12 釈放の狼煙



「──いた」


 研ぎ澄まされた刃のごとく目を鋭くして、獲物を見据えた狩人のような静けさをもって美曙みあけが呟いた。

 その声にユユはハッとして、崖下を視界に収めるため身を乗り出す。事前の想像通り、ただでさえ遠目にも目立つ頭髪をした青年が、一際目立つ壇上に引き出されたのを見て──始まったということがユユにも伝わった。


 ユユはごくりと唾を飲み、ぐっとつま先に力を入れる。もちろんいつでも動けるようにだが、その目線の向かう先はどこか不安げに揺れている。

 ──なにせ、この後の段取りを聞いていない。否、聞きはした。


「合図が来たら飛び出すの。簡単でしょ?」

「そうしたら、あとは滅茶苦茶にすればいいだけよ」


 ユユとしても昨夜から大分時間をかけて根掘り葉掘り聞いたのだが、美曙はその一点張り──一点というほど定まっておらず、加えて口に出すことがつくづく不穏な──だったために、結局ユユが折れることとなった。

 とはいえ身一つで──スタンガンはあるが──何をどうすればいいのかと抗弁して、ようやく「もしかしたら使うかも」「あ、使えって言われた気もするわ」と渡された道具を前に、だからこれで何をと途方に暮れた昨夜のユユ。


 さすがにそれ・・は犯罪だろう、と。


 相変わらず穏やかな顔をしていながら、良くも悪くも随分と頑強な芯を持った女性だった。頭はところどころふわふわしているというのに。



「……まだです、か」


「来ないわねえ」


 刀の柄に手をやり、尋常ではない強さの体幹でもって崖際のすれすれのところで屈みこむ美曙。反対側に目をやれば、呑気にも地面にどっかりと腰を下ろしているかなえがいる。小突きたくなるユユだったが、邪魔されるよりはいいと諦めた。

 眼下の状況は耳も目も常人の域を出ないユユから見れば、きっと多分恐らく膠着状態なのだろう、と確証が持てないながらも思う程度。

 盤面はまだ、動いていない。


 ──正直、その合図とやらがまず眉唾なのだ。


 あまりにも泰然自若とした美曙の様子に、もしかしたらこれは全然、ユユが心配することでもないのではとよぎる瞬間もあった。ユユはずぶの素人で、どこにでもいる可愛いエセ女子高生。いまいち信用が置けなかろうが、プロに任せてどっしり構えていればいいのであと。ちょうど先ほど、美曙が言葉で示してみせたように。


 けれどどうしても疑念は拭えない。


 単純な話、誰がそれを出す想定なのかということだ。

 目下、窮地にいる彼──君月きみつきの思考は読めない。鼎の一件でも、この村に来てからも嫌というほどユユは学んでいる。「何考えてるか分かんない」が一貫してユユの君月に対する印象だ。

 先の件では一応助けてもらったはずが、事ここに至っても少しだけ、ちょっとの怪しむ気持ちが消えないのはユユの悪癖ゆえだろうか。頷きづらい部分があるのは、仕方のないことだとユユは思う。


 頭をふるふると振り、本筋から外れた思考を追い出してユユは考える。

 もしも彼が美曙の言う通り、自身の身柄の拘束すらも勘定に入れていたのだとしたら。その連絡は、一体どうやって寄越すつもりだったのか。

 それか、誰かが代わりに──。


「──来たわ」


 ──ぶわり、空気が変わったことを、全身で察知した。


 反射的に崖下を覗き込むも、地面からけたたましく吹き上げてきた風に煽られて体勢を崩すユユ。「!」幸い後ろに尻もちをつくだけで済んだが、落下の二文字がよぎってぎゅっと目を瞑ってしまった。

 はたと周りはどうなったかと首を回すと、そこにはもう、白しか残されていなかった。


「ぁ」


 瞬く間に視界を覆いつくした、どこからやってきたのか分からない白。季節外れの濃霧。ぞわりぞわり、悪寒が背筋を這い上る。ぎぎと首から音が鳴るほどにゆっくりと視線を戻して、その奥に見えたものに──ユユを射竦めるそれに、釘付けになった。


 それは突如現出した、赤い赤い瞳だった。



 ◆



 飛んだ。


 夢を含めて三度みたび。現れた埒外に、ユユの空っぽの頭はただそれだけを出力した。頭の中身が空になって、事前に聞いていたことだとか、やるべきことだとかが一切合切、全て飛んだ。なくなった。

 目が合った、それだけでユユはぎょろりとしたゼラチン質のそれから目が離せなくなって、紅白の色彩の支配を享受することしかできなくなる。


 転げたときの体勢のまま、地面にへたり込んで呆然とそれを見続ける。

 呼吸すら吸い込まれるような白い沈黙。嵐の前の静けさだ。今に、『神』が裁かれることのなかった罪を責めにくるのだろう。

 当然だ。

 だから、ユユは導かれるように腕を胸の前にもっていった。大げさに振動する指を一本一本折り重ねて、なかなか上手くいかない、震えが邪魔だ、強く、強く組んで、祈りを。ゆるしを乞わ──、


「オマエは、悪くない」


 空間に負けないほどに色のない指。ユユより小さくて細い十本の指が、ユユの完成する前のそれを押しとどめた。


 声がした気もした。けれど全ての感覚が遠いもののように思える今は、その声が誰のものか、何を言っているのかも分からなくて、ユユはあの赤い目に視界を奪われたまま。

 

「怖がるな。そりゃ格好の餌だ。食われたくはねエだろう」


 指と指の隙間に滑り込まれて、一本、一本、持ち上げられて剥がされていく。ゆるゆるとうごめき、ひとりでに元の形に戻ろうとする指を──祈りの手を組もうとするユユを、それは妨害していた。

 その代わりに何か、両手に暖かく絡みついていくものがあって。


「こわがるな、って」


 声が出たのは、ほとんど無意識だった。音が喉を通過したときのざらつきに、今まで口が開けっぱなしになっていたことを知る。そこから漏れ出た、まるで何かに返答をするような言葉に、ユユは自分の耳が機能していたことを知った。


「っ」


 順番に触覚が戻って、聴覚が蘇って、視界が息を吹き返す。

 そのとき、きっとユユは初めて瞬きをした。赤い目に囚われた視界に映りこんだのはあの白髪頭。どうしようもなく憎たらしくて性懲りもなく愛おしい、今にも霧に溶け込みそうな無彩の化け物。


 ──おまえはわるくない、だって?


 今しがた、その化け物が言った言葉を上手く働かない頭の中で反芻する。お前は悪くない。なんだか、すごくいい感じの言葉だ。


 息を吸う。空っぽの頭に言葉が、感情が詰め込まれていく。


 けれど、そう、ユユは知っているのだ。

 こいつは確かにユユのことを見知っている。腹立つくらいに旧知じみた言動をしてきたのだ、それは認めよう。けれどこの場で大事なのは、その実、一緒にいたのは直近の六年間だけ・・とういこと。


 ──つまりはそれまでの、ユユの生きてきた人生を。してしまったことを。犯した罪を。


「……なんっにも、知らないで!」


「あァ、そうだ。怒れよユユ」


 ユユの情動が向かう先、白い世界にたった一人佇むひとの、その透明な瞳が目論見通りと言わんばかりに細まる。ユユの両手をそれぞれ容易には振りほどけないかたちで握りしめていた手を、鼎は軽く万歳でもさせるかのように掲げさせた。

 そしてちょうど、赤ん坊をあやすような恰好でにやりと笑う。


「コイツも、なんも知らねえよ」


 その一連の挙動に虚を突かれて、けれどそれがパフォーマンスだとユユは理解したから。


「っ怒ら……ない。──ユユの気持ちは、ユユが決める」


 勝手なことを言う相手に対して勝手にむしゃくしゃするのも、人知を飛び越えて圧し掛かってくる恐怖も、それに呑まれそうになる弱気も。


 深く息を吸い込んでユユがその全部を抑え込んだとき、するりと霧がほどけていって、あの赤い目はふつと消えていた。


「な。ンな掛からなかっただろ」


「それで、分かったの?」


 いつの間にやら髪色が灰から白に変わっていた、ユユに視線を合わせるためか地べたに膝をつけていた鼎が立ち上がる。会話の相手はその奥、何事もなかったかのように立っている美曙。


「何も、変わってない……」


 霧が晴れれば、そこは先ほどと変わらず何の変哲もない崖際で、ユユはあれがごく短時間の出来事だったのだということに驚かされた。

 嘘のように消えていった赤眼と霧。まるで何かに騙されたか、惑わされたかのような数瞬の間だったと、長く苦く、尾を引く余韻の中で遅れて気づきを得る。


 起こったことの証左といえば、ユユを正気に戻すという用が終わった途端、繋いできたときと同じようにさっと離され、失われつつある手のひらの上のぬくもりだけ。

 ユユが無意識にそれをぎゅっと握りしめたのと同時、鼎はすぅっと大きく息を吸い込んで、


「あっちにも聞かせる。──『シン』だ」


 そう、ユユが聞き慣れない言葉を口にした。声を張り上げていないのにもかかわらず奇妙にもよく通る声は、ユユの気のせいだろうか──周囲の温度をぐんと下げて、ユユをはっと気づかせた。


 今が、ぼうっとしてる場合ではないことに。

 そして一時はそうしようとして阻害されたことを一気に思い出し、改めて目を向けるのは、真下。そこに広がる光景に、ぞくりとする。


 ──まだ、いる。


「そう。なら、行ってくるわ」

「え」

「後はよろしくね、ユユちゃん」


「え?」


 美曙が飛んだ。


 そう認識したのは、崖下を見ていたはずのユユの視界に、その姿が滑るように入り込んできてから。茶髪を躍らせて、軽々と崖を蹴って、重力に従って落ちていく。真っ逆さまに、一寸先も見えない霧中目掛けて。


 顎が外れるかと、ユユは思った。


「えええええっ!?」


「うるせエ。助けてやったんだから早くなんか考えろ。なんだ、後はって」


「え、……えっ、ありがとう!?」


「バカか?」


「分かんないの! ユユも! 後は、あと、何──!?」


 見事なまでの大混乱。見る間に身を躍らせた美曙は霧に飲み込まれて、ユユが瞬きをした次の瞬間には毛先の一本すら見えなくなっていた。

 ──何秒経った? 下にいた人たちはどうなってる? 何をすればいい。何ができる? 後はよろしくって、何を任されて。


「なんもねエなら、オレもあの女と──」


「も、やそう」


「は?」


「燃やす。燃やそう。山」


 それが思い浮かんだのは突然だった。混乱しきった頭が導き出したのは、こういう言い方はユユとしてはしたくないが、まさに天啓としか言えないもので。


 ──そうだ、いかに脈絡がなかろうとおかしかろうとユユが思いついたことに違いはないのだから、ユユけいとでも呼ぼう。語呂が悪い。ボツかも。

 そんなことをぽつぽつ考えながら、すっくと立ちあがる。鼎はすっかり固まっていた。口をあんぐり開けていて、なかなかレアものの表情だった。

 Uターン、ユユは真っすぐに枯れ木の生い茂る後ろの方へと進んで、その傍らでスカートの懐を探る。あった。


 ライター。というかチャッカマンだ。


「なァ、そりゃ正気じゃいられねエんだろうが──いやにしてもブッ飛びすぎだろ。段階踏もうぜ、な、」


「美曙さんから渡されてたの。『使え』って言われたって。多分これが……正解」


 昨夜、存在すら忘れていたらしい美曙に唐突に託され、よもやこれで村人を燃やせと言うのかと、ユユを疑心暗鬼に陥らせた原因。村に来てから色々あったが、結構上位にくるレベルだった。


「ふー……」


 それこそ、きっと林間学校以来。ふかふかに落ち葉の溜まった前でしゃがみこみ、ユユは深呼吸。慌てているのだろうか、背後で柄にもなく制止する鼎の声を完璧に無視する。

 そして朧げな記憶にもありがたい、最上級に分かりやすい位置にあったレバーを押し込んだ。


 カチリと音がして、ユユの目の前が真っ赤に染まった。



 ◆



 霧を消す手段と聞いて、何が思い浮かぶだろうか。吸湿剤、冷却材の散布。電気的消霧という方法もある。いずれも費用はさることながら、容易には用意できないものばかりだ。加えて化け物という規格外により引き起こされる、原理不明の自然現象とでも呼ぶべき事例においては、全てが想定通り運ぶとは思えないのも一つ。


 しかしここにライターが一本あるとして。周りへの被害は無視する、という付記があるとする。

 すると、事は一気に簡単な話になる。


 ──単純に、霧とは小さな水滴の集まりであるのだから、それをそっくりそのまま蒸発させればいいのだ。



「うわ熱っ、やば──」


 そんなことは知らずして、山火事を引き起こしたユユにぶわりと襲い来る熱波。瞬く間に燃え上がり、パチパチと何かが弾ける音とともに火の手がユユに迫る。──想定外のことが起きるとついフリーズしてしまうのは今後、要改善の癖だなあとユユはふと思って、


「バカか!? バカかオマエ、は!? バカ野郎!!」


「バカじゃない野郎じゃない! っねえ持ち方! ──ひゅっ」


 炎の舌がユユの可愛い顔を舐める直前、その首根っこを掴んだ鼎により緊急退避に成功。

 遠慮もへったくれもない粗雑な扱いに物申したユユだったが、その瞬間、見事に喉が絞まったので強制的に黙らされた。


「ぇほっ、う、なんか、言うこと!」


「貸し二つな」


「あ、っりがと、う!! げほっ」


 不可抗力かわざとかは議論の余地が残るところだが、埒が明かないのでとっとと折れることにした。譲歩なんて言葉がこの化け物の辞書にないことを、ユユも学ぶべき時が来たのかもしれない。とはいえ助かったのも事実。

 乱暴に引きずられては土埃にまたしても咳き込み、涙で滲む視界の中、勢いが絶えることなく広がり続ける炎に、自分でしたことというのも忘れてユユが呆気にとられていると、


「──なんだ、狙ったか?」


「なに、狙った……? ユユが?」


「や、どうせねエから気にすんな。見ろ」


 含みのある発言にもやつきが残りながらもユユが下を見れば、いつの間にやら辺り一面を覆っていたあの濃霧は消え、薄靄が残るだけになっていた。

 まさかあの放火が功を奏したのか、それとも先に行った美曙が何かしたのか──そんなことはユユの思考の中でも、二の次どころか三つも四つも後回しにすべき事だった。


「……ひ」


 なにせ、そこにいた・・のだ。


 それは宙に浮かぶ、巨大な二枚貝だった。貝殻が薄く口を開けていて、その闇からは蛇のように長くうねるものが這い出ている。

 胴体・・の太さは電柱を一回り大きくした程度で、ちょうど人ひとり飲み込めるくらい。鱗だろうか、その体表は光を反射する物質で隙間なく覆われていて、ぬらりと濡れたような光沢を帯びていた。

 その先端は一面びっしりと伸び放題の赤い毛──髪に埋まっていて、頭部と思わしき部分には鼻も口もない。ただ一つ、落ち窪んだ瞳がその隙間から覗いていることだけが見て取れた。


 ぎらりと光る、ゼリー状に濁りきった血の色の眼。こちらをじっと見ている、知性を欠いた真っ赤な瞳が。


 見るも悍ましく、身の毛のよだつ異形──その化け物が鼎が言うところの『シン』なのだと、言われるまでもなくユユは理解した。


「見てるなア、こっち。オマエの嫌がらせが効いたみたいだ」


「みっ、トウテツ、ねえ……!」


「──舌ァ噛むなよ」


 再びの首への衝撃、窒息感。軽く宙へ放り投げられたらしく、今度は絞まる前に離された。続いてがら空きになった膝の下と背中に、確かな圧迫。抱えられた。思考停止。


 一拍のち、先ほどの比ではない浮遊感。

 耳元で金切り声をあげる風。尋常じゃない風圧。下。見れない。


「~~~~!!」


 自身を抱えた鼎ともろともに落下していく、ついに「は」「え」すら言う暇を奪われたユユが、ぎゅっと唇を引き結んで固く目を瞑る。言われた通りのことしかできない、余裕がない。本能だけで一番近くのものにしがみついた。


「──っ!」


 地響きが轟き、吹き上げるのではない真上からの暴風に、現状でユユの唯一の拠り所がぐらり揺れるのを実感。

 息を吞んで思わず薄目を開けると、捉えたのは今の今までユユのいた場所が崩れ落ちる瞬間で。


 もうもうと立ち上る砂塵の中、たった今暴挙をなした化け物が。地面に叩きつけた首をゆっくりともたげた『シン』が、執拗さを宿した眼でじっとこちらを追っているのを、ユユは見た。


 そこからはスローモーションのようだった。


 ユユの腕に首周りをぐるぐる巻きにされた鼎が、最後の方は崖を滑り降りるようにして地面に着地。

 伸びに伸びた長い首をしならせ、取り逃した獲物目掛けて直下に振り下ろされる『シン』の頭部。

 自身が重しになっていることにも考えが及ばず、逃げようとも反撃しようともしない鼎に、わあわあ言いながら必死になって、しがみつくというより最早組み付きにいっていたユユ。


 ──鱗に覆われた『シン』の頸部の側面へ、叩きつけられた抜き身の刃。


「オマエのモノえものだろ、お届けもんだぜ」


「助かるわ。──ッし!」


 ぱらぱらと鱗の欠片が飛び散る中、首に食いこませた刀を支点にして豪快に体を捻り、飛来してきた美曙が両足を掛ける。曲芸じみた動きで『シン』の上を取った美曙を振り落とさんと、怪物が左右に大きく首を振り回す。

 口のないその顔からは感情は一切読み取れないが──そもそも内在しているのかも定かではないが、恐れをなすかのようなその動き。なおもぐりんぐりんと暴れ回る足場に、姿勢を限界まで低くしながら二本の足で立ち続け、追撃の機会を窺う美曙。


 まるで神話の一場面を目撃しているかのようで、ただただユユは圧倒された。


「竜、退治……」


「ボーっとすんな危ねエ。あとそろそろ離れろ」


「……うわ近っ!?」


 気づけば鼎の、そのふわふわとした白髪に頬を押し付けていたユユが、パッと巻き付かせていた腕ごと体を離す。「なんだその言いぐさァ」と言われたが、本当にびっくりした──はっきり言えばびびったのだからしょうがない。しかし確かにユユらしからぬ可愛げのなさだったと、少し反省。


「ごめ──っねえ、あれって!」


 そうして少し落ち着いたところで気づく、人の気配。

 稗田ひえだ村の村人だ。この醜悪な催しの傍観者として参加していた彼らは、霧が晴れた後も変わらずその場に残っていた。しかしその顔が向くところはユユでも、変わらず鋼鉄の硬さを誇る頭と切り結んでいる美曙でも、ましてやその相手、『シン』でもなく。


「お前の、せいで……!」


 悪趣味な祭壇の上、恐らくは美曙によって切り捨てられた縄の残骸の上、胸ぐらを掴まれて軽々と持ち上げられている青年がいた。

 それを囲むかたちで居並ぶ村人たちは、一目見ただけでそうと分かるほどの明らかな怒気を纏っていて。


「神がお怒りだ! どうしてくれる、この……! あんなデタラメを、それも神の御前で宣うなど!」


「あれが長々出てこなかったのは僕が食い物に値しなかったからだし、出てきたのは君らの信仰心が曇って間抜けにも焦ったからだ。──ああ、そういう意味なら、確かに僕のせいとも言える」


「なん──」


「納得、しかけてただろう。だから親玉に出てこられて、バレるのが怖くてそうして取り繕ってる」


 食って掛かられながらも綽々とした笑みを浮かべる君月が喋り続ける間、どうやら隠し持っていたらしい草刈り鎌やその他、名称も分からない刃物を取り出す人々が聴衆の中にいる。


 今まさに頭上で狩る狩られるの大立ち回りを演じている、彼らの『神』。しかし村人たちは例えばその余波が自分に降りかかるのではと恐れるのでも、逆に『神』が屠られることを予期して恐れを抱くのでもない。

 現実が見えていないのではとも思わせる、ただ目の前の一番の弱者に、最も力を振るいやすい相手だけを見て、それ以外は視界に入れすらしない彼ら。


 それは静かながらも確かな集団恐慌──ユユが初めて目にする、人が化け物の狂気に呑まれた瞬間だった。


「ねえ。そうだろう、丹羽清次郎にわ せいじろう


「わ、たしは……」


 上からは世紀末かと思うような轟音と、剥がれた鱗が絶え間なく降り注いでくる。


 君月の言っていることは正直ユユには半分も分からないが、それでも彼の目的が村人の挑発で、かつそれが良いのか悪いのかはさておき功を奏しているということは、その場の空気だけで感じることができた。そして、


「村が滅びようが世界が終わろうが本当はどうでもいい。『神』には従わなくてはいけない、そうでなくては罪人にされる。脳を吸われる。自分が痛いのが自分が怖いのが、一番」


「お話し中、失礼しますっ!!」


 内心で唱えたいっせーのせ、で突き出した腕。

 バチバチという頭上の喧噪にも負けない炸裂音が響き渡り、接触した体がその一点でくの字に折れ曲がる。「あが──ッ」悲鳴は一拍遅れて、その体がどうと倒れ込んだ後だった。


「……っと、驚いた。まさかいるとは」


「来ました。──舐めてもらっちゃ、です」


「言うねえ。んじゃ、従業員評価に加えとくよ」


 ここに来るまでのすったもんだとか葛藤とかは一度、置いておくとして。

 隙間を縫って中心部へ潜り込み。ふんす、と小さく鼻を鳴らし、たった今スタンガンで大の男を地面に伏せさせた──威力不足が当面の問題だったため、ゾンビ事件後にきちんと改造済み──ユユが啖呵を切る。


 ついでに解放された君月の支えまでする余裕はなかったため、ふらつく姿には少し申し訳ない思いになった。けれど「なんで誰もフォローの方まで考えが至んないんだか……」という、恐らくもう一人美曙への愚痴も含まれた独り言は聞いていないフリをしたユユだった。


 ユユたちを取り囲むのは常軌を逸した目、目、目。村人は色めき立って各々の武器を構え、足元の男性──丹羽も呻きながら立ち上がろうと手をついている。

 威力、要改善──とユユは脳内でメモを書いておいた。


「で、どうするんだい。美曙も暴れてるし、とっとと離れたいんだけど」


「こうします」


 先程まであの霧に飲み込まれていたのだ、彼らも罪の告解を迫られたのだろう。ユユも経験したことではあるが、何年も、何十年も恐怖を刷り込まれてきたのであれば尚の事。

 鼎の手により助け出されなければ自分もこうなっていたのかもと、遅まきながら自身がそのにいたことを理解して、ユユは少し背筋が寒くなった。

 ──しかし、それはそれとして、だ。


「トウテツ!」


「直接食わなきゃセーフだろ。なァ?」


 合図に応じた白髪が踊る。群衆の間を縦横無尽に駆け回り、時には振り上げられた手に、人の頭に軽やかに足を置いて気を引き、攪乱。


「うわっ」

「なんだ!?」

「ばっ、化け物──!」


 こんなものは朝飯前とでも言いたいのか、にたりと腹の立つ笑みを浮かべ、自身を狙う刃物をあろうことか口で咥えて次々に噛み砕いていく鼎こと、トウテツ。

 だがその文字通り人外の所業に、狂気に囚われた人々は怖気づき──なんてことはなく。


「……あ、あ」


 誰かが、うわごとのように口にした。そこからは一瞬で、まるで雪崩のようだった。


「うわああ──ッ!!」


「なになになに怖っ!?」


 発作のように唐突に、伝染する病のようにそれは連鎖していく。ある者はふと我に返ってしまったのか、頭上の世紀末じみた光景を見つめたまま動かなくなり、ある者は「ゆるしてください、ゆるして、」と喚きながらうずくまって地面に頭を打ち付ける。泣き出す者がいる。笑い出す者がいる。大合唱にして大盛況だ。


 ユユが顔を引きつらせて後ずさりし、各々が各々の狂気に身を落としていく中、当然のようにこちらにその矛先を向けてくる者たちもいて。


「見なよあれ、あの化け物。だいぶ形も伝承と違うじゃないか。よくあれで『神』とか言えるよね」


「一旦黙っててくれます!? やばい逆効果、ちょっ、無理──ッこの!」


 今しがた見せつけた危険性も忘れたのか、手を伸ばしてくる村人をスタンガンで感電させ、時に角で殴打し、ユユはすっかり荒っぽくなってしまった己になんとも言えない気持ちになりながら活路を探す。

 ついでに口には出さないが──なんなら余計なことしか言わないが──君月の顔色は目に見えて悪く、ユユは役に立たないことを把握。そのため、できる範囲で庇いつつだ。


 現状、ユユから見て、向かってくるのは大きく分けて二つ。「許してくれ」と縋るのと、「捧げさせろ」と捕まえようとしてくる者だ。前者はまだいい、後者は──、


「ちょっと借りるよ、っと」


「あ、ユユのっ」


 背後に迫っていた腕を、断りを入れてスタンガンを取り上げた君月が痺れさせる。と、そこにあらかた武器を破壊し終え、手持ち無沙汰になった鼎が合流し、


「なんだ、随分言うことが物騒になったなァ。ユユのと」


「はい返す」


「ユユのだもん。──どうするんですか、これ!」


 手元に戻ってきたスタンガンで前方目掛けて一発。相手が沈んだのを確認し、ユユは目下の膠着に叫んだ。


「ふむ……『シン』には幻覚を見せる力しかないはずだ。長年の積み重ねがあるとはいえ、今、彼ら稗田村の住民は自分で考え、動いている」


「──。強いんですね」


 不意にこぼれ出た発言に、きょとんとした顔で返される。子供のように純粋に、思ってもみなかった、何故だろうとありありと語るその顔に、ユユの中で時が止まった。


「……みんながおかしくなるのは……あれの、化け物のせいだと思ってたんですけど。『せい』だけ、って思ってると、思ってたんですけど」


 あえて主語をぼかしつつ、口に出してしまえば、それはひどく幼稚な押し付けだった。


 村人の錯乱にはぎょっとしたが、考えてみると至極真っ当な反応だった。初めてトウテツを目撃したときの自身の反応を思い返し、正気と狂気のすれすれにいたであろう人々へ、自身がとどめを刺してしまったことへの罪悪感。


 けれどすぐさま、ガチガチと歯を鳴らして周りを威嚇する鼎をできる限り見ないようにしながら、ユユは柄にもなく真剣になってしまったことを恥じた。「なんでもないです忘れて、」そう、ユユが口をもごもごさせたのと同時。


「ふむ。──じゃ、ちゃんと助けよっか」


「え」


「次に始まるのは同士討ちだ。よって早期決着が理想。右」


「えっ、はい!」


「あの表面の鱗がどうも邪魔らしい。美曙が全部剥がすのを待つとなると相当かかる、左。適度に捻りを加えつつ」


「捻り──やっ、えいっ!」


「というわけで何か手段を講じよう。次、上」


「上!?」


「まどろッこしい! 自分でやれ!」


 会話に混ぜられる、あまりにも分かりづらい君月の指示に従って凶器スタンガンを振り回すユユ。混乱しつつ言われるがままユユが仰ぎ見ると、最後に指されていたものは上空の戦闘の余波であろう飛来物──ごっそり削げ落ちた何らかの肉だった。

 ユユの頭を飛び越える高さに跳躍し、それをぱくりと一飲みにした鼎。自由落下の終点には、一つ群衆の中から抜け出た禿げ頭を選んでいた。──確かに着地しやすそうではあるけれど、とユユはほんの少しだけ居たたまれない気持ちになった。


 そして改めて上空を見ると、そこには一つ目顔なしの竜と空中戦を繰り広げている美曙がいた。驚くべきことに、語弊はない。

 ユユも二度見したが、あれは紛れもなく空中・・戦だった。


「あれどうなってるんですか……」


「考えない方が早い。そういうもんだから、あれ。左斜め四十三度」


「アレ呼ばわりは変わんねエのな」


「もうあげるので自分でやってください!」


 未だ燃え盛っている山木を背景に、化け物の背を駆け、時に跳ね回る美曙。うねる、うねる、赤毛を振り乱し、首をしならせて追いすがる『シン』を、彼女は正しく翻弄していた。

 幾本もの煌めく太刀筋はただ一点、頸椎へと集約している。もっとも蛇、もしくは竜に近い胴体のどこがそうなのか傍目には分からないが、美曙は本来口があるべき場所の根本と見ているのだろう。ユユも同意見だった。


 一か所に集中して攻撃を当てているのは恐らく、防御壁の役割を果たしている鱗を削ぎ落すため。先ほど君月がしれっと上げていた見立てのままだ。

 そうしてその常人離れ、ある種浮世離れした光景を眺めていると、ふとあることに気づいた。

 

「……なんかちょっと、押されてるような」


「うっそ──うわ、ガチだ。まずいね」


 体力の低下か、それとも真下にいる、ユユを含めた大勢の人間に気を使っているのか。『シン』に対し一方的に攻勢をかけていた美曙だったが、いつからかその刀は振るわれるのではなく防ぐためにも使用されるようになり、現時点でその割合は半々程度。

 ちなみに後者だとすれば、彼女に配慮などという思考が存在したのか。少し驚きなユユだった。

 そんなユユをよそに、何やら考えていた君月が鼎の方に顔を向けると、


「君。耐熱温度は?」


「ガワはニンゲンだっつってんだろ妙な言い方すんな。大差ねェよ」


「そっか。じゃ、あれ倒してきてくれない?」


 そう言いながら君月は、今しがた化け物によってごっそりと抉られたばかりの崖を──その上を、指さした。



 ◆



「美曙! もうちょいもたせてくれ!」


 声を張るのに慣れていないのか、怒声に近い声が中空を駆け抜けた。眼下にはユユと君月。それを見留めた美曙が、刀にこびりついた肉片と鱗の破片と何かの欠片とを振り払い、大きく息を吸いこんでからそれに「何秒!」とだけ返す。

 そして、『もうちょい』ならば──と、先ほど振り落とされないよう苦肉の策で手首に巻いた赤毛を切断し、備えた。


「────。三、」


 そのとき、三つの出来事がほとんど同時に起こった。


 一つ目は君月のカウントダウンを聞いた美曙が、ようやく地の色が見え始めた『シン』の脊椎に、刀を深々と刺し込んだこと。肉を引き裂き、中程まで入り込んだ鋼に『シン』は身をくねらせ──ることはなく、それに荒い息を吐いていた美曙が眉を上げた。


 二つ目、地上。村人を警戒して周りに目を向けていたユユが、誰かが崩れ落ちるのを視界の端に留めたこと。

 持っていた杖をカランと取り落としたその人物が、バランスを崩して膝を着いた若者が、鼎の乱獲を逃れた鎌を掲げる何者かに襲われそうになっている場面を、目撃したこと。


 ──同士討ち、と先ほど聞いた言葉がユユの脳裏にパッと蘇った。


「に」


「ユユ!」


 自分の名を呼ぶ声を置き去りに、ユユは手に持っていたスタンガンを投げ捨ててその先へと両手を伸ばした。

 伸ばした先、尻もちをついた、その驚愕の表情を浮かべる顔に一瞬見覚えのある気がして、けれど地面を蹴って水平に飛んだユユの体は止まらない。

 

 ──その瞬間が三つ目。

 焼け落ちる寸前の炎を纏った木が、突然誰かに蹴りだされたように崖の上から飛び出して、一直線に落下を始めたときだった。


「いち」


「ぐ、──っ!」


 が、そんなもの見ている余裕、ユユにはなかった。


 若者を突き飛ばした瞬間、ユユは自分の右肩に、どんな炎よりも熱く、どんな光よりも眼裏を白めかせるほどの熱を感じた。ぎりと歯を食いしばって、その痛みに耐えながら、ユユは思う。


 ──きっと今。一番、誰よりも不細工だ、と。


「今だ、離れろ!!」


 頭上を見上げながら数えていた君月が叫んで。


 その声に、刀を深く刺したままにした美曙が力強く『シン』の胴体を蹴って飛び退いて。崖の方に着地を狙ったと見た『シン』が、それをすぐさま追いかけて──そこでようやく、化け物は誘導されたことに気づいたらしかった。


「────!!!!」


 動きが止まり、Uターンを試みたのだろう。しかしその時にはもう遅かった。


 燃え盛る倒木が、明確な質量兵器が、『シン』の胴の芯をしかと捉えた。

 圧力に呑まれ、炎に包まれながら落下していく。そのとき初めて、かつて神だった──神を名乗った化け物の声が轟いた。


 それは山の鳴動のごとき、耳を震わす大音響。どうとしたたかに地面を打ち据えた、木の下敷きとなった頭部──ではなく、薄く残った靄を纏わっていた貝殻からのものだった。


「──! ──、────。ギ、ィ」


 その名状しがたい音は、殻の隙間にぽっかりと空いた暗闇から発せられていた。


 そこに。


「手ごたえがないわけだわ。──おやすみなさい」


 頸部に刺していた刀を抜いた美曙が、それを突き刺した。今度こそと、念入りに隙間の奥まで突き入れられてから横薙ぎに払われた刃。


 ぎちぎちという、蝉の敢え無くなるときのような異音を最後にして。それが確かに断末魔だったことを知らしめて、それきりその化け物は沈黙した。


 赤目を見開いたまま横たわる首──獲物を恐怖に引きずり落とすため作られた疑似が、何よりも雄弁にその存在の喪失を物語る。

 それが、稗田村を三十五年間縛り付けてきた偽の因習からの、解放の──否。

 身勝手に押し付けられた罪からの釈放を告げる、狼煙だったのだ。


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