純文学を書いてみたい

あるまん

嗚呼無常

 或る純文学が得意な人の作品を見て、純文学がどういふ物かも解らなゐ自分なりに書こうとする。多分に、主人公の日常における其の時其の時の考えを小難しく書けばいいのだろう? とその人も、純文学自体も馬鹿にした考えで始めた。

 取り敢えずモチーフとして、昨日散歩に出かけた話を基盤にすればいいだろう、と軽い気持ちで書き始めるとしよう。


 炎天下の徒歩、茹だる様な、という表現が大袈裟ではない程の熱気に脳髄を損傷させられた僕はぼうとした足取りで道端の自動販売機でコーラを買う。

 この機械は我が町の様な商業地よりも田圃の面積の方が広い田舎にも二十四時間営業のコンビニエンス・ストアが三軒もあり、更には全国チェーンのスーパーマーケットも二軒ある時代に即していないと思っている。それ等の店迄自分の陸亀の様に鈍い歩みでも二十分程で辿り着き、今買った物よりも大容量の物が遥かに安く売っているのだ。普段から其れを買っておき、小さいペットボトルに移し替え冷やしておき、今の様な外出時に持ち歩く……少々炭酸が抜けるのも本来余り喉を焼き焦がす感じが好きではない僕にはピッタシだ。

 解っている、解っているのだが……何故か一年に数回はこのぼったくり価格の清涼飲料水を購入してしまう。

 インスタントの麦茶等なら兎も角上記したコーラの移し替えなどする人間は周りにいるだろうか? 僕の様に強炭酸苦手な人物でも在宅時は大容量のペットボトルから直でグラスに注ぐだろうし、数日後に外出を予定し天候が今の様になると予測していても精々最初から持ち歩ける大きさのペットボトル入り飲料を買っておく程度だろう。

 そも目的地迄、数十分歩く事自体珍しくなってるだろう。大抵の人間は自転車や車等の移動手段を持っているだろうし、三十分以上もかかるような場所ならば市内バスやタクシーという手段もあるだろう。都会ならば地下鉄も路面電車もある。健康の為徒歩やジョギングをする場合猶更コーラ等飲まない筈だ。

 思うにこの機械は、自宅で充分な水分を取らずに外出し、目的地迄の極僅かな距離に移動手段を使わず、其れでいて喉の渇きを我慢出来ず、更にはコンビニやスーパーに入る手間すら惜しむ様な、正に今の僕の様な怠惰な人間の為に用意された物かもしれぬ。自動販売機自体は僕が生まれるずっと前からあるのだがな。


 さ、僅か十数分の徒歩で買ったジュースで原稿用紙ならば二枚近く消費した訳だが、歩きながらその様な事を思える純文学の主人公は余程の暇人としか思えない。実際は今の様に其れなりに涼しい室内で原稿用紙……自分はパソコンだが、其処で思想を飛ばしている筈だ。そもそも徒歩の最中にその様な事を思い浮かべながら歩くのは危険行為過ぎる。同伴者が居るなら先程の自動販売機に対する思い程度ならば軽い雑談として数分は話せただろうか? まぁこの様な奇異な考察を普通に人に話す人間は想像力が豊かな天才なのかもしれぬ。昔の書生等なら其の様に考えをぶつけあう事で自らの想像力を鍛えていたのかもしれぬが、生憎此方は其の様な高尚な人間ではない。別に書生を馬鹿にしている訳ではないが。


 話を散歩に戻そう。と言っても云十年も過ごした町内だ、例え一時間程歩いたとしても新鮮な物を見つける事はまれだろう。精々その季節毎の花々や鳥を写真に収め、後に回想する程度で実際昨日もそうだ。でも如何せん花の名前等判らないし、鳥も雀や烏程度しか見かけるもんじゃないだろう。

 散歩をして人に話す様な事を「作る」のならば有り触れた日常を凝視し、空が青い、雲は白い等稚児の様な観察眼の錆を取りレンズを磨かねばならぬ。其の様な物は一朝一夕で磨ける物ではなく、普段から意識して行動していないと駄目であろう。実際脳内で昨日の事を思い出そうとしても、正直何か事件が起きた訳ではない数十分の事を詳細に記憶している人間などいるのだろうか? 瞬間記憶能力でもない限り無理だろう。其れなりの事件が発生し警察の事情聴取を受けたとしても、多分に覚えているのは断片的な物だろう。

 でも其れでいいと思う。そもそも純文学という物は勿論人に見せる物だし、これが日記やエッセイ等限りなく出来事を其の侭羅列するような物でも其れなりに状況説明は必要だと思う。僕は歩いていた、だけで他人は読む事などないだろう。

 其の時の格好も正直普段通り、としか言いようがないが、通信販売で買った千円弱の、原色に近いオレンヂ色の無地Tシャツに薄地の白いパーカーを羽織り、これまた近所の安価なチェーン店で買った黒い綿のズボンだ。帽子は被っていたかどうか忘れたが多分に黒の鍔あり帽で、裸足に雷の様な光がプリントされたガーデンシューズを履いていた。

 恥ずかしい話だが忘れ物が多い僕は、貴重品を入れた十センチ四方程の紐付き小物入れを幼稚園児のおつかいの様に首からぶら下げている。夏場はせいぜいTシャツの色が変わるか、パーカーを仕舞うか位だ。

 言い忘れていたが茶色い迷彩柄のリュックを背負い、買い物等した時は其れに入れている。これ自体二キロ前後あり更に買い物もペットボトル等重い物を買う事も多い為、歩くだけでも其れなりに負荷をかけてくれる。

 そして最近徒歩時に欠かせなくなってしまったのは、強化プラスチック製の座椅子……という名目の高さ五十センチ程の折り畳み式の白い踏み台だ。体重が百キロの大台を越えていて、心臓も悪く、それ等に伴って罹患した椎間板ヘルニアの後遺症で五分程立っているだけでも腰が痛み、数百メートル歩くだけでかなりのダメージを受けてしまう僕には必需品と言ってもいい。

 まぁ身長も百八十近くある巨漢が首から小物入れをぶら下げリュックと踏み台を持ち歩き、数百メートル毎に座るというのは傍から見ても奇異に映っているだろう。其れでいて写真が趣味で、花や鳥、時には空き家等を撮影してはほくそ笑んでいるのだから我ながら犯罪者予備軍としか言い様がない。精神障害というか睡眠障害も患っていて、この様な体型・体質なのだから仕事もお察しだろう。せめて車とは言わない、乗れる丈夫さを兼ね揃えた自転車でもあれば幾つかの事は解決するのだが、其れを買う元手すらない。そもそも自転車も乗らなくなって十年は経ってるので上手く乗れるかどうか……。


 純文学の真似事を書こうとしたのに何時の間にか僕の恰好や体型の話になってしまった。お洒落などには全く関心がないが、する人間はお洒落が出来る体型であり、センスは兎も角少なくとも僕よりも遥かに健康だろうという事は羨ましい。そして外面がいいと色々と世界も広がるのだろうし、仕事等も上手くいき、僕の様に自転車を買うのすら難儀する生活に陥らないのかもしれない。

 ま、其れは幾らなんでも穿ち過ぎな見方だろうが(普通の体型でも僕以上に服装に無頓着で、仕事もやってない人間など山といるだろう)、小説を書く時にぱっと自分の着ている服装の説明も出来ない、服の名称が調べないと出てこないという程度は直していきたいものである。


 最後に上記した散歩であるが、何て事はない、ただとある用事で隣町へ行く為、自宅からバス停迄歩いていただけである。まぁ車で行けてしまう人ならこの様な愚痴に近い文すら出てこないのかもしれないし、そういう意味では今の環境もネタ的に捨てたもんじゃないのかもな、と思う。生まれ変わったら自分になりたいと思う程度には自分好きだが、この環境をもう一度、はノーサンキューだがな。




 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

純文学を書いてみたい あるまん @aruman00

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画