第16話 好み

 競竜場で戸川を降ろすと、二人は夕食の買い出しに先日の八百屋へと向かった。


「ゆうげは何にしよう。お肉食べてもうたからなあ」


 奥さんはハンドルを指で小刻みに叩きながら車を走らせている。


「僕らはお肉を食べたから、夜は梨奈ちゃんの好きなものにしたらどうでしょう?」


「梨奈ちゃんねえ。あの子、好みが渋いんよね……」


 岡部は奥さんの発言の意味のわからなさに思わず吹き出した。


「食の好みで『渋い』って何ですか?」


「肉やったらそぼろが好きとか、魚やったらしらすが好きとか。果物やと琵琶が好きとか」


 渋い。

それは確かに渋い。


「あの子の好みに合わせると膳が寂しうなるんよ……」


「一番の好物って何なんですか?」


「一番かどうかはわからへんけども、薩摩芋の甘辛煮はいつも喜ぶかな」


 確かに主菜が薩摩芋の甘辛煮では、寂しさより貧しさを感じてしまうだろう。

ここまで聞いて岡部には一つの疑問が浮かんだ。


「あの、もしかして、純粋に味がわかりやすいものが好きなんじゃないでしょうか?」


 つまり好みが渋いだけで子供舌なんじゃないかと。

奥さんは少し考え事をしている。


「その発想はあらへんかったわ。一つ試してみようか?」


 奥さんは一人車を降り夕飯の買出しに行ってしまった。

暫くして奥さんは、時折見せる悪戯っ子の顔をして戻ってきた。

結局何にしたんですかと岡部が尋ねる、内緒と言ってくすくす笑った。




 家に帰ると岡部は真っ直ぐ客間に戻り、梨奈から借りた地理の資料を見始めた。

見始めてすぐに梨奈が帰宅。

梨奈は玄関で靴を脱ぐと制服のまま客間に顔を出した。


「梨奈ちゃん、おかえり」


 梨奈は客間に岡部がいるのを確認すると、ただいまと言って大急ぎで自分の部屋に行ってしまった。


 岡部がまた地理の資料に目を落すと、梨奈が階段を駆け下りる音がする。

階段を踏み外しそうになったらしく、うわっと声を上げ大急ぎで客間に入って来た。

いつものだぼっとした長袖の服に、短パンのようなズボンをはいている。


 梨奈が、岡部と何か接点を持とうともじもじしているので、代わりに岡部が口を開いた。


「聞いたよ。梨奈ちゃん、薩摩芋が好きなんだってね」


 梨奈は焦って顔を上げると、小刻みに震えながら岡部を見る。


「母さんね! 恥ずいなあ、もう。もっと可愛いもん言うてくれたら良えのに!」


「可愛いもんって例えばどんな?」


 梨奈は自分の好みの事なのに、すぐには出てこないでいる。


「果実盛りとか、果実あんみつとか……」


「なるほどね。梨奈ちゃんは、羊羹みたいなものが好きなんだと思った」


「母さん、絶対何か余計なこと言うた!」


 いや特にはと言ったものの、確実に誤魔化し切れてはいないだろう。

岡部はそれ以上の梨奈の追及を逃れるため、視線を不自然に地理の資料に移す。

梨奈が可愛く口を尖らせ憮然とした顔を岡部に向けていると、戸川が帰宅した。


 梨奈は席を立とうとしたが、岡部はそれを制して座らせたままにした。

戸川は帰宅すると真っ直ぐ客間に顔を出した。


 おかえりなさいと岡部が言うと、梨奈は戸川の方に顔を向けず、か細い声でおかえりと挨拶した。

久々に娘に挨拶されたのが余程嬉しかったのか、戸川はおちゃらけて、ただいま、ただいまと嬉しそうに二度繰り返した。


 岡部の前の座布団に座ると、戸川は、あの後事務棟から連絡があったという話を始めた。

研修は明日からということで話を進めてもらったが大丈夫だっただろうかと、岡部に確認した。

岡部は背筋を伸ばし、力強い顔で問題ありませんと回答。

梨奈は隣で俯いたまま、少しつまらなそうな態度をとっている。


 持物としては筆記用具だけ持ってきてくれれば良いそうだ。

実習があるから動きやすい格好で来るようにという事だが、いつもの格好で問題無いだろう。


「教官は僕も知っている人やから、良うしてくれるはずやで」


 戸川は岡部に優しい顔を向けた。

岡部も安心した顔をしてる。



「そういえば梨奈ちゃん」


 戸川にいきなり呼ばれ、梨奈は少しびくっと体を震わせる。


「綱一郎君な、厩務員になっても、この家から通ってもらおう思うんやけど良えかな?」


 思いがけない言葉に梨奈の顔が赤くほころぶ。


「本当? 嘘ついてない?」


 梨奈は、戸川と岡部の顔を交互に見ながら無邪気にはしゃいだ。

岡部は梨奈に笑顔を向け無言で首を縦に振る。

喜ぶ梨奈の姿を見て岡部も嬉しさを感じた。


 元の世界では岡部に兄弟はいなかったが、従兄弟に六つ年下の女の子がいた。

その子が小学校四年の頃に競馬学校に入学した為その頃までの記憶しかないが、梨奈にはその子の面影を感じる。


 梨奈は、そうだと言って勢いよく席を立った。


「ねえ、筆記用具いるんでしょ? 私の使ってよ!」


 そう言って自分の部屋に大急ぎで取りに行った。


 その後も夕飯までの間、戸川は研修の説明をした。

筆記用具を持ってきた梨奈は、何故か岡部と一緒にその説明を聞いている。




 客間に顔を出した奥さんが三人がそろっているのを見て少し驚き、ゆうげだと言って去って行った。


 今宵の献立はオムライスだった。


「何だ? 今日は大きな卵焼きだけなんか?」


 それを見た戸川がそう尋ねた。

奥さんはそんなわけないと大笑いしている。

梨奈も同様に首をかしげている。


 昔、皇都の外食屋で食べたものを見様見真似で作ってみたのだそうだ。

見様見真似でこれが作れる奥さんの料理の才能に恐れ入る。


「あれ? 綱ちゃんはあんま驚かへんのやね?」


「僕のとこでは結構一般的でしたから」


 いただきますと一口食べた岡部は、全体的に何かが違うと気が付いた。


「綱ちゃん、これで合うてんのかな?」


「何かが違うんですけど、これはこれで美味しいですね」


「私も何か違う思うんやけど、何やろうね?」


 戸川は旨いとも不味いとも言わず黙々と食べている。

梨奈は明らかに嬉しそうな顔をしている。


「美味しい。卵焼きって赤茄子のタレがこんなに合うんやね。これ好き!」


 か細い声ながら明るい声で喜んでいる。


「そやろ! これ絶対梨奈ちゃん好きやと思うたんよ」


 そこまで聞くと梨奈は、何かを思い出したようにちょっと憮然とした顔をする。


「母さん、綱一郎さんに何かいらん事言うたでしょ!」


 奥さんは、何の事としらばくれている。


「なんで芋が好きみたいな可愛くないこと言うんよ!」


「嘘ついたわけやないんやから良えやないの!」


 二人の言い合いを聞いて、戸川がまた始まったという顔をしている。


「良え事ないよ! 私がまるで田舎者みたいやないの!」


「私は好みが渋い言うただけで、田舎者やなんて一言も言うてません!」


 奥さんは梨奈から目を反らし、オムライスを口にする。


「なお悪いわ! それやとお婆ちゃんみたいやん!」


「みたいやのうて、好みは完全に枯れた老婆やないの」


 どうも奥さんの言葉が、いちいち梨奈の感情を逆撫でするらしい。


「枯れてへんもん!!」


「そんなんやから、出なあかんとこが出へんのと違うの?」


 どうやら奥さんが致命的な一言を言ったらしい。

梨奈は机をパンと叩いて椅子から立ち上がる。


「遺伝や言うたんは、どこの誰よ!」


「愛と勇気で盛って誤魔化すんやろ?」


「夢と希望で膨らませるんや!」


 どうやら今のやり取りが戸川の笑い琴線に触れたらしい。

ブフッと言って吹き出してしまう。

そのせいで梨奈にじろりと睨まれてしまった。


「ちいとも膨らんでへんやないの」


「いくら膨らませても、すぐに萎んでまうんよ」


「萎んでしわしわになったら、それこそ老婆やん」


「ぴっちぴちや!」


 梨奈はすっかり立ち上がり、食事よりも口論に熱中している。

奥さんは、梨奈を茶化しながらも匙を動かし続けている。

戸川は関わったら余計な怪我をするとでもいうように、黙々と食事をしている。


 二人の舌戦が過熱し食卓が熱くなったところで、岡部がすっとんきょうな声をあげた。


「わかった! これ卵、和風出汁で焼いたでしょ?」


「ようわかったね。本物はそうやないの?」


「これの卵って確か牛乳とバターで焼くんですよ」


 岡部の説明は、奥さんにいまいち通じていない。

たぶん乳脂の事と梨奈が捕捉すると、奥さんは、ああそうなんだと手を打った。


「そしたらご飯も和風出汁や無いんかもね」


 西風出汁なんじゃないのと、梨奈が一口食べて言う。

珍しく料理について話をする梨奈は、いつになく明るい顔をしている。


「試してみる!」


 奥さんは、冷蔵庫から牛乳と卵を取り出した。


「ちょっと、皆そないに食べられへんよ」


 梨奈が慌てて奥さんを制止した。

だが奥さんは舞い上がってしまっていて、それを振り切りオムライスを試作した。


「綱ちゃん、こんな感じかな」


 できあがったのは、いかにも試作という感じの、かなり小さ目のオムライスだった。


「ああ、これですよ! これ!」


 一口食べて岡部がそう言うと、三人は競うように匙を小さなオムライスに突きたてる。


「ああ、これやわ、昔食べたの! この味、懐かしいわあ」


 一口食べ奥さんがしみじみと言った。


「僕は、前の方が好きかも知れへんなあ。こっちのが食べ慣れてる感じがする」


 戸川は、新しい方はあまり口に合わなかったらしく、元のオムライスを食べ始める。

岡部も思ったのだが、確かに全てが和風なので味に統一感があるのだ。


「どっちも美味しいけど、私はこっちの後の方が好きかも」


 梨奈は二つのオムライスを交互にもちもち噛みしめるように食べている。



 奥さんの顔を見ると、嬉しさで満面の笑顔であった。

良く見ると少し目が潤んでいた。

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