第3話 新しい日常



 目を覚ます。目の前に広がるのは見知った天井。

 身体を起こした俺は、軽い眩暈と戦いながら窓の外を見た。いつもの癖で早起きしてしまったせいで、外には誰もいない。

 それもそのはず、今日は日曜日である。日曜の早朝に外を歩いている奴なんかそうそういないだろう。

 窓を開けると、そこそこ涼しい風が部屋の中を洗うように雪崩れ込んでくる。肺の中まで洗われている気分だった。

 ちらりと、隣の家の二階の窓を見てみる。カーテンをぴたりと閉じられたその部屋は、忌々しくも可愛らしい俺の毒舌幼馴染、小鳥遊梨乃の部屋である。

 あの日──梨乃が口を滑らせよくわからないことを言ったあの放課後から既に数日が経った。それ以来梨乃は俺と登校をしないようになり、教室でも話しかけてこなくなった。時々視線を感じるが、顔を上げた瞬間にさっと逸らされる。元々あまり好かれていないという自覚はあったが、ついに嫌われの域に突入してしまったようだ。

 しかし俺としては、いつもの日常が崩れていくというのは好ましくないことで、何なら早く梨乃にはもとに戻ってほしいと思っている。いつも聞いている毒舌が聞けなくて寂しいとかそういうのではない。全くない。


 再び俺を襲ってきた眠気に逆らうことなくベッドに倒れこむ。俺をしつこく起こす奴がいないので、ゆっくりと二度寝もできる。あれ、これいつもより快適じゃね? 


「けどやっぱ……なんか、違うな……」


 眠りの坂を転がっていく意識の中、快適の中に潜む違和感を見つけ、俺は小さくつぶやくのだった。



 ◆



 夢を見ていた。

 ずっと昔の夢、俺がまだ幼かったころの夢。

 公園に行って、一人でずっと遊んでいた。砂場だけが俺の友達だった。

 そんな俺に、声をかける一人の少女。そのころはまだ肩にも届かないほどに短い髪を揺らし、くいと顎を上げ、蔑むように俺を見ていた。


『一人で何してるの』


 彼女はそう尋ねた。問いかけられているのだと気づくのに数秒を要するほどに、刺々しい問い方だった。


『遊んでる……?』


 自然と疑問形になっていた。


『一人で?』

『一人で』

『楽しい?』

『そんなに』


 軽く交わされる会話。意味なんてないが、久しぶりの肉親以外との会話に、俺は緊張していた。しかし彼女はそんな俺のことなど気にもせずに、どかどかと砂場に入り込んできた。


『じゃ、一緒に遊びましょうよ』

『……うん』


 少女は俺の横に座ると、ふっと微笑んだ。それは暖かな笑みではなかったが、決して冷たいというわけではなく、ひんやりと俺の心を冷やした。

 そして俺たちは友人になった。いや、幼馴染といえばいいのだろうか。

 あの頃は、今と違った。少女──は毒舌を吐かずに、少々冷たいものの優しく俺に接してくれていたはずだ。



 ────きなさい


 そういえば、梨乃はいつから俺に対して冷たい態度を取ってきたんだっけか。確か、高校生になる前からはもう既にあんな感じで毒舌を吐きまくっていたような気がする。しかし、はっきりとその時のことを思い出せない。脳があまりにも恐ろしい思い出なので思い出したくないとワガママを言っているのだろうか。


 ────いい加減に……くれ……しら? 


 それとも、何かもっと他に大きな理由があるのだろうか。俺は何かの魔法にかかっていて、梨乃はその副作用か何かで俺に毒舌を吐いているとか。


 ……いや、それはさすがにないか。


 脳内に浮かんだバカバカしい考えを捨て去る。高校二年生にもなってなんて恥ずかしいのだろうか。

 それよりも、先ほどから何か声が聞こえる。どこか遠くから、何かの壁を通して聞こえてくるような、くぐもった声だった。

 まあ、気にすることでもないか。

 俺は目の前で砂の山を作っているかつての日の梨乃を見る。無表情に見えるが、その瞳は作り終わった砂の山の出来に輝いていた。

 何だろう……いつもきつい態度の梨乃ばかりしか見ていないから、こういう無邪気な梨乃がとても……何だろう、新鮮に思える。


『何作ってるの?』


 そう尋ねると、少し口元を緩めていた梨乃ははっとこちらを向いて、無表情に戻った。


『別に、あんたには関係ないでしょ』


 その、幼いころの梨乃の、小生意気な喋り方に思わず笑みを零してしまう。


『その砂の山、すごい綺麗だね』

『……! あんた、なかなかわかってるじゃない』

『それはどうも』

『やっぱりなんといってもこの山の形よね! このカーブがとっても綺麗だわ!』



 ────んにしない──わよ



 砂の山を褒められたのが嬉しかったのか、梨乃は無表情を消し、笑みを浮かべながら熱弁をし始めた。やはり、昔の梨乃である。


 ああ、ほんと…………


「梨乃は、可愛いよなあ」


 ばちーん! 


 視界にマズルフラッシュにも似た光が飛び散る。

 飛び起きると、頬が熱いくらいの痛みを帯びている。驚きながら周りを見渡すと、俺のベッドの傍に、見慣れた──ここ数日は見ていないが──顔があることに気が付いた。

 何故か顔を赤くした梨乃は、慌てた様子で俺を睨みつけていた。


「あれ、お前俺の部屋で何してんの」

「……あ、あんた……今自分が何言ったのか、わ、わかってんの!?」


 いつものように、冷静沈着な梨乃はどこにもおらず、そこには顔を真っ赤にしてわたわたとしている美少女だけがいた。


「何言ったかって……お前俺の部屋で何してんの?」

「それじゃないわよこの間抜け! その前に言ったことよこの馬鹿!」

「なんかいつもより毒舌の語彙力が貧困だなぁ……ていうか、その前? 俺寝言でなんか言ってた?」

「ね、寝言……?」


 顔を赤くしたまま、梨乃は呆然とこちらを見た。どうやら俺は本当に何か寝言で言っていたらしい。そう考えると、なにやら夢を見ていたような気がする。忘れてしまったが。

 梨乃は寝言と聞き少し肩を落としていたが、どうやら俺の寝言はそれほどに彼女を慌てふためかせるほどの威力を持っていたらしい。


「俺、何言ってたの?」

「へぇっ!? い、いや……なんでもないわよ」

「何今の声。ウルトラマンかなんかの親戚なのお前? ていうか、そんな言葉にも出来ないような寝言発してたのか俺」

「え、ええそうよ。それはもうエロもグロも裸足で逃げ出すようなおぞましいことをあなたは口走ってたのよこの変態」

「マジかよ」

「マジよ」


 少しずつ落ち着きを取り戻してきた梨乃は、それでも赤い顔のまま言った。何やら嘘くさいが、まあ問い詰めるほどのことでもない。

 それよりも俺は、久しぶりの梨乃の毒舌を味わっていた。やはり一日一度は毒舌を聞いておかないと安心できない。

 …………あれ、調教されてね? 


「ていうか、お前はなんで俺の部屋に来たんだ?」

「ああ。そういえば忘れてたわ。誰かさんの変な寝言のせいで」

「はいはいすんません」

「お腹空いたからご飯作ってほしいの」

「お前はご飯を作ってほしいから幼馴染をひっぱたいて起こすのか……」

「た、叩くつもりはなかったし、それは悪かったわよ……。いつまでも引っ張らないでちょうだい女々しいわね」

「へいへい……作るからリビングで待ってろ」

「……ん」


 こくりと頷いて外に出る梨乃。ここ数日はそっけない態度を取っていた彼女だったが、どうやらもう元に戻ったらしい。

 まあ、もう一度くらいあのしおらしい梨乃を見たい気もしないわけではないのだが。

 そんなことを考えながら、俺は階段を下りていく。新しい日常の始まりだ。

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