第8話 梨奈

 娘の悲鳴を聞きつけ母親が急いで駆け付けてきた。


 母親が扉を開けると、少女は制服のスカートを履き寝間着の上で胸を隠している。

少女は知っている人影を見て、えも言われぬ安心感を感じたらしい。

凄い速さで母親にしがみついた。


「変質者がおる!!!」


 左手で持った寝間着で胸部を隠しながら、右手で母親にすがりついた。

奥さんはすぐに何があったかを察し、娘の頭を撫でながら背中を軽く抱いている。


「変質者ちゃうよ。今日からうちで面倒見ることになった方よ」


「変質者やもん! 着替え覗かれたもん!」


 岡部は奥さんに頭を下げ、謝罪の言葉を口にしている。

そういえば娘の事を話していなかったことに、奥さんは今更ながらに気が付いた。

何も知らずに突然変態扱いされている岡部を少し哀れに感じた。


「ちょっとした事故やん。許したって」


「乙女の着替え覗いて、事故で済むわけないやん!」


 少女は真っ赤な顔をして、ギロリと岡部を睨む。


「そないな言わんと許したってよ。減るもんやないんやから」


 『減るもんじゃない』の一言が、娘の心の何かに触れたらしく、論戦は思わぬ方向に向かっていった。


「これ以上減ったらたまらんのよ。ねえ、もう、そういうことやないんよ」


 少女は胸を隠した状態で、母親から少し離れる。


「だいたい、その人誰なんよ?」


「暫くうちで面倒みることになった方よ」


 奥さんの言葉に少女は小首を傾げる。


「……生き別れの兄ちゃんなん?」


 奥さんは、少女の発言の意味をすぐには理解できなかったらしい。

少し間が開き二人は不思議そうな顔をし見つめ合う。


「ちょっと、隠し子ちゃうよ! 梨奈りなちゃん、あんた私を何やと思うてんのよ! こう見えて私、身持ちは硬いんやから」


「知らんがな」


 奥さんが憤ると、少女――梨奈は不貞腐れたような顔をする。

明らかに梨奈が落ち着きを取り戻し始めているのを感じる。


「大体、そんな板菓子みたいの見て、喜ぶ人なんておらへんでしょ」


 ……それは、ちょっとまずいんじゃないだろうか?

岡部の懸念は見事に的中し、奥さんの発言に梨奈は露骨に苛ついた顔をする。

 

「誰が板菓子やねん!! まだ成長途中なだけや!」


 激怒する梨奈を煽るように、奥さんは右手で梨奈を仰ぐ。


「梨奈ちゃん。まだそんな淡い期待持って……」


「当たり前やん!!」


 大きな瞳が母親の顔を強く睨めつける。


「母さんと違うて、私にはまだ夢も希望もあんの!」


「夢と希望を胸に詰め物にできたら良えのにねえ」


 梨奈は苛っとはしながらも、一呼吸置き論戦を再開。


「いくら詰めても、すぐ抜けていってしぼんでいってしまうんよ」


 奥さんは寝巻で隠している梨奈の胸部をチラリと見る。


「私があんたくらいの頃には、もう諦めついてたよ?」


「私が諦めてもうたら、未来の旦那さんが哀れやないの!」


 奥さんは、何を言ってるんだと言わんばかりに後頭部を掻いている。


「大丈夫やて。母さんかてちゃんと結婚もできたし、梨奈ちゃんをここまで育ててこれたんやから」


「母さんがそんなんやから、私栄養が欠けたんと違うの?」


 梨奈の指摘が奥さんの逆鱗に触れたらしい。

明らかに不機嫌という表情に変わる。


「あんたの板菓子は遺伝や言うてるでしょ!」


「板菓子、板菓子、言わんといてよ!」


 テニスのラリーのような激しい口喧嘩を聞きながら、岡部は二人と目が合うたびに、頭を下げ謝罪している。



 梨奈が喋る言葉を探った事で、場に少しの静寂が戻る。

梨奈は岡部を一瞥すると小さな声で呟いた。


「……で、どこまで見たん?」


「いや、全然、何も……」


 岡部は精一杯の言い訳をした。

だが梨奈の目は明らかに信じてないという目である。


「……何色やったん?」


「……淡い水色かな?」


「がっつり見てるやないの!!」


 岡部は、ここは正直に見えた事にしておいた方が良いと判断したが、さすがに上半身の薄紅の方は少女が致命的な傷を負ってしまいかねないと思い、布の方の色にした。


「あらあ梨奈ちゃん。今日は水色のやつなのね」


「もう問題はそこやないのよ!」


 母親の予想外の反応に、梨奈は憤りを感じた。


「この人、私の……」


「梨奈ちゃん、遅刻するよ?」


 はと冷静になった梨奈は脱衣所に駆け込んで行った。


「今の一人娘で『梨奈』。言い忘れててごめんなさいね」


 奥さんが渋い顔で脱衣所の扉を指差した。

自分の不注意で申し訳ありませんと、岡部は大きく頭を下げた。



 それから梨奈は三十分ほどで身支度をし、制服姿で家を飛び出していった。

その間何度か岡部と目が合ったのだが、恥ずかしそうに顔を真っ赤にして目を反らしていた。




 奥さんは室内に洗濯物を干し終えると、岡部のいる客間に顔を出した。


「お待たせね。そろそろ役場行こう思うから準備してね」


 岡部は机の上のリモコンでテレビの電源を切り奥さんを待つ。

すぐに奥さんが現れ一緒に玄関に向かった。


 奥さんは、黒を基調としたよくわからない動物柄のシャツに、濃い黄色のズボンという、なんともいえない格好をしている。

家の前の道で待っていると、真紅の背の高い小型自動車を車庫から出してきた。


 助手席に乗り込み、扉を閉めシートベルトを締める。

それを見届けて、奥さんは車を発車させた。


「あの、先ほど……」


そこまで言うと奥さんが言葉を遮った。


「あの子がね、あない喋るん久々に聞いたんよ。普段はほんっまに気の小さい大人しい娘でね」


 戸籍上義理の妹になる娘だから、これに懲りず仲良くして欲しいと、奥さんはやさしく微笑んだ。

もちろんですと岡部は笑顔で頷いた。



 空はどんよりと厚い雲に支配されていて、いつ天気が崩れるかわからない。


 車は家から駅前大通りに向かい通りを南下。

暫く走ると皇都南役場に到着した。


 入口の案内、生活課、住民課と、窓口を移らされる。

各窓口で、それぞれ信じられないほど待たされている。


 最初こそ何かこの世界の情報が得られるのではないかと、あっちをうろちょろ、こっちをうろちょろしていた岡部であったが、思っていたような情報は無く途中ですっかり飽きてしまい、椅子に座って居眠りをしている。

奥さんは最初から長期戦を覚悟してきていたようで、持ち込んだ雑誌を読みふけている。

こういうのもどこも一緒なのだなあと少し気分を害した。


 しかも、最終的には二日後にもう一度来て欲しいと言われた。


「相変わらず、手際の良えことで」


 奥さんもさすがに『二日後』という言葉にカチンと来たらしく、窓口に吐き捨てるように嫌味を言って役場を後にした。



 空は暗灰色の雲で暗く煙っている。


「まあ、あんまりてきぱきされても、重要な戸籍の話だから不安になりますけどね」


 岡部の言葉に奥さんは、案外そういうものかもしれないねと納得した様子だった。

車に乗り込むと、車内の時計は十時半を指している。

何をするにも中途半端な時間である。

どうしようと悩んだ挙句、ちょっと値は張るが、総合商店で一気に済ませてしまおうということになった。


 車は大きな川の横の道をひた走っている。


「これ宇治川いうてね、真っ直ぐ行くと皇都の競竜場があるんよ」


 お昼まで時間があるのでちょっと寄り道しようと奥さんは言い出した。


 競竜場の空の駐車場に車を停めると二人は車を降りた。

奥さんは競竜場の裏手の建物群を指さす。


「あそこに見える建屋が厩舎棟。その先、ここからやとちょっと見えへんのやけど、木に囲まれた大きな調教場があるんよ」


 驚いたことに自分が知っている京都競馬場と全く同じ場所に競竜場が建っている。

ただ自分の知っている競馬場と比べると少し大きい印象を受ける。

栗東からの輸送が無い代わりに、調教場が広く取れたりとかしているのかもしれない。


「こんな場所に、よく広い調教場込みの競竜場なんて造れましたね」


「造った時は畑ばっかで家はほとんど無かったそうやからね」


 元々、この辺りは、皇都、西府さいふ、郡山の各府市ふしの隙間になっていて、ぽっかり空いた場所だったのだそうだ。

更に、宇治川、桂川、木津川と、三本の河川が交わり、周辺は湿地帯が多く、住むにはあまり適していなかった。

この難所を生かして城が建てられたりもしたらしい。


 競竜場ができてから、まず関係者が移住し、それに伴って公共施設が建ち、更に商業施設が建ちと、あっという間にそこそこの都市になっていったのだそうだ。


「ここはね、直ぐ近くに南海道が通ってて、高速道路の昇降口があるから、交通の便もわりかし良えんよ」


 真っ直ぐその高速道路を車で走れば、四国を通って九州まで行けるのだとか。

南海道は、ここからは大和を縦断し、紀伊の吉野川にそって西進し、紀三井寺きみいでらから小島に架かる巨大な橋を通って四国に向かう街道になっているらしい。


 色々道筋を説明してくれたのだが残念ながら岡部には土地勘がなく、いまいち地理も弱く、ぼんやりとすら想像できていない。


「この辺の事、お詳しいんですね」


「そらここで生まれ育ったからね。でもここ以外の事は全然よ」


 奥さんは屈託のない笑みを浮かべる。


「お腹空いてきたから、そろそろ行こうか」


 奥さんは自分の渾身の説明があまり岡部に響かなかったと感じると、話をそこそこに切り上げた。



 地面に大きな水滴が零れ落ちた跡ができる。


「あらあ、降ってきてもうたね」


 二人はそそくさと車に乗り込み、宇治川の橋を越え、久御山にある総合商店へ向かった。

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