第4話 皇帝のイタリア侵攻と両シチリア防衛

 クララ・エシケーは、皇帝のお気に入りの愛妾として、その蠱惑こわく的美貌は宮廷中に知れ渡っていた。

 腰までの長さのストレートの黒髪は艶めいて輝き、紺碧の瞳はエーゲ海のように澄んでいた。高くて艶気を含んだ彼女の声は、柔らかく甘めいて異性を妖しく誘う。その立ち姿は優雅で、まるで絵画から飛び出してきたかのようだ。


「陛下、危ういんじゃない?」と、クララは問いかけた。退嬰的な口ぶりは、からかい半分にも聞こえる。

 彼女の唇は微笑みをたたえながらも、嘲りの色が隠されている。


 一方、オットーⅣ世は、頑強な長身の体躯を持ち、その堂々たる風貌で知られる皇帝だった。強情かつ傲慢な性格で、鋭い眼差しは勇猛さを湛え、豊かな黒髪は力強さを象徴していた。


 クララの問いに、オットーⅣ世は一瞬で癇を高ぶらせた。

「わかっている!」と声を荒らげ、玉座の背もたれに拳を打ちつける。その動作は、内に秘めた不安と苛立ちを表していた。

 

 クララは、彼の怒りにも動じず、見透かしたように提案した。

「ドイツがだめなら、イタリアなんていいんじゃない?  商業も盛んだし、豊かな土地よ」


 提案に心を動かされたオットーⅣ世は、クララの美貌に目を細めた。彼女の髪は寝室の燭台の光を反射して輝き、その紺碧の瞳はまるで底なしの湖のように静かで神秘的で、心を吸い寄せる。異性を魅せる彼女の言葉は、彼の心に響いた。

 

 とはいうものの、皇帝就任には教皇イノケンティウスⅢ世の助力があったし、その権威は侮れない。

 

 教皇イノケンティウスⅢ世は、オットーⅣ世の戴冠に際し、イタリアにおける領有権やドイツの司教叙任に関して多大な要求をし、オットーⅣ世はそれを了承していた。


 ――今、教皇から援助を断ち切っても、立ちゆくものなのか?

 

 だが、他に妙手も思いつかない。

 さすがに、傲慢なオットーⅣ世も、心が揺れ、決心がにぶる。彼の視線はさまよっていた。その様子を冷たく眺めるクララ。

 

 クララは、オットーⅣ世の耳元で、甘く囁く。まるで、女悪魔のささやきだ。

「どうせ教皇との約束なんて、始めから守るつもりもないんでしょ」

 

 崖っぷちにあったオットーⅣ世は、あっけなく肩を押された。

 確かに一理ある。それにイタリア南部の両シチリア王は、ホーエンシュタウフェン家のフェルディナントⅡ世が兼ねている。ここを奪えれば……。

 

「うむ。それも一案だな……」

 オットーⅣ世のこの決断により、政治情勢は一気に動き出す。


 ホーエンシュタウフェン家との闘争が帝国北部、すなわち現在のドイツで旗色が悪くなったとみると、オットーⅣ世はイタリアに矛先を向けて教皇領への侵攻を決定した。


 侵攻の結果、教皇領の二つの町から教皇の軍隊が追放され、帝国の領地として編入された。

 さらに、オットーはローマに進軍し、インノケンティウスⅢ世にウォルムス協約の取り消しと聖職者の叙任権の付与を要求した。ウォルムス協約は、聖職者の叙任闘争を解決し、「叙任権は教会にあり、皇帝は世俗の権威のみを与える」ことを内容としている。神聖帝国皇帝ハインリヒⅤ世とローマ教皇カリストゥスⅡ世の間で結ばれた政教条約である。


「あの大ぼら吹きの大男め! わしの力を見せつけてやる!」


 侵攻に激怒した教皇インケンティウスⅢ世はオットーⅣ世を破門し、帝国の反乱を扇動した。

 しかし、オットーⅣ世は構わず、さらにシチリア征服を企てていた。イタリア半島南部及びシチリア島を版図とする両シチリア王国の王は、ホーエンシュタウフェン家のフェルディナントⅡ世が兼ねており、その勢力を削ぐことを狙ったのである。


 これを受けて、シチリア防衛を支援するため、ホーエンシュタウフェン家近衛騎士団の第五・第六騎士団が派兵を命じられた。


 シチリアへの行軍中。

 

「今度は、シチリアくんだりかよ。面倒くさいな」と、人狼のヴェロニアがぼやいている。

 彼女の体格は力強く筋骨隆々としており、黒褐色の波打つ髪は乱れている。輝く金色の瞳には猛獣のような獰猛さが隠されている。

 

「決して『くんだり』ではないぞ。イタリアからみれば、ドイツの方がよほど『くんだり』だ」と、フェルディナントが冷静に反論する。


 この時代、世界を俯瞰すると、中東や東アジアの方で文明が進んでおり、ヨーロッパはイタリアを玄関として文明が入ってきているのが実情だった。そういう意味では、イタリアはヨーロッパの中の文明先進国だったのである。


「旦那も細けえこと言うなあ。ただ遠いって言うことさ」

 ヴェロニアは半ば呆れている。自由奔放な彼女からすれば、フェルディナントの理屈に興味はない。そこは両者の対比が際立っている。


「世界の広さに比べたら、ヨーロッパの中の移動などささいなことだ」、フェルディナントは静かに言い放つ。

「世界って、何言ってんだよ。旦那ぁ……」

 ヴェロニアは、フェルディナントの常識を疑った。

 

 確かに、この時代はアフリカの奥地も開発されていないし、新大陸も未発見だ。それに交通手段も未発達だし、世界スケールで物事を考えることなど夢のまた夢というのが実情だろう。フェルディナントはこの世界の常識を改めて実感した。


「いや。気にするな。何年もかかる旅ではなく、たかだか二週間くらいという意味だ」と、フェルディナントは言い直した。

「十分長げえじゃねえか!」とヴェロニアは突っ込みを入れる。

「それは見解の相違だな」

 確かに、ヴェロニアのような短気な者にしてみれば長いのだろう。


 イタリア半島南部へたどり着くと、フェルディナントらの前には、豊かな風景が広がっていた。

 日差しが強く、大地を焼くような夏の昼下がり。遠くには薄紫色に霞む山々が連なり、その麓にはオリーブの木々が点在している。 小高い丘の上には、白く輝く古城がそびえ立ち、その壁からは歴史の重みが感じられる。

 地中海の青い水が岸辺に打ち寄せ、穏やかな風がオレンジの花の香りを運んでくる。


 二週間後。

 予定どおり、両シチリア王国の防衛拠点に到着した。シチリア軍を驚かせないよう、今回はダークナイトを召喚しない予定である。


 砦は、緑豊かな丘陵地帯に佇んでいた。砦の建築は堅固で、厚い壁と高い塔、そして広い堀が特徴だ。海岸線にも近く、砦の塔からは地中海を一望できる。塔の窓から見える景色は壮大で、遠く航行する船を見張ることができる。戦略的な場所柄から多くの歴史的な戦いに使用されてきた。

 

 

「ホーエンシュタウフェン家からの援軍だ。門を開けてくれ!」と、門前で、フェルディナントはイタリア語で叫んだ。


 門が開き、大柄な男が護衛を連れて出てくる。その男のラテン系の面構えは、シチリアの太陽の下で育まれた強さを感じさせた。その目は、戦いの経験を物語っている。両シチリア軍の指揮官なのだろう。


「おまえが指揮官なのか?」と、フェルディナントは問いかける。

「そうだ」と、指揮官は答える。彼の答えは短く、しかし自信に満ちていた。


「こんな優男の若造が、使い物になるのかねえ。それに他のめんつも若造だし、女までいるじゃないか」と、指揮官は半ば挑発するように言った。時代の男性中心の価値観からも、若者や女性の性兵士の存在がいかに異例かを示している。どうやら一目見て、信用されなかったようだ。

 せめて、マスクをしておくんだったか、とフェルディナントは後悔した。

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