第15話 手続き

 車は駅前大通りを南下している。


 空はどこまでも青々と澄み渡り、白い雲が点々と浮かんでいる。

この世界に来て初めてのすっきりとした晴れ日である。


 岡部が窓を半分だけ開けると、冷たい風が車内に少し強めに吹き込んでくる。

奥さんも窓を少し開けると、今日は久々に気持ちの良い日だと微笑んだ。

奥さんは癖なのか、ハンドルを右手の人差指でトントンと叩き、リズムを取りながら運転している。

気持ちの良い風に誘われ伏見市役所へと向かった。



 入口近くの案内窓口で話をすると、生活課を案内された。

生活課の窓口でも、奥さんは窓口の時と全く同じ説明をする。

待合で暫く待つように言われたらしい。

奥さんは持ってきた雑誌を無表情で読み始めた。


 流石に今回は前回と異なり書面を受け取る程度だろうと高をくくっていた岡部は、真面目に椅子に座って待った。

最初はきょろきょろと役場内を見まわしていたのだが、あまりの待ち時間の長さにすっかり飽きてしまった。

こんなことなら梨奈の地図帳を持ってくるんだったとかなり後悔している。


 生活課での待合には奥さんと岡部しかおらず、十人以上いる生活課は岡部たちの対応をしているはずである。

にも関わらず、全員席に着きパソコンをカタカタしているだけで誰も席を立たない。

すっかり待ち疲れたところで岡部たちは窓口に呼ばれた。

窓口はここでは無いので住民課に行って欲しいということだった。



 住民課に行くと、住民課は生活課から何も聞かされておらず、奥さんは本日三度目の同じ説明を始めた。

待合で待つようにと言われると、さすがに奥さんは我慢がならなかったらしい。

席に戻ろうとした窓口の中年女性を呼び止め苦情を言う。


「今日これで二回目やで!! 何で前回と同じ生活課を通さなあかんかったん? あの儀式に何の意味があるんよ!」


 奥さんはもの凄い剣幕で責めており、周囲の人たちが何事かとこちらを見ている。


「前回もこの窓口でしたら、真っ直ぐこの窓口を訪ねていただけたら良かったですよ」


 中年女性は怯むでも困るでもなく、淡々と述べた。


「入口で生活課言われたんよ! それに! それやったら前回そう言うてくれたら良かったやないの!」


「案内が不足していたようで申し訳ありません」


 奥さんはかなり激怒しているのだが、中年女性には何一つ響いていない。


「そもそも! なんで生活課、自分とこやないってわかるのにあない時間かかるんよ!」


「生活課への苦情は生活課にお願いします」


 中年女性の、ザ・お役所対応に岡部も苛々してきている。


「そしたら、なんでこっちに案内されたのに、生活課からこっちに話来てへんのよ! あんたら一体どうなってんのよ!」


「申し訳ありませんでした。貴重な意見として改善に努めていきますので、待合でお待ちください」


 中年女性は、表情一つ変えず奥さんの背後のパイプ椅子に手を向けた。

どうやら中年女性は、こうした苦情にすっかり慣れているらしい。

いかにもマニュアル通りという対応で奥さんを追い払おうとしている。

のれんに腕押しな感じに奥さんも呆れ果て、憮然とした態度で待合の粗末な椅子に腰かけた。


「綱ちゃんとこも、こないな感じやったの?」


 まだ怒りが収まらないらしく、若干語気が荒い。


「残念ながら僕のとこも……」


「そうなんや。どこも一緒なんやね」


 奥さんはそれを聞くと少し落ち着きを取り戻した。


「なんで役場ってこうなんやろか?」


「ここがどうかは知らないですけど、僕のところではどんなにダラダラしても解雇されないからって言われてましたね」


 どうせ勤務時間は決まっているのだから、じっくり時間をかけまくった方が全体的な仕事量は減るということらしい。


「それはここも同じよ。でもさ、そしたらなおの事、効率好く仕事済ませた方が自由時間取れるわけやん?」


「効率良く仕事したら上司に怒られでもするんですかね?」


「どこの世界に、効率よく仕事して怒られるとこがあんのよ」


 奥さんは一時の興奮がすっかり収まって、笑顔を取り戻している。

その後も待合の粗末な椅子に座りながら、二人は役場の悪口を言い合って笑いあった。


 窓口からの呼び出しがかかったのは一時間も後の事だった。


「そらこれやったら、これっぽちのことに二日もかかるわな!」


 奥さんは前回と同じく悪態をついて役場を後にした。



 戸籍謄本を手に車に戻った時には、時計はもはや十一時になろうとしていた。


「父さんのとこ行くの、ひるげ取ってからの方が良えかな?」


奥さんは車を動かさずにハンドルを握った状態で岡部の顔を見た。

だが、岡部に行動の選択権があるわけでは無いし、奥さんも手渡しているつもりはない。

奥さんは少し考え朝のことを思い出したらしい。


「そうや。このまま行ったろう。朝の感じやと奢ってくれるかも!」


 奥さんはニヤリと笑い車を発進させた。




 宇治川の側道をまっすぐ西に進むと、一面の背の低い住宅が広がる前方に大きな建造物が顔を出す。

空っぽの駐車場の一角に車を停めてもらうと、岡部は厩舎棟に向かって歩き出した。

岡部は、あまり方向感覚が鋭い方ではない。

思わず真っ直ぐ競竜場に向かって行きそうになった。

途中で気が付き競竜場の裏手に向かうと、華やかな表の景色とは違う殺風景な厩舎棟が顔を出す。



 入口で戸川調教師の名前を出すと、守衛の痩せた老人は、内線を手に戸川厩舎に連絡をしてくれた。

老人は暫く何かを話していたが、内線を切ると守衛横の小さな椅子で待つように促した。


「今日は、久々にええ日になったなあ」


 守衛の老人が岡部に話かけた。

岡部も空を見て、過ごしやすい天気だと返答。

守衛の老人の話によると、いつもだとこの曜日はどこの厩舎も来客どころじゃないらしい。

だが、今はお休みの期間なので人もまばらなのだそうだ。


「いつもはまるで戦場みたいなんやで」


 守衛の老人は大げさな身振りをして笑い出した。



 老人から厩舎の説明を受けながら、遅いなあと戸川を待っていると、遠くから戸川がやってくるのが見えた。


「お待たせしてもうたね。しっかし、えろうかかったな」


「それが……役場が例によって例のごとくでして……」


 岡部が書類の入った茶封筒を指差し呆れた顔をすると、戸川もやれやれという仕草をした。


「まあ。大方そんなことやろうとは思ったけども。二度目やのにな」


「奥さんもカンカンでしたよ」


「あれは普段は冷静なんやが、怒るとおっかないんや……」


 戸川は笑いながら、入口すぐの白い小さな建物に向かって歩き出した。

岡部が一旦振り返り守衛に頭を下げると、守衛の老人は小さく手を振った。


「最後のは……その、黙っといてな」


 戸川がぼそっと言うと岡部はクスクス笑い出した。



 手続きはあっという間に済んだ。

既に戸川が書類の大半を記入してくれていて、岡部は自分の名前を書くだけになっていた。

受付の女性は書類を受理すると、時期的に夏休みに入るからすぐに研修できると思いますよと岡部の顔を見た。


 女性は岡部と同じくらいの年齢だろうか。

濃茶の髪は長く、顔は少し丸く背は低め。

全体的に中肉で、かなりの胸部をしている。

声は余所行きの作った感じだが、高く澄んでいる。

首からかけられた名札には、見えにくいながら『三淵みつぶちすみれ』と書かれているように見える。


 すみれは、何かと不便だろうからと『皇都競竜場 戸川厩舎 厩務員 岡部綱一郎』と書かれた名札を差し出すと、これを身に付けていれば怒られないからと説明した。

戸川はすみれに、計画が決まったら厩舎に教えてくれと言い残し事務棟を後にした。



 厩舎棟を出て真っ直ぐ駐車場に向かうと、奥さんが車から降りてきた。


「あれ? 手続きもう終わったん? 早ない?」


 そう言いながら、二人に向かってきた。


「ほとんど事前に話済ませてもうてたからな。紙も用意してもろてたし」


「普通はそうやんな! あの人らどうかしてるんよ。今日来い言うといて準備一切できてへんとか。ありえへんわ」


 奥さんは、また怒りが繰り返してきたようで口を尖らせている。


「あそこは相変わらずやな」


 戸川が呆れてそう言うと、奥さんと岡部も小さく頷いた。



 三人はゆっくりと車の方に歩き出した。


「ひるげは行けるん?」


 奥さんはごく自然に戸川に尋ねた。

どうやら戸川もそのつもりだったらしい。


「ああ、用事ある言うて任せてきたから大丈夫やで」


 そう言ってにこりと微笑んだ。


「ねえ、ねえ。何食べる?」


 奢りだと察し、奥さんは実に嬉しそうな顔をしている。


「鉄板焼きはどうやろうか。車で少し行ったとこになるけど」


「お小遣い、そないに残ってるん?」


 奥さんの指摘に、戸川はじっとりとした目をする。


「なんぼほど食うつもりや?」


「せっかくやから逸品の方の一枚肉を……」


「……お手柔らかに頼むな」


 三人は笑いながら車に乗り込むと、鉄板焼き屋に向かって車を走らせた。



 鉄板焼き屋は、競竜場からはそれほど遠くない場所にあった。

黒字に白で『鉄板焼き 日輪』と書かれた看板の隣に車を停め店に向かった。


 四人席に座り、戸川と奥さんで同じお品書きを見ている。

岡部は二人の対面に座り、別のお品書きを見る。

奥さんの言っていた『逸品の一枚肉』と思しき料理はこれかと、値段を見て苦笑した。

奥さんはそれはさすがに冗談だったようで、五種肉食べ比べを注文。

岡部は大判肉団子と書かれた、ハンバーグを注文することにした。

戸川は、遠慮しないでも良いのにと言いながら、豚てきを注文した。

全てを合わせても『逸品の一枚肉』はそれ以上に高いのだから、どれだけ良い肉なのか非情に興味深いところではある。


「守衛で聞いたんですけど、本来なら今日は、僕に構っていられない曜日なんだそうですね」


「ああ、そうやね。いつもやったら明日、明後日の競走に向けて、一番バタバタしてるとこやね」


 戸川はおしぼりの袋をポンと音を立てて開け、手を拭き始める。


「昨日説明したけども、この時期は止級やってるから、呂級は夏休みなんや」


 戸川は手を拭いたおしぼりで顔を拭き始めた。


 「休み言うても、どこにも連れてってもろたこと無いけどね」


 奥さんの冷たい指摘に、戸川は凍えた顔をする。


 戸川が次の言葉をどこかにふっ飛ばして口を開閉していると、それぞれの肉料理が運ばれてきた。

戸川は小包丁で肉を切り、無言で肉を食べようとしている。


「生き物を扱っているんですから、長期休暇ってわけには中々いかないですよね」


「おお、さすが元騎手! よう理解してはるやないか!」


 戸川の表情は一気に明るくなった。


「それがわかってくれてるんやったら、こっちは気が楽やわ。夜も仕事あったりして、慣れるまで暫くしんどいかもしれへんけども休みはちゃんと振るから」


 箸で豚肉を掴みながら、戸川は岡部に優しい顔を向ける。


「ねえ、綱ちゃんってうちから通うわけにはいかへんの」


 奥さんは鹿肉を食べて、戸川に尋ねた。


「僕は構へんけど、綱一郎君はどうなんや?」


 二人は揃って岡部の顔を見つめる。

岡部は、もちろんその方が色々と安心と微笑んだ。


「梨奈ちゃんはどうなんやろ?」


 戸川は奥さんの顔を見て心配そうな顔をした。


「あの子もその方が喜ぶんと違う? 最初は戸惑ってたけども、親族が増えてかなり舞い上がっとるみたいやし」


 それなら決まりだと戸川は手を打った。


「そんな風に言っていただいて嬉しいです」


 岡部は重々しく呟いた。

目頭が熱くなるのを感じる。


「煙、ちときついな」


 戸川がそう茶化すと、奥さんは間髪入れず戸川の腕をパンと叩いた。


「あんたの肉のタレが焦げてるんやわ」


 奥さんは戸川の視線を肉の方に向けさせて誤魔化してくれた。



 一通り食べ終わり三人で席を立つと、戸川が伝票を持って会計に向かって行った。


 先に岡部が車に乗り込もうとすると、奥さんが一人ぼそっと呟く。


「拾い物には福があるって、ほんまなんやね」


 その声は岡部にもほとんど聞こえないくらいの小声だった。


「お肉美味しかったですね」


「あの人の会計やからなおさらやわ!」


 奥さんは特有のけらけら笑いをする。


 戸川が車に乗りこむと、車は競竜場に向けて走り出した。

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