038:グース・グース・グース
「コレは今、どういう状況だ?」
決闘の件について報告を終え、部屋に帰ってきたスペンサーは思わず問いかけた。
整頓され、芳香剤の匂いに満たされていた筈のR9号室は見るも無惨に荒れていた。
更には、険悪な面持ちで向き合うチェスとピースの二人組。
スペンサーの見立てでは、二人の相性はそれほど悪くない筈だったが、どうやら見立ては外れているらしい。
チェスが憤懣やる方ないという風に言った。
「スペンサー。貴方、この子がリバシンを常用してるってことは把握しているの?」
スペンサーは小さく舌打ちを挟む。
基地におけるリバシンの扱いをピースに注意していなかった。
彼女はガレージでの一夜以来、スペンサーの前でリバシンを吸引することをかなり厳粛に控えていた。いずれ脱脚させる必要性を感じながらも、スペンサーは口を出すことはしなかったのである。義肢の幻肢痛やアダプタに接続される神経の痛みを計り知ることなど彼女に出来ない。
「ああ、勿論だ。辞めさせたいとは思っているが、ピースには痛み止めが必要だ。少なくとも、代替案が見つかるまでは…」
ピースは決まり悪そうに肩を竦める。
「代替策があるとは思えませんけど」
チェスは大きな溜息をつく。
「リバシンだけは止めるべきよ。どんな特例においても認められるべきじゃない。リバシンは余りにも容易く手に入り過ぎるし、中毒性は異常そのもの。小さな切っ掛けで組織が根っこから腐り落ちる」
スペンサーを見据え、付け加える。
「知らない訳じゃないでしょう?」
「ああ」
スペンサーの肯定を耳にし、チェスは義肢の右腕を押さえた。切り揃えられた爪先でカツカツとそれを叩く。
「私だって、義肢の幻肢痛は知ってる。瓦礫の下に埋まった右腕がまだ其処にあるみたいに感じる。激痛で泣き叫びたくなるわ」
チェスは椅子から立ち上がり、ピースの方を見る。
「全身からその痛みが迸るなんて考えたくもないけれど、リバシンに頼って良い理由にはならない。第六複合体に所属したいなら、尚更ね」
そう言って、彼女は代えの部屋着一式と石鹸を手にし、部屋を後にした。女性士官用のシャワールームはいつだってガラ空きの様である。
「うっかり口を滑らせたのが間違いでしたね」
ピースはとっ散らかった部屋を片付けながら、呟いた。
「最初の質問に戻るが、何があった?」
「実に楽しく話をしていたんですが、途中で一つ手違いが生じましてね。一人でいた時の癖で無意識のうちにコイツを口に咥えて煙を吹かせてしまったんですよ」
ピースは懐から愛用の電子煙草を取り出して見せる。
リバシンの詰まっていた筈のガラス製のキャニスターは無惨に砕け散り、吸引口は捻じ曲がっている。
「それを没収しようとしたチェスと取っ組み合いになったわけか」
ピースは決まり悪そうに窓の外を見た。
「まあ、そういうことです。あの人、デスクワーク派のように見えて、普通に腕っぷしが強くて困りましたよ。コレでも常人の二、三倍の出力が出るんですがね」
ピースが機械義肢を軽く動かせてみせた。
「ああ、それはそうだ。彼女の格闘戦の成績は第六複合体で二番手だったしな」
「一番は?」
「私だよ」
一切の嫌味なく、スペンサーはそう言った。
「ふむ、チェス中尉が少佐のことを嫌っているのも分からなくもないですね」
スペンサーは肩を竦める。
「残念だが、私には分からない。唯の数字や評価に意味があるとは思えないんだ。評価と結果は同義じゃない。結果は普遍だが、評価は相対的なものだ」
そして、最後に話を付け加えた。
「分かるのは彼女がリバシンを死ぬほど嫌悪している理由だけだ」
「出歯亀じみていますが、聞いても?」
「そう難しい話でもない。彼女自身がリバシンの虜になっていた時期があったからだ。原因は言うまでもなく、義肢の幻肢痛だ。お前と同じように」
「フラッシュバックの症状を鑑みると、私がやらかしたことは中尉にとって銃殺したくなるレベルの行動でしょうね」
「見事に地雷を踏み抜いた。そう言うわけだ」
ピースは砕けた電子煙草の残骸を眺め、俯いた。
チェスは自分に似ていると言っていた。だが、そうは思えない。彼女はリバシンの終わりの無い円環から抜け出している。
天と地の差だ。
いや、地獄と地獄の差と言うべきかもしれない。
激痛の中で生きるか、倒錯と失意の中で生きるか。
何が祝福された道であるかは言うまでもない。前者は称賛されて然るべきであり、後者に誇れるものは何もない。
ピースは天井を見上げた。
天井では時代遅れのセーリングファンがぐるぐると真円を描いている。首筋は煮え立つ様に痛み始め、脳味噌はひたすらにリバシンの甘く堕落した冷涼さを求め始めている。
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