第4話 酒場

 出会った長椅子を後にした二人は、競竜場の入場門へとぼとぼと歩きはじめた。


 青年はまだ何かを思慮しているような風で、空を見ては中年の男性をちらりと見て、また空を見るという具合。

対して中年の男性も、まず何から切り出せば良いか、もし何かを聞いてそれが失礼になってしまわないかを深く思案している。

だが門に差し掛かった所で、さすがに沈黙に耐えきれなくなり中年の男性が先に口を開いた。


「その……良ければ君のことを教えてくれたりはしないだろうか?」


 青年は思い返すと、これまで競竜のことばかりで、お互いの事を何も知らない事に気が付いた。

それなのにこの中年の男性は自分を食事に誘ってくれている。

多少なりとも心を開かなければならないと、青年は自責の念にかられた。


「まずはその……名前とか、年齢とか、職業とか、いや、厭ならいいんだけども」


「いえ全然、厭とかそんな……」


 青年は少し慌て、早口めで自己紹介を始める。

名前は岡部おかべ綱一郎こういちろう、年齢は二三歳、職業は騎手。


「『キシュ』というと、音楽に合わせて旗を振る」


「いやそっちではなく、馬に乗る方です」


 『馬に乗る』

岡部の口から発せられた言葉に中年の男性は首を傾げる。

馬に乗ると再度呟き、少し困惑した表情で鼻から息を漏らす。


「馬って乗らないんですか?」


「大昔は乗っていた地域もあると聞くが、竜の方が丈夫だからねえ。乗れる人なんて、曲芸師以外いないんじゃないかなあ。まあ、今となっては竜も乗れる人は限られてはいるんだけど」


 今では皆車さと中年の男性は輪を回す仕草をする。


 確かに馬に丈夫というイメージは無い。

ばんえい馬のように超大型の頑丈な馬もいるし、木曽馬のように脚太の種類もいるのだが、繊細なサラブレッドのイメージがやはり強い。


「『こういちろう』の『こう』は、どんな字を書くんだい?」


 中年の男性の問いに、ふと岡部は漢字が通用するものなのかどうかと考え込んでしまった。


つなという字なんですけど、わかります?」


「ああ、綱か。両親が漁師さんか何かだったのかな?」


 普通に通じたことに多少驚きはしたが、一呼吸置いて周囲を見れば、普通に日本語で書かれている場所ばかりだった。


「両親は会社員でした」


「そうか。じゃあ君は自分で騎手の道を選んだんだね」


 自分でというよりは、小学生の頃大好きだった祖父の膝で見た競馬中継が忘れられなかったのだろう。

今となっては何のレースかすら覚えてはいない。

普段温和で物静かな祖父が、我を忘れるかの如く興奮した姿を見たのが、綱一郎少年の心に深く刻まれたのだった。


「おじさんは、競竜の関係者か何かですか?」


 岡部の問いに、中年の男性は眉をひそめた。

何故そう思うのかと、逆に岡部に尋ねた。


「いえ、先ほど賭けられないって言っていたから。お金を使い果たした風にも見えなかったし、だったら関係者かなあと……」


「確かに僕は関係者だ。だが何で競竜を知らない君が、関係者が竜券りゅうけんを買えないのを知ってるんだろうね?」


 中年の男性の鋭い指摘に、岡部はどう説明すべきかじっと考え込んだ。

中年の男性はその回答をじっと待ち続けたのだが、結局得られなかった。



 競竜場を出て駅までの道を進むと、駅前の正面通りを途中で一本入った路地が呑み屋通りとなっている。

いわゆるおけら街道というやつなのだろう。


 その中の『串焼き 弥兵衛』という店の前で二人は足を止める。

かなり年季の入った佇まいで、ありとあらゆる場所が油で黒く煤けている。

本来の店の色はもはや全く想像ができない。

中からは焼き鳥のような香ばしい匂いが、もくもくとした煙と共に外に漏れ出ている。


 岡部の腹が本人の意思とは関係なく下品な音を奏でた。


「ここで良いかな? ここの『しゃも』が良い味なんだよ」


 少しべたついた暖簾をくぐると、店内は既に競竜場の客でかなり盛り上がっていた。

店の奥に案内された二人は出されたおしぼりで手を拭くと、お品書きを眺めはじめた。


「何か呑むかい?」


 岡部は、お品書きの中から麦酒ばくしゅを選んだ。


「麦酒二つ大瓶で。それと串をお任せで。『かしら』と『しゃも』を先にお願いね」


 お任せ、かしら、しゃも、麦大二と、特大の声が店内に響き渡る。

そこから、それほど待つこともなく麦酒が届けられた。


 中年の男性はおしぼりで顔を拭き麦酒を受け取ると、さあ、まずはやろうと器をカチリと合わせた。

喉を鳴らしながら麦酒を喉に流し込み、大きく息を吐きだし、満面の笑みで声を絞り出す。

岡部も習い麦酒を流し込むと、大きく息を吐き出した。


 明らかに以前呑んだビールとは違う。

質の悪い薄めたアルコールにビールっぽい香りの付けられたものでは無く、麦芽の風味が強く、果実のようなほのかに甘い香りがアルコールの臭いを感じさせない代物だった。


「旨いっ!!」


 思わず叫ぶように言葉が漏れる。

中年の男性はにんまりと顔をほころばすと、二口目を喉に流し込んだ。



 暫くすると、串焼きが四本運ばれてきた。

一本は肉厚の串、もう一本は炙った細い肉の串。


 中年の男性はまず細い肉の方を口にする。

岡部も同じように細い肉を口に運ぶ。

少し硬めの鶏肉から肉汁があふれ出てきた。


「今食べたのが『しゃも』だよ。どうだい?」


「控え目に言って最高ですね!」


 中年の男性はその表現がツボだったのか、そうかそうかと大声で笑いだした。

こっちにはこの辛味噌を付けて食べてみてと、小さな壺から味噌を取り出し肉厚の串焼きに塗り口に運ぶ。

岡部もそれに習うと、少し辛めの味噌が肉の旨みを引き立たせ、今まで食べたどの串焼きより旨いと感じた。


「こっちはね『かしら焼き』と言ってね、豚の頭のお肉を串焼きにしたものなんだ。これも僕、大好きでねえ。本当は、東国とうごくのどこかの名物らしいんだけどね」


「これ凄いですね!!!」


 そうだろう、そうだろうと、中年の男性は串焼きと共に幸せを噛みしめている。



 ある程度お互い空腹が満たされたところで、またお互いの話に入った。

今度は岡部から口火を切った。


「先ほど競竜の関係者だという話でしたけど、競竜の何をされているんですか?」


 中年の男性は新たに運ばれた『ねぎま串』を頬張りながら、岡部の質問に淡々とした口調で答えた。


「調教師だよ。残念ながら『級』ではなく『級』だがね」


 『伊級』とか『呂級』とか、またわからない専門用語が出てきたが、ここで腰を折ってはいけないと頷きながら次の言葉を待った。


会派かいはの筆頭調教師なんてやってると重圧がきつくてね。こうしてたまに伊級の競走を見て、やる気を取り戻しているんだよ」


 そういえばと、忘れていたように中年の男性は自己紹介を始めた。

名前は戸川とがわ為安ためやす、妻と娘がいる。

妻は怖く、娘は……よくわからん。


「僕の年齢も言った方が良いのかな?」


「結構です」


 あまりにきっぱりとした回答に、少し酔いの回った戸川は笑いだしてしまい、暫く笑い声が場を支配した。


「ところで君、住まいはどこなんだい?」


「茨城の美浦みほなんですが、ここからだと、どれくらいかかりますかね?」


 ビールのジョッキ越しに見た戸川は、あきらかに困惑した表情を浮かべている。

散々悩んだ末に戸川が口から出した言葉に、岡部は驚愕した。


「茨城っていうのは、どこのことなんだろう?」


「茨城県ですよ、霞ヶ浦のある東京の東の。嫌だなあ、もう酔ってるんですか?」


 まず東京がわからないという。

霞ヶ浦は常磐じょうばん郡にあるが、そこのことなのかなと、ぶつぶつと独り言のように呟いている。

いづれにしても、今の時間から東国まで行くのは極めて困難ということだった。


「そもそも君、帰るだけのお金は持ってるの?」


 実はかなり前から気が付いていたのだが財布が無い。


「その……文無しです」


 戸川は半分空いた口をそのままに、目の前の青年の顔をじっくりと見つめる。


「じゃあ君は一体どうやってここに来たんだ? それとも持っていたけど財布ごとすられたとかなのかな?」


 戸川は真顔で問いただす。



 岡部は麦酒の口当たりの良さに酔ったこともあり、思い切って身の上を話してみることにした。

レース中、馬の前脚が折れ派手に落馬したこと、他馬に蹴られたこと、気が付いたら戸川の膝で寝ていたこと。


「つまり、ここじゃないどこか別の世界から来たと。人をたばかるような人には見えないし、何というか何だか漫画の話を聞かされているような気分だなあ」


 二人は残りのビールを呑みながら、別々に考え事をしている。


「この後どうする気なの?」


 岡部は麦酒を呑みながら、その事をずっと思案していたのだった。


「わかりません。どうしたら良いか……」


「そっか。じゃあ今日はうちに泊まって、明日どうするか考えたらどうかな?」


 戸川は伝票を持ち上げ店員を呼び会計を依頼した。


「え? よろしいのですか?」


 岡部は驚いた顔で戸川を見た。

何でここまでしてくれるのかと訝しんだが、考えたところで自分でどうこうできるわけでもない。

ここは腹をくくるしかなかった。


「拾い物をするとね、ツキがくると昔から言われとるからね。勝負の世界に住む僕としては転機かもしれないんだ」


 戸川は岡部に優しく微笑みかけると、会計を済ませ、二人で串焼き屋を後にした。

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