昼食をとった。

奥さんの手作り弁当を食べながら定番となっている復習をした。


「こうしてると普通にできそうやのにな。なんで試験はあかんのやろうな?」


 答えはわかるが試験の問題文と結びつかないのだと思う。

それも試験の一つと言われればそれまでなのだが。


 最後の学科二日分は止級の話で、呂級と異なり実物を見た事がないので非常に難しく感じる。

ただ呂級の説明に比べると、かなりざっくりとしか講義しなかった。


「実は、うちらもまだそこまで知識がなくてね。事細かに講義できるほどじゃないんだよ」


 詳しい教官が別にいるから、その時に研修に参加して聞いて欲しいと言って日野は苦笑いした。


 一通りの講習が終わると最後に総試験が待っていた。

内容はこれまでの小試験の内容とかなり似た内容になっており、比較的簡単に回答する事ができた。


 すぐにその場で採点が行われる。

日野は岡部を見て合格だよと微笑んだ。


「厩務員免許証と調教資格証は後日発行するけど、明日から厩務員や調教助手として働いてくれて構わないからね」



 日野と岡部が戸川の厩舎に向かうと、戸川は椅子から立ち上がりどうだったと詰め寄った。

これまでの小試験が嘘のように良い出来だったと、日野は微笑んだ。


「日野くん今日までありがとうな」


「久々に戸川くんに会えて楽しかったよ。お酒も旨かったしね」


「どうせ君のことや。手土産買う金も呑んだんやろうから、これ持って行ってくれ」


 戸川は少し大きめの紙袋を日野に持たせた。


「何から何まですまないね」


「君の酒のつまみと違うからな。帰りの電車で食わへんようにな」


「食わねえよ!」


 日野と戸川は大笑いした。

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