025:場外席


 書状を閉じたスペンサーに向かって、チェシーが言った。


「ブレイク大佐はどういう訳か、貴女を信頼してます。裏切らないでください、少佐」


 スペンサーは視線をチェシーに向ける。

 

 彼女の翡翠色の瞳は怒りに燃えていた。拳は硬く握り締められていた。その心中で激情が渦巻いているのは想像に難くなかった。


「絶対に」


 彼女はありったけの感情を込めてそう付け加えた。


 だが、その情動の根幹をスペンサーは理解することは出来ても、共感することは出来なかった。


 彼女には縁の無い情動だったからである。


 その為、スペンサーの返答は澱み無く、チェシーの想いを慮ることもまた無かった。彼女は決意に満ちた微笑を浮かべて言った。


「当然だ。私は何としても状況を打開してみせる」


 憐憫や怒りは感じても、妬みや絶望という感情には疎い。


 彼女はそういう人間だった。


 余りにも空気の読めない微笑。清々しさ。

 それは何処迄も嫌味ったらしく無く、それでいて最高の皮肉が込められていると、誰もが確信させられるだろう。


 無邪気な悪意だ。


 それはチェシーの内に溜め込んでいた怒りに容易く火を付けた。


「英雄症候群のクソ女が、どの口で!」


 彼女は叫び、Dr.クラックのボトルを地面へと叩きつけた。大人気無いと分かっていても、眼前の碌でなしには耐えかねた。


 大佐の努力は眼前の女によって水泡に帰しつつある。


 無意識の大量虐殺者を前にした刑事の気分だ。


 それに対して、スペンサーの反応は酷く淡白だった。


「いきなりどうした。これ以上の言葉は持ち合わせちゃいないぞ?」


 訳が分からないという風に目を見開き、ゆっくりとサイダーのボトルを拾い上げた。


 その態度にチェシーは詰め寄ろうとしたが、思い詰まり、やがて溜息を吐いた。


 彼女の目の前に差し出されるのは、今しがた叩き付けたサイダーのボトル。『Dr.クラック』の極彩色の文字が能天気に躍っている.


 スペンサーは何一つ臆する事なく、チェシーを見据えている.


 チェシーは思い直す。


 スペンサーに憤る事。これほど無為なことはそう多く無い。


 飛び回る放射線に腹を立てた所で意味がない事と同義だ。彼女は自然現象とそう変わらない。


 理解し難い人種は確かに存在する。連中はある種の病気を患っているのだ。

 

 自分で称してなんだが、英雄症候群というのは言い得て妙だろう。


「ああ、そうね...アンタはそういう奴だったわ、糞ったれ...」


 チェシーはボトルを受け取った。


 そして、キャップを捻る。炭酸が噴き出し、甘ったるい匂いが鼻腔を襲う。

 

 スペンサーが微笑み、ボトルを差し出す。

 うんざりしたようにチェシーはプラスティックのボトルを打ち合わせ、乾杯した。


 勇気を出して、それを飲み込んだが、正直に言って全く美味いものではなかった。 


 そして丁度、その時だった。


 小窓の外から、金属同士が打ち合う大音量が鳴り響いたのは。

 

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