2 呪いのお礼の後始末



 コンセプトメイドカフェ・『Divineでぃばいん♡』。昼から空いている完璧に健全なものからグレーゾーンのもの、はたまたガールズバーまでもがひしめき合う群雄割拠のこの三軒坂さんげんざかにおいて、ここ『Divine♡』は指折りの有名店だ。もちろん健全な方で。

 その他店との競争から一歩抜きんでるため、そして独自色を出すために重要なのがコンセプトである。ただのメイドカフェでは質で別の地域秋葉原に劣り、奇を衒いすぎては客足も遠のく。

 ならばどうすべきか──そうして推敲に推敲を、協議に協議を重ねた末に決まったのがここのコンセプト・『お客様は神様です』。


 キャストが身に纏うのはシスター風のメイド服。シスターが被る頭巾ウィンプルを魔改造したヘッドドレスや十字架のモチーフなど、そこかしこに修道服の要素を足した衣装はともすれば冒涜的とも見られかねないが、可愛さの前に道理は無力となるというのが世の常。可愛いは正義なのだ。


 内装は少し怪しげな色調のピンク色で適度にポップさを足したゴシック様式風、そのモチーフは言わずもがな教会。そして、客はこの教会に降臨された神様という設定である。キャスト、すなわちシスターは客のことを『主様』と呼び、おもてなしをすることで日々の感謝を『主様』に捧げるというのがストーリー。

『神様』の側が金銭を支払っているという点には目を瞑ってほしい。この店での通貨は円ではなく、神から人々に与えられる恩寵なのだ。


 重ね重ね、各方面に冒涜的な──というかよく怒られずにやってこれたなというのは、ここで働いて二年になるユユも常々思っていることである。宗教の坩堝かつ、サブカルチャーの中心地である日本だからできた暴挙だろう。


「──ご説明は以上となりますが、よろしいですか? 改めて、お砂糖たっぷりの国からやってきました、しゅがぁですっ。よろしくお願いします!」


「お砂糖、……なんて?」


「お砂糖たっぷりです。たっぷりまでが国名です」


「国名」


 オウム返しに繰り返す金髪男──暁國あきくにに、簡単なメニュー説明やら設定の解説やらを終えたユユが改めての自己紹介。


 ──釈明すると、ここの仕事に関しては先月、たまたまユユのシフトと予定が被った際に君月きみつきけいに説明済みだったのだ。

 加えて、自身の経験から考えても「こういう相談所っていうものがあるんですけど、一緒に来てくれません?」なんて、それも知人ではなくお客さんには言いづらい内容。くだんの客はどうせ今日も来ているだろうし、それがどんな惨状・・なのか彼らにも見てもらった方が早いと思っての提案だった、のだが。


 何故か──というか一人君月の悪だくみのせいで、初対面の彼と同伴する羽目になっていた。ついでに、知っていることがあるかもしれないからと呼んだかなえも。

 結局手間を面倒臭がったユユは大した説明もせず、ただ普通に彼らを席に案内したというのがここまでの流れである。


「血液型はツインテール型です」


「はい?」


 反応がちょっと面白かったのでもう一パターン。見事に間の抜けた表情を晒す暁國に、更に溜飲が下がるユユだった。


「この後、本当ならドリンクとかフードとか色々説明するんですけど。今はいいですよね?」


「そっすね。なんか適当にやっといてもらって」


「おえかきオムライス頼んどきますねー」


「パンケーキ」


「はいはい」


 外では口数の少ない鼎──ぶっきらぼうとも言う──の分もオーダーシートに書きこんでおく。余談だが、正体判明後に人間の食べものも普通に食べられるのかとユユが鼎に聞いたところ、何故だか非常に微妙そうな顔で「別にィ……?」と返されている。一体何が別に、なのかは分からないが、多分いけるのだろうとユユは解釈した。


「んで、その客ってのは──」


「後ろの席です」


 本題を匂わされ、声量だけを窄めたユユが告げる。背中側の存在に気づき、暁國が眉を上げた。

 席はどちらも立っているユユからは丸見えだが、客同士はお互い容易には見えない配置になっている。暁國が無言でサムズアップの形にした手で後ろを指してみせたので、今なら大丈夫、という意味を込めて頷き返す。

 彼らがさりげなく肩越しにその客の姿を視認したのを確認し、ユユは「オムライス、何書きます? シスター風の猫でいいですか?」と暁國に水を向ける風を装った。


「なんで猫?」


「かわいくないです? 私に似てて」


 個人情報ダダ漏れな一人称を封印し、「ウサギでも可です」などといったたわいもない接客の傍らで背後の様子を伺う。鼎と暁國に伝達済みの内容には、その客──彼女・・が三日前からここに通い詰めていること。その言動が少し危うく、そろそろ店長の目に余る頃合いだということ。

 どうしてこれが相談所向きの内容だとユユが判断したのか、その理由も恐らく自分から喋ってくれるだろうということも。


 案の定、その時はすぐに訪れた。


「──だからぁ、今家帰れないの! 一人になれないの言ったじゃん、だから朝まで飲むんだって、ねえ!」


 来ると分かっていたユユでも身をすくめてしまうくらい、歯止めなく豪快に放たれた酒焼け声。既にどこかで飲んできたのだろう。ちらりと目を向けると、彼女の話し相手になっていた同僚キャストとかち合った。目線で「変わって」と言われたので、とりあえず「後で」と口を動かしておく。


「そういや、ここって酒提供してるんすか」


「してないでーす。私未成年なんでそしたら働けないでーす。しゅがぁ困っちゃう」


 暗に問いただしてくる暁國をいなし、さて同僚の期待通り交代しようかとユユが思ったところで。


「──あ! なんか見たことない人~! 横の! 彼氏さんですか~!?」


 ブリーチ過多で千々にばらけたプリン髪がぶおんと回転し。会話を聞きつけたように、背面に座っていた女性が急に話しかけてきたのだ。


「うおっ、と」


「彼氏。……ぷっ」


 そう、わざとらしく声に出して噴き出したのはユユではない。

 やる気のなさが見えるだらりと垂れた目元は、緩やかに弧を描いたアーチ状に。目に光を取り戻した人畜無害そうな柔らかな相貌でもって、小動物めいた癖毛を軽く指で遊ばせる。

 久々に見る、擬態モードの鼎だ。


「ないない、ないです。私もこっちの人も、しゅがぁのお友達です」


「ともだ──っすね、はい」


「えー、しゅがたんの!? それはそれでびっくりなんだけどお。いいな〜繋がれて」


「しゅがたん?」


「しゅがたんです」


 見事なまでに据わった目をした女性は、大袈裟に両手で口を覆っていた。「しゅがたん」ことユユが言うのもあれだが、口調だけを聞けば女性の年齢は十代か、若くても二十代前半に思えるだろう。だらりと下げ気味に伸ばされた語尾、使われる語彙も数に乏しく、その中でも更に幼さを感じるセレクション。

 しかし女性の顔色は薄茶けていて、正直言うと色艶もハリもない。特に目元がくすんでいる。顔立ちは整っているものの、濃い厚塗りの化粧でも隠せない肌荒れには、重ねた年月と諦観がありありと滲み出ていた。


「あっそうだ、ねえお兄さん……あはぁ、名前忘れちゃった! なんだっけ」


「や、まだ言ってないす。アキっす」


「あほんとだあ! んじゃアキくんさんも聞いてよ、かなちゃんさんも!」


「かなちゃんさん?」


「かなちゃんさん」


 服装などで若作りしているわけでもなく──むしろその細身に似合うシンプルなもの──使用する言葉だけが外見年齢に不釣り合いな女性。彼女の手でやや改造されたかつての愛称を暁國が片眉を上げて繰り返し、呼ばれた鼎が堂々と自身を指差してみせる。もうそう呼ぶことはなくなったユユとしては少し気まずく、鼎が一体どういう気持ちで口にしたのかは不明。


「んねえ聞いてる!?」


祥子しょうこさ〜ん、ちょっと待ってもらってもいいですか?」


 意味のないやり取りに痺れを切らした女性が声を荒げるも、ユユは両手を合わせて可愛くおねだりで返す。しかもウインク付き、本来ならば有料ものだ。

 かねてから「しゅがたん」推しを公言している女性──祥子は気分よく「んふ、いいよ」と破顔した。その間にユユは鼎と暁國の方へと向き直り、


「そういう感じなんですけど。いいですか? 一緒にお話してもらっちゃっても〜」


 了承を取るていだが、実のところ願ってもない展開だった。

 この誰から構わずな絡み芸こそが、元々常連であった彼女が近頃指折りの問題客となりかけている原因であり、ユユがあの事務所に話を持ち込んだ所以なのだから。


「ああ、俺らは別に構わないんで」


「大丈夫だよ、しゅがたん」


「お席はこのままで?」


「構いませーん!」


 飲み会のコールかと思うほどに、打てば響くような返事だった。ユユ、未成年なので飲み会行ったことないけれど。あと、鼎は普段「しゅがたん」なんて呼ばないので絶対にわざと。


「んじゃ、話っての聞きますから。どうされたんすか?」


「そうそう! 聞いてくださいよお」


 流石にバイトとしての先輩と言ったところか、どことなく相談所の誰かを思わせる暁國の切り口。それに対し、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに顔を明るくした祥子が、背もたれに両肘を置いて暁國たちの方へ身を乗り出す。適度に脱力した身体を椅子にもたれかけて、へらりとたわんだ上目遣いで語り出した。


「あたしい、呪いってやつ? に失敗しちゃったんですよ」



 ◆



  暁國と鼎、そして目の前の女性──高嶺たかね祥子と言うらしい──を引き合わせるやいなや、「お料理作ってきますっ」とハケていった後輩、甘蔗あまつらユユ。厄介な客の接客中、降って湧いた身代わりにこれ幸いと撤退していったその同僚とやらを見送ったあと。


「インターネットぉ、分かりますー? ネット、あっこあそこにね、『カナワ屋』っていうのがあったのよ。お手軽簡単信じるだけ、お金いりませーん。一応手順みたいなのもあったけど、あれほんとにめっちゃ簡単で──で、したら呪ってくれるっていうやつ」


 女性が語りだしたのは理路整然なんて言葉とは程遠い、主観が多分に入り混じる経験談だった。

 聞きづらいにもほどがある、せめて人に聞かせる前提で組んできてほしかったと暁國はじっと聞き役に徹する。

 もっとも、横の『化け物』とされる灰髪の少女がどういう意図でここにいるのかは未だによく分からない。解決に尽力する心持ちなのか、何やら色々と複雑な関係らしい後輩に連れられて来ただけなのか──。


「『カナワ屋』っていう名前の、ネット上の団体ですね。例えばそこに、呪い代行業者とか、サービスだとかって書いてありましたか?」


「あー……、ったかも。あ、そう、これしゅがたんにも言ったっけ。思いだした、『丑の刻参り代行』!」


 女性の顔が一気に晴れやかになる。どうやら普通に協力するつもりらしい少女こと鼎が聞き出した内容は、ここに来る前、まさに後輩が言っていた単語に繋がった。


 突っかかっていた小骨が取れたような清々しさを満面に出す祥子。それに対し、聞いておかなければならないことを暁國は一つ、問いかけた。


「確認すけど。おきゃ──じゃなくて、高嶺さんは誰か呪ったんすか」


「え、うん。てか、問題そこじゃないけど、何?」


 関係ないことを聞くなと言わんばかりのすげなさで、高嶺祥子はそれを切り捨てた。あまりに平然とした返答に、それが肯定だったと暁國が気づいたのは少し遅れてのことだった。


「話戻していい~。終わったら『お礼参り』ってやつ、絶対やらないといけなくてさ。それさ、やらかしたっぽい」


 女性の細い指がくるくるとコップの縁をいじくり、もう片方の指はコツコツと忙しなくテーブルをはじいている。明後日の方向を見つめながら、その声は如実に震え始めていた。「……あ」と鼎が小さく口を開く。

 異様に分かりづらい女性の語り、それにより発生した自身の勘違いに思い当たったのだ。そうと分かったのは、同時に暁國もその結論に辿り着いていたからで。


「失敗したのは、そのお礼参りの方」


 遠くを見つめ続け、否、こちらは眼中に入れないという点はそのままに、あちらこちらに視線をひっきりなしに飛ばし始めた祥子が、心ここにあらずに首肯する。ぐるぐると回転し、周囲を観察する──もしくは誰かに観察されていないか・・・・・・・を観察するように蠢く眼球は、薄い赤に充血していた。


「じゃあ、呪いは上手くいったんですね」


 呪いに失敗したと彼女は言った。その真意が、呪術を実行した後に行う儀式に失敗したという意味ならば。


「あは」


 ようやく暁國たちと噛み合った視線、一音一音はっきりと区切ったわざとらしい発声。食い入るような目。コツコツと卓上で鳴らされていた音は、いつの間にか収まっていた。


「内緒」


「お食事お持ちしました~♡」


 不穏な流れを断ち切ったのは、そんなツインテールの後輩の一声だった。見るからに安物のパンケーキ二皿とオムライス一皿を両手に装備し、暁國から見てもあえての明るい呼びかけである。

「お、きたあ!」と祥子が歓声を上げると、なし崩し的に聞き込みは一時保留になった。


「祥子さん──とか、お話盛り上がってますー?」


「ギリ~?」


「えーどっちの意味のギリですかぁ」


 けらけら笑いながらユユが皿を置く。どうやら曲がりなりにも本業らしく、彼女が来たことで場の空気はふんわりしたものへと転換されていた。

 先程まで見せていた際どさはどこへやら、途端に機嫌を戻した祥子。その対応の脇で「猫?」「羊」と何やら作業じみた確認を鼎と行った後、ユユはおもむろにチョコレートソースを構えた。


「あ、私のこと全っ然気にしないでいいんで! じゃんじゃん続けちゃってください」


 そう言って始めたことに、彼女が暁國に頼ませたのが『お絵かき』と付くものだったことに納得がいく。薄黄色のパンケーキにぶつ切れに描かれていく焦げ茶の犬。

 場に一人が加わったことで緩まった空気に乗じ、暁國が口を開くが、


「……じゃ、」


「──近くの鳥居があるとこに行って、まずはお参り、目を瞑ってください。『カナワ様』と三回呼び、呪いたい人の名前を教えてください」


 それを遮って唱え始めたのが祥子当人。急激に安定した口調といいその無機質さといい、記憶に刻まれたものを呼び覚まして声に出しているような様子だった。というか、そうなのだろう。そう考え、暁國は口をつぐむ。鼎もだんまりを決め込んでいた。


「っし、たら」


 テーブルの上にはもこもこに膨らんだシルエット、恐らくは羊のなりかけがいる。どうやら角の螺旋に苦労している様子。かつ、ユユも女性の話に意識を割いているようで、その作業は遅々として進んでいなかった。


「真っ黒の牛が出てくる。それが成功っていう、合図」


「牛が」


 一度言葉を切り、切り替えのためか息を吸い込んだ祥子の唇がぶるぶると震えだす。鼎が繰り返したことへ呼応するように、復活した爪音、再びぐるぐる巡りだした眼球。その視線の先を暁國が何気ない仕草で追ったところ、入口の方面に行き着いた。

 ユユも同じタイミングで同じ方向に目を向けながら、手元ではへしゃげた三角形の羊の右目を生成している。


「つぎ、」


「……祥子さん、いったん」


「おれ、お礼まいっ、参り。もう一回同じとこ行って、今度はありがとうございました、お帰りくださいって唱える。それだけ、それだけ」


 机を叩く音は徐々に激しくなり、速度は上がった末に痙攣並みに早くなっていた。見かねて手を止めたユユの制止も聞かず、もたらされたのは呂律の回らない、時折歯の打ち鳴らされる音が混ざった非常に聞き取り困難な証言。

 急激に誰の目にも明らかなほどの恐慌状態に陥った彼女は、声を潜めて目を伏せた。頭を抱え、もたつきながら身を丸める。


 それはまるで誰かに──何かに聞かれることを拒み、誰かに見られることから逃れたがっているような。


「──牛がいるの」


 ベッドのわきに怖いものがいるの、と母親に訴える子どものような切なさがそこにはあった。これまで彼女が見せていた年齢に不釣り合いな言動は、ここにきて急に幼児退行という可能性を示唆し始める。それに影響されてか、窮屈な椅子の上で身を屈めると暁國は祥子に優しく語り掛けた。


「牛が、どこにいるんすか」


「ずっと、近く、どっか……うろうろしてる。だから帰れない、ひと、一人になれない、の」


 ユユと鼎に目を合わせると、片方は小さくふるふると首を振り、片方は微かに目を細めた後ではっきりと両目を瞑った。


 ようするに見えないのだ、その牛とやらが。 両者の否定には暁國も同じ見解で、そうなると端から見れば祥子個人の妄想のようにも思える。──きっと思えるのだろう、こんな風に世界が狂う以前ならば。


「祥子さん、お店来てる理由って……もしかして」


「店入っちゃえば消えるんだ。人がいっぱいいればいるほど、いい」


 仕事をしないとという義務感からか、注意散漫ながら再び腕を動かし始めたユユの提言に対し、ぽつぽつとわけを話す祥子。一人になれないとしきりに喚いていたこと、彼女の全身にまとわりついていた、その来店以前の様子が窺える酒臭さに明確な理由が付与される。


「後から調べてさ、牛が見えるようになったらやばい──失敗だって! 呪い返しとか知らないけどなんかで、し、っ死んじゃう、からあっ」


 感情がとめどなく溢れ、それは真っ先に声量に現れる。彼女一人が醸し出す異様な空気に、店内もざわつき始めていた。──店外に連れ出した方が早いか、しかし彼女の言を信じるならば悪手。にっちもさっちもいかず、せめてと暁國が口を開く寸前、


「──あ」


「だから、推しに癒されにきてるんです」


 あ、と漏らしたのはユユ。ほぼ同時に、顔を上げた祥子が淡々と発言した。

 何事もなかったかのごときけろりとした表情なのに、頭を抱え込んだために乱れた髪と目の赤み、無理に押し上げた引きつりの残る口角が不気味である。


「そ、すか」


「はあい」


 暁國が返すと、祥子は笑った。暁國も合わせて、頬を緩めてみせた。

 そして祥子の様子のチェックを優先した結果、何が起こったのか見ていなかったユユの方に目を向ける。暁國の耳でも、明らかに何か悪いことが起きた、しでかしたような響きだったが──。


「うお」


「……何してるの、しゅがたん・・・・・


「あっは、それあたしの分でいーよ。ちょうだい!」


 そこにはチョコレートソースを両手で握りしめたまま硬直したユユ、あきれ返った様子の鼎がいた。祥子が大口を開けて笑い、手を伸ばした先には本来鼎のだったパンケーキの皿。


 結局形成が上手くいかなかったのか塗りつぶされた形跡のある角を持つ、垂れ目──潰れ気味ともいう──の羊が描かれている皿だ。ギリギリぶさかわの範疇だった。そのちょうど鼻の部分に、ぼとりと塊状のチョコレートが鎮座していなければ。

 あと、少量だが机の上にもこぼれている。


「え、へへ」


「かーわいいドジっ子~!」


 そんな苦し紛れのスマイルにも祥子はご満悦で、重苦しさも湿っぽさも一瞬にして跡形もなく消し飛ばされたこの状況に暁國の口の端が引きつった。結果的に先ほどの祥子と似た顔になった気がして、ハッとなったがために口をむにむにと動かして戻していると、


「あの。『うお』ってなんですか『うお』って」


「いや『うお』だろあれ」


「不器用な子なんです」


 口の横に手を寄せ、内緒話をする仕草でユユがひそひそ言う。同じくボリュームを下げた暁國と鼎に容赦なくこき下ろされ、ユユの唇がへの字になる。

 一瞬わざと状況を打破するためにやったのかと、評価を上げかけた暁國だったが普通にミスだったらしい。鼎の言うように不器用だったのか、祥子の話に気を取られていたのか。どちらにせよ、「不器用じゃないもん。です」と頬を膨らませる当人にとっては不本意なようだった。


「じゃじゃ、萌えきゅんしよっ、ドジっ子しゅがたん!」


「ド──は~いっ!」


 祥子から、見慣れない形に折られたおしぼりを渡されたユユがテーブルを拭いた後。すっかり鬱々しさを忘れ去った祥子によるそんな悪気のない煽りにも、表情を崩さないユユに、それを見ていた蚊帳の外の暁國がぼそりと呟く。


「慣れてんすね」


「この道三年ですから、あの子」


 静かに応じる鼎にそんなもんかと曖昧に頷きながら、ほへーと目の前で行われている異文化を眺める暁國。突如バイト先に出現した後輩は別業でのエキスパート、もとい熟練メイドだったらしい。


 ──せーのっ、という掛け声とともに、酒焼けした声と明らかに作られた萌え声との合唱が響き渡った。


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