第3話 飛竜
青年と中年の男性は共に柵の前に並び立ち、大空と水面を見つめている。
低い空に煤けた雲、その雲から洩れた強い日差しが容赦なく水面を照らし輝かせている。
目の前の水面には太い杭が立っており、その先に短く棒が刺さっていて、ちょうど『卜』の字のようになっている。
「あれは何ですか?」
青年は杭を指さし、中年の男性に興味深々で問いかけた。
明らかに競竜に興味を持ったと見える青年に、中年の男性は、仲間を得たようなえも言われぬ嬉しさが込み上げるのを感じている。
「ここはね、競竜場の中でも北の端の観戦場所になるんだ。それでね、目の前に見えるあの杭はね、走路の最終折り返し地点なんだよ」
中年の男性は杭を指差しながら、青年の顔を見て嬉しそうに説明を始める。
四つめの折り返しだから用語としては『
三角から四角まで競竜は約十
「だからこの四角は周回の中で最も速度が出る場所で、その速度のままに折り返すという一番迫力が感じられる場所なんだよ!」
中年の男性は手を上下左右にくねくねと動かし、視覚的に説明をしてくれている。
「そしてここの四角で折り返した競竜は、羽ばたきながら五間上の終着点に向かうんだよ」
中年の男性は、非常に早口でまくしたてるようにして説明を終えた。
青年はなるほどと小刻みに頭を振っている。
その説明に青年は妙な得心を得ている。
自分が騎手をしていた競馬場も三角から四角には高低差がついている場所があり、直線へのはずみをつけられたりする場所もあった。
平坦なコースでも良いのだろうが、コースに意図的に高低差を付ける事によって、見る側も走行に力強さを感じられるということなのだろう。
世界が変わっても人々の考える事というのはそれほど変わるわけではないのだなと変に達観をした。
『間』は、恐らくここでの距離の単位なのだろうが、それがどれくらいの長さなのかはわからない。
昔、祖父が使っているのを聞いた事があるような気もするが全く思い出せずにいる。
青年は競竜が来るまでの少しの間、中年の男性から新聞を借り見てみることにした。
この辺りは競馬と何も変わりはない。
竜齢は平均して十歳前後と競馬に比べかなり高いのが気になった。
よくわからない競走名と着順も、まあなんとなく見て取れる。
枠には一枠から順に、白、黒、赤、青、黄、緑、橙、桃の順で色が付いている。
こういう色の順番というのも世界が変わっても変わらないものなんだと、ちょっと不思議な気分になった。
ふと次の競走『竜王賞』の下に書かれた文字が気になった。
「あの、ここにある『国定特一』というのは何のことなんですか?」
「ああ『
『特一』は国内では最高級の位階で、他にも『特二』『特三』『
『
国内の『特一』競走のうち『竜王賞』と年末の『
「だからほら、竜柱に国旗が描かれているだろう?」
中年の男性はそう言うのだが、どれも見たことの無い国旗ばかりで、どれがどれだか全くわからない。
日の丸が無いということは日本勢は弱くて全滅か、もしくはここは日本ではないということなのか。
白獅子の書かれた国旗がちょっと格好良く感じる。
それ以外にも何かごちゃごちゃと書かれているが、さすがにそれ以上は専門知識が必要な感じがする。
こういうのは競馬新聞もそうだが、情報を詰め込みすぎていて素人にはもはや理解不能というのも共通なのだろう。
物珍しく新聞を見ていると突然、青年、青年と中年の男性が腕を取ってきた。
慌てて青年は新聞から目を反らし視線を空に移す。
先ほどと同じく、大きな塊が数個こちらにめがけて流れ落ちてくる。
次第に黒い塊は競竜に変わり、翼を少しだけ開いた状態で滑空してくる姿が確認できる。
その中で熾烈な位置取りをしているのが騎手を生業とする青年の目からははっきりと見てとれた。
競竜の首の後ろには見たことの無い形の鞍が置かれていて、その鞍の下の緩衝布の色で枠番がわかるようになっている。
鞍からは斜め下方に
騎手はそれぞれ色とりどりの服を着、枠色のヘルメットをかぶっている。
よく見ると競竜の嘴にはハミのようなものが付けられ、そこから伸びた手綱を騎手が掴んで左右に操作している。
国際競争にしては先ほどより速度が遅いなと思いながらも、八頭がゴールラインに向けて飛び立って行ったのを見届け青年はその場を離れようとした。
「おいおい、どこに行く気なんだよ。競争はこれからだぞ」
中年の男性は青年の腕を取って上空を指さす。
暫くすると、再度八個の大きな塊がこちらにめがけて流れ落ちて来たのだった。
四角に差し掛かると、騎手は腰から鞭を取り出し、競竜の首の横で小さく上下に振る。
明らかに先ほどよりどの騎手も動きが慌ただしい。
ぱっと見でわかるくらい竜の落ちてくる速度が先ほどとは段違いである。
騎手の鞭を合図に各竜は翼を大きく広げ、滑空から飛行へと体勢を変える。
突風が観客を容赦なく襲い、翼から漏れた羽が観客席にも零れ落ちる。
よほど体に負担になるのか各竜は甲高い鳴き声を発し力強く上昇に転じていく。
翼を羽ばたかせ少しづつ上昇しながら飛翔して去っていく姿は、わずか八羽ながらも非常に迫力のある光景に感じる。
既に八羽はすっかり見えなくなり、周囲の観客も帰宅の準備を始めている。
だが青年はまだ胸の鼓動が治まらない。
丸まった新聞を握りしめ、水面と大空をじっと見つめたままだった。
そんな姿を、中年の男性はいつもの長椅子に腰かけ穏やかな目で眺めている。
陽は西に傾きはじめ、大空と水面は薄っすらと黄味をおびはじめている。
あれだけいた観衆はぞろぞろと帰宅の途についており、ハズレ竜券や新聞を回収箱に捨て歩き去っていく。
気が付くと周囲の人影はまばらになり、長椅子の中年の男性と柵の青年だけが取り残されたようになった。
暫くすると青年は何かに気づき、きょろきょろと辺りを探ると中年の男性の下に小走りで駆けてきた。
「あの、その、実は、その……」
青年はその次の言葉を中々口から紡ぎ出せずにいる。
両手の指を腹の前で絡め、足は丁寧に閉じたまま、やや前傾のまま俯いている。
中年の男性はその姿を見て、だいたいの事を察した。
少し地面を見つめると右手で後頭部を掻き、小さくため息をつく。
おもむろに立ち上がると、もう一度右手で今度は側頭部を掻き、また小さくため息をつく。
「僕がおごるから、馴染みの店にでも行こうか」
俯いたまま青年は小さく頷き、感謝の言葉をか細く述べた。
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