第2話 競竜
先ほどまでの喧騒が信じられないほどに周囲は静まり返っている。
まるで周囲の熱狂が競竜の飛翔で吸い取られてしまったかのように急激に冷めていった。
皆また新聞を食い入るように見ながら、ある者は鉛筆でひたすらに何かを書き込み、またある者は色ペンであちこちに印を書いている。
先ほどの柵に集まっていた人たちが軍事行動かのように同じ行動をしており、少し滑稽に映る。
「次は一時間後か……」
中年の男性は腕時計を見ながらぶつぶつとつぶやき、新聞を丸めながら青年の座る長椅子に戻ってきた。
青年は未だ興奮が収まっていない。
以前、複葉機の競技を映像で見たことがある。
だが、あれとは全く違う興奮を覚えている。
「あの! 今のは! 今のは一体何ですか?」
目を見開き、まくしたてるように中年の男性に詰め寄る。
あまりの興奮に、全身の痛みはすっかりどこかに忘れ、青年は思わず中年の男性の両肩を掴んでいた。
「
青年の熱意に中年男性は左足を半歩下がりながらも、ゆっくりと青年を落ち着かせるように喋った。
青年の反応に何かが違ったらしいと感じた中年の男性は、戸惑いながらも、青年の競竜の知識を少しづつ掘り下げていった。
いくつか質問を交わすうちに、どうやら青年が競竜すら知らないとわかると、ゆっくりと説明を始めた。
――恐竜は人類の誕生より遥か以前から生息している生き物である。
後発の人類は、恐竜という生き物と共にその歴史を歩むことを強いられた。
人類にとって凶暴そのものの恐竜は、狩ってくる対象であり生命の脅威そのものであった。
生き物の多くには習性があり比較的簡単に狩ることができたのだが、恐竜には知能があり人類は全く歯が立たなかった。
だが徐々に人類は、賢い恐竜と意思を疎通させる術を学んでいく。
制御ができるようになると、野獣や植物を与えることで飼い慣らすことに成功。
人類にとって恐竜は良き友になっていった。
私たちの民族では小型竜を使って囲い込み猟をしていたし、海沿いでは海竜に乗って漁業をしていたらしい。
農耕、養殖が主体になっても、人類とは比べ物にならない剛力で俊敏な恐竜たちは、耕運に害獣駆除にと大活躍だった。
糞すらも畑の肥料として活用しているし、内臓の一部は薬や香としても利用され『捨てる所の無い生き物』とされてきた。
人類が文明を発展させ文化的な生活を営みだしても、駆竜に籠を引かせたり、翼竜に空の運搬をさせたりと、それでも恐竜は生活に欠かせない生き物であった。
火器が主流になるまで軍隊の主眼は恐竜をどう活用するかだった。
ところが近代になり燃料革命が起った。
恐竜の担っていた仕事の多くは内燃機関による機械に取って代わった。
気まぐれさのある恐竜に比べ、内燃の機械は安定感があり各段に扱いやすい。
多くの恐竜が役目を終え処分されていった。
丁度その頃、どの国でも行われていた恐竜の競技が、役目を終えた恐竜に再び役目を与え大量処分から救えると脚光を浴びることになった。
かなり早い段階で外国で規約が整備され、現在の競竜の原型が誕生している。
国際協会が発足し、各地でばらばらだった体系の整備が行われ、国際競技に発展した――
青年は、はあと緩く頷くしかなかった。
自分が学んできた歴史とは明らかに異なっている。
中年の男性の説明はその内容に驚くというより、ここが自分の生まれ育った世界ではないということを、ただただ実感しただけだった。
自分のいた世界では、恐竜はとっくの昔に絶滅し化石として見つかるだけの存在だった。
中年の男性の言う恐竜の仕事は、馬や牛、犬が行ってきたことである。
それと同時に、もう元の世界に戻る事は恐らくできないのだろうことを察した。
この季節特有の湿度の高さもあって、青年の額から大筋の汗が流れ落ちる。
一通り話し終わった中年の男性は、青年の顔をじっと見つめている。
「ところで、競竜も知らないのに何で君はここにいたんだい?」
至極もっともな疑問である。
だが残念ながら、それは青年の方が聞きたいことであった。
首を傾げ悩む青年を、中年の男性は不思議そうな目で見ている。
暫くの後、青年が重い口を開いた。
「実はよくわからなくて。その記憶が……」
とっさに記憶喪失ということにした。
だがこの状況を納得させるのには最適解だったように感じる。
中年の男性は青年を見つけた時の状況を思い出し、なんとなく察した。
あまり詮索してはいけないのだろうとも感じた。
「ところで、どうして僕はあなたの膝の上で寝ていたのでしょう?」
よせばいいのに、青年は真っ直ぐに問いただしてしまった。
中年の男性は、今となってはかなり冷静に自分の行動を判断できる状況になっている。
そのせいか多少の気恥ずかしさを覚えたらしく、顔がこわばっている。
「この長椅子、いつも僕、ここで競竜観るんだけどね、この下でうつ伏せで倒れていたんだよ」
中年の男性は座っている椅子を指でつんつんと突いた。
最初は死体だと思い肝を冷やしたらしい。
だが近づくと腕や足がぴくりと動いており、ただ意識が混濁しているだけのように感じる。
泥酔しているのかもと感じた。
こんな真昼間からだらしのない奴だとも思った。
だが長椅子に青年を寝かせると鼻から鮮血が垂れた。
貧血で倒れただけなのかもと安堵し、椅子に寝かしたまま新聞を読みはじめた。
「そうしたらうなされるように、膝枕、膝枕と、呟き出してね。自分で良ければと思って膝枕をしてあげたんだよ」
何か思い出せるかなと中年の男性は青年に尋ねた。
『膝枕』という単語に、青年には多少なりとも心当たりがあり、何とも言えない羞恥心が込み上げてくる。
同時に、聞くんじゃなかったと心の底から後悔した。
「さあ、そんなことより、次は今日の主競走『
中年の男性は晴れやかな笑顔で競技場に視線を移した。
気が付くと、また先ほどの柵の周囲に人が集まり始めていた。
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