第16話 毒舌幼馴染と海
心地よい振動が柔らかな椅子に座る俺たちに響く。どうやらいつの間にかうとうとと微睡んでしまっていたようだ。
眠気で圧し潰されそうな瞼を無理やり開いて車窓を見やる。青々と育った山の木々が滑るように視界から消えていく。降り注ぐ陽光の明るさが、木々の黒さを際立たせていた。
膝の上に感じる荷物の重さを確かめながら、俺は正面に座っている梨乃を見た。
梨乃は文庫本を読んでいる。どんな小説かはわからないが、彼女が読んでいるということはまあ難解な書物なのだろう。
じっと顔を見つめていると、梨乃は徐に栞を挟んで文庫本を閉じ、ため息を吐いた。
「そんなにじっと見られると、気が散るのだけれど」
「あ、悪い」
「三万寄こせ」
「不良漫画でも読んでんのか?」
梨乃は横の席に置いていた肩さげ鞄に文庫本を仕舞った。
「あとどれくらいで着くのかしら」
「一時間もすれば着くだろ。それより、人が多くないといいけど」
「平日だし、そんなに多くないでしょ」
ごそごそと鞄を漁っていた梨乃は鞄からペットボトルのジュースを取り出して蓋を開けた。電車の揺れに合わせてペットボトルの中身が静かに揺れている。
「それもそうか、平日に海行くやつなんてそうそういないもんな」
「あなたが誘わなければ私も行く気なんてなかったけどね」
「よく言うわ。俺の部屋に海の写真やらポスター貼りまくってたくせに。嫌がらせかなんかだと思ったわ」
「あれをやったのは私じゃなくて花梨よ」
「俺が部屋に入った時セロハンテープとポスター持ってたお前がいたけど、あれはどういうことなんだ?」
「……ほら見て、太陽があるわ」
「気を逸らしたいならもっと珍しいものを見つけろ」
白々しく太陽を指さして目を逸らす梨乃。片手に持ったペットボトルの中身は未だに揺れていた。
「ていうか、花梨ちゃんは今日も友達と遊びに行ってるのか?」
「学校。休みなのはうちの高校だけよ」
「ああ、そういえばそうだったな」
「間抜けが」
「追加攻撃やめろよ」
そう言い終わると、梨乃は手に持っていたペットボトルを口に付けた。彼女の細く白い喉が艶めかしく動くのを、俺は見るともなく見ていた。
「そういえば、お前と海行くの、久しぶりだな」
「……小学生くらいの時に、家族旅行かなんかで行ったんだっけ」
「懐かしいな、えらく昔のような気分だ」
「脳はあの時から全く成長してないのにね」
「そういえばあの時お前溺れてたよな。そんで俺に助けられて泣きながらお礼言ってくれたっけ」
「…………ほら見て、窓よ」
何も言い返せないのか、梨乃は悔しそうに俺から目を逸らした。勝利、なんとも素晴らしい気分なのだ。
梨乃はニヤニヤしている俺が気に障ったのか、思い切り俺の脛を蹴り飛ばした。めちゃくちゃ痛い。
「ふん。何を勝ち誇ってるのかしら。気持ち悪いわね。そんなんだから花梨に陰口叩かれるのよ」
「え、俺花梨ちゃんに陰口言われてんの? 普通にショックなんだけどそれ。なんでそんな重要なことをサラッとカミングアウトしちゃうの」
「……まあ、別にそれはいいじゃない」
「よくねーよ。幼馴染の妹に陰口叩かれて平然とスルー出来るやつがいるか」
俺の言葉に、梨乃は面倒くさいわねぇと溜息を吐く。何か言おうと口を開いたが、その瞬間に電車がトンネル内に入ったため、言葉が出てこなかった。
電車内の電灯の明るさにより、車窓は半透明の鏡になっていた。俺はその車窓に咲くようにぼんやりと浮かぶ梨乃の横顔を眺めながら、まだ見ぬ海と梨乃の水着に思いを馳せるのだった。
▼
数十分後、無事目的地である駅に到着した俺たちは、そこそこの荷物を持ち駅のホームに立っていた。
痛いくらいの陽光が降り注いでいる。アスファルトはあまりの暑さにその身を白く光らせ、我々に逃げ水という形で警鐘を鳴り響かせていた。
どこからか聞こえてくる蝉の鳴き声に耳を傾けながら、ずり落ちてきた鞄を肩にかけなおした。
「あっついな……」
「ええ……ほんとにめちゃくちゃ暑いわ……」
「日焼け止めとか持ってきて良かったな」
「うっさいわね、アホ」
「暑さで頭おかしくなってんぞ」
どうやらこの暑さで梨乃の毒舌のキレも鈍っているようで、放たれる言葉に棘がない。
とにかく改札を出るために階段へ歩き出す。
「ん」
「ありがと」
重そうに両手で持っていた梨乃の鞄を受け取り、改札まで歩き出す。蝉の鳴き声の狭間から潮騒が聞こえていた。
「おおー……」
「おおー」
駅から出れば、目の前に海が広がっていた。
白砂青松の広がる夏のビーチは言葉に出来ぬ美しさを醸し出しており、俺たちは何も言うことなく暫くの間ぼんやりとその景色を眺めていた。
平日だがある程度人はいるらしく、ビーチの上にはちらほたとパラソルや寝っ転がっている人が見えた。
「とにかく、行くか」
「ええ、そうね」
せっかくの海なのだ、眺めているだけではしょうがない。俺たちは荷物を置く場所を探すべく、ビーチへと足を運んだ。
「やっぱ平日はいいな。人がそんなにいない」
「水着ってどこで着替えるのかしら」
「そこら辺に着替える場所があるんじゃないか?」
「死ね」
「なんで?」
適当な場所にレジャーシートを敷き荷物を置くと、梨乃は水着に着替えるためにどこかへ行ってしまった。
ちょうどパラソルをレンタルできる場所があったので手頃のパラソルをレンタルし、設置しておく。これで暑さはマシになるだろう。
俺は梨乃を待つべく、ごろんと寝転がり、海を眺める。何だか本格的に夏になってきた気分だった。
▼
数分の後、梨乃がやってきた。俺はぼんやりとその姿を見ながらため息を吐いた。
なんというか、ありきたりな言葉ではあるが、似合っている。
梨乃の水着はどちらかというと上下にわかれたワンピースのような見た目で、フリルの着いたネイビーのビキニと腰に巻いたスカートが彼女の可愛らしさを最大限に生かしている。しかし彼女が身に着けている大きなサングラスが、可愛らしさだけでは表しきれない妖艶さも生み出していた。
梨乃はこちらまで歩いてきて、寝っ転がっている俺を見てため息を吐いた。
「なんでビーチにまで来てだらだらしてるのかしら、このダイオウグソクムシは」
「お前の着替えを待ってたんだよ」
「あらどうも。じゃあ今度は私が待っててあげるからさっさと海の中で着替えてきたら?」
「なんでそんな罰ゲームじみた方法で着替えにゃならんのだ」
言いながら、梨乃は俺の横に腰を下ろした。いつもは見ることのできない彼女の白い滑らかな地肌がちらりと視界に映り、どきりと心臓が跳ねた。
「さっさと海に帰りなさいよ、このダイオウ愚息ムシ」
「なんだその厭味ったらしい言い方は……。まあいいわ、着替えに行くけど、気つけてな」
俺の言葉の意味がわからなかったのか、梨乃は怪訝そうな表情で首を傾げた。
「何に気をつければいいのかわからないんだけど……。日焼けに?」
「いや……その、ナンパとかに」
「そんな奴いないでしょ。アニメの見過ぎよ」
サングラスを外しそれを頭にかけた梨乃が呆れたように呟く。彼女の踝についた白い砂がケーキにまぶされた砂糖のように煌めいた。
俺は徐に立ち上がり、梨乃の顔を見ないように呟いた。
「……一応な、その水着、似合ってるし……」
「……あ、そう」
羞恥のため梨乃の顔が見えない。だが視界の端に映った彼女はぷいとそっぽを向いており、俺の言葉など聞いていないようだった。凹む。
俺はそそくさと着替えるためにその場を去るのだった。
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「遅いわよゴミクズ。一体何してたの?」
「着替えるって言っただろ」
「裸で泳げカス。水着なんてあなたには不必要よ」
「ならお前も裸で泳げよ」
「それってセクハラなんですけど」
「やかましいわ……」
戻って来たと同時に梨乃の毒舌を喰らった。しかし先ほどの俺の失態はなかったことにしてくれているのか、それに関する悪口はない。
梨乃はどこからか取り出したのか大きな麦わら帽子を被っていた。
「しかしまあ考えてみれば、二人で海来てもあんま楽しくないな。友達誘えばよかったかもな」
「いない友達をどうやって誘うっていうのよ」
「なんでいつも俺に友人がいないみたいな言い方すんの? 良心の呵責とかないわけ?」
「日焼け止めの成分表にそんなのが書いてあったような……」
「やだよそんな日焼け止め。なんで紫外線から身を守るために心を痛めないといけないんだ」
「精一杯苦しめばいいのにね」
「会話繋がってなくないか?」
「早く泳ぎましょうよ。時間は待ってはくれないわよ」
「会話にさえついていけんわ」
梨乃は麦わら帽子とサングラスを外しレジャーシートの上に置く。泳ぐのにはどちらも邪魔なのだろう。
「さ、早く行きましょう」
「荷物とか見張っといた方がよくないか?」
「そんな大したもの持ってきてないし、盗られたとしてもあなたを犯人に仕立て上げればいいだけだし」
「解決してないじゃん」
「私の心はすっきりするわ」
「代償がでかすぎる」
無駄口を叩きながら海に入ると、ひやりと冷たい水が踝を掠るように過ぎていく。熱くなった体が一気に冷めていく。
隣を見ると、梨乃も同じく足だけを水に浸したまま、棒立ちしていた。
「さて、何で遊ぶ?」
「…………ビーチバレー?」
「……砂浜行くか」
なんともグダグダな海水浴であった。
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ぴちゃり。何か冷たいものが肩に当たった。腰まで海に浸かっているので波によって出来たしぶきかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
「雨降り始めた?」
「そういえば、今日は午後から降るらしいけど……天気予報見てなかったの?」
「全然見てなかったな。じゃあさっさと上がるか?」
「……そのほうがよさそうね」
既に俺たちが海に入って数時間が経過している。海に入りちょっと泳ぐだけでも時間というものはあっという間に過ぎていく。
俺たちが海から上がったタイミングを見計らったかのように、ぽつりぽつりと砂浜に黒い点が増え始めた。
すぐに本降りになるということなので、急いで着替えに行く。
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「見事に大雨になってるな、これ」
「台風並みじゃない……なんでいきなりこんな大雨に……」
駅に着いた俺たちは、外を見ながら溜息を吐いた。俺たちが着替え終わり、駅に着く頃には雨は本降りになっており、白く染め上げられた矢のような雨粒によって数メートル先も見えないような状況だった。
「何時くらいまで降るんだろうな、すぐ止めばいいけど」
「そんなあなたに残念なお知らせよ」
ぐいと携帯を差し出してくる梨乃。画面を見ると、そこには天気予報のアプリ。降水確率は100%。雨が止む時間は……。
「午前3時か……」
「ちゃんと天気予報見とけばよかったわ、最悪」
「まあしゃーないだろ」
「こんな男と1秒も長く一緒に居なきゃ行けないなんて……」
「失礼だろ」
特に理由はないが、屋根のある場所から手だけを出してみる。
──一瞬でずぶ濡れになった。
「さっさと帰るしかないな。雷も鳴りそうだ」
「そんなあなたに更に残念なお知らせよ」
そう言い、梨乃はそのスラリと長い指で俺の頭の上を指さした。顔を上げると、電光掲示板がある。
少し体をずらして掲示板を見ると、そこには赤く大きな文字が流れていた。
『大雨により、電車の遅れや運転を見合わせる場合がございます』
「……マジか」
「大まじよ」
「どうする?」
「どうするって……ここでずっと待ってる訳にもいかないし、どこか休めるところでも探した方がいいんじゃない?」
「休めるところねえ……」
携帯で検索をしてみる。何個か結果が出てきた。
「近くに泊まれるところあるっぽいぞ」
「……しょうがないわね、そこに行くしかないわ」
移動中(俺は傘を持っていないため、相合傘になる。梨乃はずっと不機嫌だった)。
▼
「ごめんなさい、いきなりの雨でお客さんがいっぱいなんです。一部屋だけなら貸せるんですけど……」
というわけで、毒舌幼馴染と一緒にお泊まりをすることになった。
──いや、どういうわけだ。
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