第23話 退院

 月曜日、最後の検査の結果が出て問題無いという事になり、午後に退院する事となった。

いつものように奥さんが付き添ってくれて、手続きは奥さんが全てやってくれた。



 岡部と奥さんは車に乗り込み、病院を後にした。

帰りの車の中で奥さんは、今一番何がしたいか聞いてきた。

岡部からしたらその質問には即答できる。


「家でご飯が食べたいです。もう病院のやつはこりごりで」


 奥さんはあまりの回答の早さに大笑いした。


「何で、あないに病院の食事って美味しうないんやろうね」


「とにかく何食べても塩気が無いんですよ。薄味とか上品とかじゃなく、味が無いんです」


 力説する岡部に奥さんは必死に笑いを堪えている。


「塩味は薄い方が良えいうけど、削りすぎると美味しうないんよね」


「あんなの食べてたら逆に病気になりますよ」


 余程入院中不満だったのだろう。

岡部は口を尖らせて怒っている。


「嫌やったらさっさと退院しろいうことなのかもよ?」


「だとしたら嫌がらせがきつすぎますよ」


 二人は笑い合いながら駅前大通りを車で南下した。



 昨日まで降り続いた雨は上がり、濡れた町が陽光を反射してキラキラと輝いている。

車は戸川宅への交差点を過ぎさらに南下。

途中交差点を左折し、いつもの大型八百屋に到着した。

奥さんは少し車で待っていてと言い残し一人お店へと駆けていった。



 岡部は車を降り駐車場をぶらぶらと歩いてみた。

近所に何があるのか気にはなるが、車の鍵がかけられないので遠くへ行くわけにもいかない。

八百屋は非常に大型で隣に百円均一の店が併設されている。

反対側には洗濯屋と銀行の窓口も併設されていて、生活に関わる事がこの一角で行えるようになっている。

八百屋だけあり駐車場の回転が良く、車が入っては出てを繰り返している。


 岡部は入院中の運動不足を解消するように、屈伸運動をしたり腕の筋を伸ばしたりと軽い運動を行ってみた。

まだ腰には少し張りのようなものが残るが、それ以外は完治といったところだろう。

軽く走ってみると、少し冷たい空気を体一杯に感じ非常に心地が良い。


「綱ちゃん、何してるん? 帰るよ」


 奥さんからの声で運動に少し熱中していた事を感じた。

車に戻ると奥さんは、もうすっかり怪我の状態は良いみたいねと微笑んだ。




 戸川宅に帰ると奥さんは、買物袋を台所に置き岡部を二階に案内した。

いつまでも客間では落ち着かないだろうからと、ずっと物置部屋になっていた部屋を使うように促した。

テレビも机も無い部屋にちゃぶ台と布団が一組ある。

客間の片隅にあった買物袋がちゃぶ台の上に置かれている。

現状ここではあまりやる事はないだろうから、基本は客間にいる事になるのだろう。


「手前の部屋は梨奈ちゃんの部屋やから、騒ぐと怒られるからね」


 そう言って奥さんは笑いながら階段を降りて行った。

持っていた資料をちゃぶ台の上に置き、花瓶を窓辺に置くと岡部も客間に降りて行った。



 客間に降りるとすぐに昼食の時間となった。


 奥さんと二人で昼食をとるのもなんだか久々な気がする。

奥さんは八百屋で購入したお惣菜に少し手を加え膳に出した。

朝の味噌汁を温め直しお新香を切る。

味噌汁は煮詰まって濃いめになってはいるが、その分味が強くなっていて病院食と比べると天と地ほどの差がある。

お新香を口に入れると、やっぱりこの味だという安心感がこみ上げる。

買ってきた小判揚げには、麺つゆとみりんで作った少し甘辛のたれがかけられている。

たったそれだけなのにちゃんと奥さんの味に変わっているから不思議だ。


 奥さんは昼食を食べながら、戸川の料理が本当に酷かったと言って笑い出した。

奥さんも食べたそうだが、基本火が入りすぎで、とにかく味付けが辛く全部が酒のつまみ風だったらしい。

梨奈がそれに怒って自分で料理をし始めたらしい。

馬鈴薯の煮物、きんぴら牛蒡と梨奈の好みばかり作って戸川がげんなりしていたのだそうだ。


「そうそう、お昼ののり弁、驚くほど美味しかったですよ」


 そう岡部が言うと奥さんは少し拗ねた顔をする。


「おかげで私は一人寂しいお昼やったんよ」


「ちなみに僕は、お昼はずっと補習でした」


 奥さんは噴出して笑い出した。




 昼食をすませると戸川が早々に帰宅してきた。

またもや長井に厩舎の事を任せてきたのだとか。

戸川は厩舎棟できつねうどんを食べてきたらしく、客間でお茶を啜りまったりとしている。


 そんな戸川に岡部は、明日から研修を再開できないか尋ねた。

体調が良いなら、残りは午前が二日分だけだから、日野に話して再開してもらうと言ってもらえた。


 あれから日野は競竜学校には戻らず、ずっと皇都の宿泊所に泊まっているらしい。

朝は戸川厩舎で調教を見学して、午前中何やら書類書きをし、午後からは皇都観光に洒落こんでいる。


 競竜学校は東国の駿豆すんとう郡の土肥といという地にある。

東海道から外れ下田路を南下、天城峠の手前を駿河湾側に外れた所なのだそうだ。

戸川も調教師研修で行ったそうだが、とにかく魚貝が旨く、毎晩刺身を肴に日野たち同期と酒ばかり呑んでいたのだとか。


 騎手研修は周りに何もない研修場内の寮に監禁され、地獄の日々を送るらしい。

だが調教師研修は、少し離れた海辺の宿泊所からの通いで外出も自由なのだそうだ。

近くには温泉も多く、休みには日野と温泉に行っては海鮮丼を食べ米酒を呑んでいたそうだ。


 戸川の昔話は呑んだ話ばかりだ。


「最近、日野くんとよう研修の話するけど、長井は二度と行きたない言うてるわ」


「だいぶ印象が違うんですね」


「うちらは研修、長井たちは学校やからな。そら自然そうなるやろな」


 そう言えば白井の競馬学校もそういう雰囲気だったなと、当時を思い出し岡部は少しげんなりした。


「あの辺りって確かわさびも有名ですよね」


「そうそう! わさび漬けが絶品でな。西国はわさび作りって全然盛んやないから、実家に山ほど送ったったわ」


 またわさび漬けが食べたいと、戸川は少し遠くを見て呟いた。


「わさびが美味しい所って蕎麦も美味しい印象ですよね」


「蕎麦も旨かったよ。感動で鼻がつんとして涙出たわ」


 戸川は一人で大爆笑して悦に浸っている。


「あれ? そういえば君、あの辺の出って聞いた気がするんやけど?」


「駿河湾の反対側の御前崎ですね。ですけど伊豆にはあまり行かなかったですね」


 御前崎からだと、三島、沼津より先は交通の便があまりにも悪いのだ。

地形的に峻厳すぎるので、やむを得ないのかもしれないが。


「そやけど駿河湾の魚の旨さは知っとるんやろ?」


「有名どころといえば赤エビですかね。僕は『キンメ』が好きでした」


 『キンメ』という単語に戸川は目を輝かせた。


「『キンメ』な! あれの煮つけは絶品やったわ!」


 戸川は口を半開きにして、キンメなあと何度も繰り返し呟いている。


「そんな良い場所なのに、日野さん帰りたがらないんですね」


「帰るのはやぶさかやないけど、交通の便が悪いから往復したないんやって」



 暫くすると梨奈が学校から帰ってきた。

か細い声でただいまと言うと、客間に岡部の顔を見つけ、大急ぎで自分の部屋に駆けていった。

二階からドタバタという音がしたかと思うと、痛っという声が聞こえてくる。

急いで階段を駆け降りる音がした後、うわっという声がした。


 いつものだぼっとした上に、半ズボンのような下で、足を出した格好で梨奈が客間に現れた。

何の話と、さっそく会話に割り込もうとする。

岡部が伊豆の話だよと言うと、梨奈は行った事ないと寂しそうにした。


「連れて行ってやりたいのは山々なんやけど、交通の便が悪いから中々行けるところやないねん。こっからやと遠いしな」


 戸川は必死に言い訳をした。

だが梨奈は明らかに納得していない感じである。


「私、旅行自体あまり連れて行ってもらったことないんやけど」


 そう言ってさらに戸川を追い詰めた。

岡部がどこに行ってみたいのと尋ねると、梨奈は耳を赤くしてうなだれた。


 梨奈が小さい頃、遠征の関係で奥さんに連れられよく幕府に行ったらしい。

だが梨奈は毎回出先で高熱を出すので、だんだん奥さんが面倒臭がって連れて行かなくなってしまたのだそうだ。


「それは小さい頃の事で、今はそんな事ないんやから!」


 梨奈はそう言って口を尖らせる。


「あれ? 昨年、西府のでかい水族館に行った時、熱出してたような気するけど気のせいやったやろうか?」


 戸川の指摘に梨奈はぐうの音も出なくなってしまった。


「今年はさすがにこれ以上は長井に丸投げできへんから、来年まで旅行は無理やろうな」


「毎年それやん。そう言って結局どこへも行かれへん」


 梨奈はそう言ってむくれた。

確かにこれから夏休みだろうに、旅行は無理と言われればむくれもするだろう。


「長井さんは夏休みって取らないんですか? 何なら少し長めにとってもらえば」


 岡部がそう尋ねると、戸川は何かをひらめいた顔をする。


「そうやな。長井の休みは君の活躍次第やな」


 戸川は岡部の顔を見ると笑いだした。

三人はその後も、あれやこれや夏休みについて話を続けていた。




 暫くすると、奥さんが客間に顔を出し、今日は快気祝いだと言って嬉しそうな顔をした。

食卓に行くとお好み焼きが焼かれており、机の上には三本の麦酒と蜜柑水が用意されている。

四人はそれぞれ食卓につくと、戸川と奥さん、岡部は、おもむろに麦酒の蓋を開けた。

乾杯とコップを合わせ、思い思いに麦酒を呑みお好み焼きを食べた。

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