第2話 いつもの日常?
一人で昇降口に入った俺は、靴を履き替え教室に向かう。ちなみに梨乃は一緒に登校をしているところを見られたくないだのと言ってさっさと一人で行ってしまった。思春期を迎えた娘を持つ父親のような気持ちを、まさかこんな年齢で味わえるとは思っていなかった。
教室のドアを開け席に座る。右斜め前に梨乃の背中が見えた。どうやら本を読んでいるようだった。
まあ俺もそこまで暇というわけではない。鞄の中から宿題を取り出した俺は、少し遅い課題タイムに入ることにした。
順調に問題を解いていると、ふとどこからか視線を感じた。
顔を上げると、こちらを見ていた梨乃とばっちりと目があった。梨乃は一度気まずそうに目を逸らしたが、何を思い直したのか立ち上がりこちらに歩いてきた。
「あなた、今宿題をしているの?」
「悪いかよ、昨日やるの忘れてたんだよ」
「呆れた。学生の本業は勉強でしょう。あなた、何をするためにここに来ているの? まさか青春を謳歌するなんて間の抜けたことは言わないでしょうね」
「……はいはいはいはいわかったからごめんなさいごめんなさい」
こちらに来て何を言うのかと思えば、いつも通り悪口だった。
若干うんざりした俺は、忙しいということもあって少々おざなりな態度で梨乃に接する。梨乃はそんな俺を見て目を細める。
「……何、正論ぶちかまされてキレてるの? キモ」
「……」
このままいつも通りの悪口大会になっては勉強に集中が出来ないので、無視することにする。怒られるかもしれないが、後でジュースでも買ったら機嫌は直るだろう。
梨乃は何も答えなくなった俺をしばらくの間、凍えるような目つきで見ていたが、すぐに踵を返し自分の席へと帰って行った。
やけにすんなりと帰ったことを疑問に思いつつ、宿題を進める。すると、ペンを走らせていた俺の頭に、何か軽い物が置かれた。反射的に手で頭を抑えると、頭の上に乗せられていた物が目の前に落ちた。ノートだった。
目を上げると、相変わらず冷たい目をした梨乃が立っていた。視線を落としノートを見ると、可愛らしい字で小鳥遊梨乃と書かれている。どうやら今俺の頭の上に乗せられたこのノートは梨乃の物らしい。
梨乃はじっと、何も言わずに俺を見ている。
「えーっと……これ、写させてくれるのか?」
「……好きにしなさいよ」
俺の言葉に、珍しく毒を吐かない梨乃。その表情は、どこか気まずそうにも見えた。
だが梨乃の表情は関係ない。ノートが一番大切だ。
「マジ!? 感謝! あとでなんか奢るわ!」
「…………別にいいわよそれくらい。ていうかがっつきすぎ、キモイ」
珍しく毒を吐かないと思っていたが、どうやら気まぐれだったらしい。ノートを抱きしめながら涙を流す俺に、梨乃は先ほどと変わらない口調で毒を吐いてきた。さっきのしおらしさは何だったんだ。いや別にしおらしくはなかったけど。
梨乃はそれだけ言いたかったのか、すぐに自分の席に帰って行った。
俺はそんな梨乃を不審に思いながらも、すぐにノート写しの作業に移っていった。
◆
放課後を告げるチャイムが鳴った。それと同時に教室の空気が弛緩する。一日のほとんど惰眠を貪っていた俺は、大きく背伸びをして帰宅する準備をする。
そんな俺の肩を、誰かが叩く。振り返ると、少し背伸びをした梨乃はにっこりと笑みを浮かべてこちらを見ていた。
梨乃が笑みを浮かべているということは、何か良くないことが俺におこるという前触れである。俺は梨乃が何かを言う前に捲し立てる。
「あー、そういえば今日スーパーの特売日なんだよな! だから早く買いに行かなきゃ! だから俺はもう帰るわ!」
「スーパーなら後で一緒に行きましょう。二人の方が効率がいいわ。そう、二人の方が効率いいのよ?」
「…………」
がしりと、肩を掴まれる。どうやら逃げ場はないらしい。俺は人がいなくなり始めた教室を見渡して、大きくため息をついた。
「あなたには生徒会の手伝いをしてほしいの」
「生徒会の?」
「二回も言わせないでよこの能無し。普通に書類をチェックして仕分けるだけの簡単な作業よ。生徒会のメンバーが忙しくて、私しか働ける人がいなかったのよ」
「勘弁してくれよ……体育で疲れてるんだって……」
「私も体育やったわよ。男なんだからしっかりしてちょうだい」
「へーいへい」
窓から差し込む夕日で蜜色に染まるリノリウムの床を歩きながら、梨乃はそう言った。しかし、俺は陽光に照らされ黄金色になった梨乃の髪を眺めるのに忙しかったので、全然聞いてはいなかった。それを言えば怒られるので、とりあえず相槌を打っておく。
梨乃は生返事しかしない俺を不審に思ったのか、こちらを向いて首を傾げた。
「ちゃんと聞いてるの? そのピンボール並の脳みそをちゃんと働かせてちょうだいよ」
「お前はピンボール並の脳みその男に生徒会の労働をさせようとしているのか」
「猫の手も借りたいって諺があるのよ。無知蒙昧なあなたは知らないでしょうけど」
「いい勉強になったよ」
「死ね」
「なんで?」
そんな軽口(?)を叩きながら歩いているうちに、生徒会室についた。
扉を開けると、かすかに埃の匂いがする。
梨乃は生徒会室の最奥に設置されている机、生徒会長用の机に座ると、書類を引き出しから引っ張り出した。
「こんなやつが生徒会長って、やばいよな……」
「言葉に出てるわよ間抜け。それに、あなただって私に投票したんでしょ?」
「いや、俺違う人に投票したと思うわ」
とりあえず梨乃には票入れたくなかったし。
すると、俺の言葉に梨乃がぎろりとこちらをにらんだ。
「は? あなた、私を選ばなかったの? じゃあ誰を選んだのかしら」
「えーっと……確か先輩だったような……」
「……死ね」
「なんで?」
「死ね」
「…………」
何だか不機嫌である。触らぬ神に祟りなし。いや、梨乃の場合あちらから触ってくるが。
梨乃は無造作に書類をこちらに投げつけると、一言「これやって」とだけ言って自分もなにやら書類にペンを走らせ始めた。
俺はというと、体育の疲れが今に出て来たようで、落ちてくる瞼と必死に戦っていた。
仕事もせずに船を漕いでいた俺を見て、梨乃は呆れた表情になった。いつも冷めた表情なので、何気に珍しい光景だった。
「ねえ、私から頼んでおいてこんなこと言うのもアレなんだけど……あなたホントに使えないわね」
「悪かったな……疲れてんだよ」
「私だって疲れてるわよ……ほら、さっさと働いてよ。一緒にスーパー行くんでしょ?」
「……はいはい……」
重い瞼をこじ開け、書類に目を通す。意味は全く分からないが、とにかくハンコを押しとけばいいだろう。
梨乃が若干呆れた目でこちらを見ていたが、無視。第一生徒会以外の人間ができる仕事ではないのだ。
静かな生徒会に、俺のハンコを押す音だけが響く。
……俺の音だけ?
生徒会長の机を見ると、梨乃は何をするでもなくぼうっと俺の方を見ていた。
「待て、お前もう終わったのか?」
「あたりまえじゃない……私を舐めないで」
「じゃあお前ひとりでやった方が早かったんじゃねえの?」
「……別に、私の勝手でしょ」
俺の勝手はどこに行った。
「……何よ、アキ君は私と一緒に仕事するの嫌なの?」
「そういうことじゃないが……ていうか梨乃、なんでまた昔の呼び方を……」
梨乃はうつらうつらと頭を揺らしている。どうやら彼女も体育のせいで疲れているらしかった。
「別に……いい、じゃない……」
「疲れてるんならそこのソファで眠っとけよ。俺終わらせとくから」
「うん、ありがとう……」
「マジで気持ち悪いくらい素直だなお前……」
ずっとそうしてたら可愛いのにという言葉は飲み込んでおく。なんだか怒られそうである。
梨乃はソファにこてんと倒れこむと、小さな寝息をたてながら寝始めた。どうやら本当に疲れているようだ。まあ、生徒会の仕事やら学業やらで忙しいのだろう。
「……さて、やるか……」
梨乃が寝たことで、俺を邪魔する者はいなくなった。これで存分に仕事に集中できる。
少しストレッチをして、仕事に取り掛かる。この様子だと後三十分もあれば終わりそうだ。ハンコを手に持った俺は、大きく息を吸って仕事を再開した。
◆
寝ていた。
ぐっすり寝ていた。
あと三十分で終わるとか言っときながらたっぷりと惰眠を貪っていた。
俺の目の前には全く手がつけられていない書類の山がある。
幸いなことに、まだ梨乃は眠っている。起きる前にさっさと書類を終わらせてしまおう。書類の山から一枚紙を取り出し、ハンコを押す。するとそんな俺の肩に、誰かが手を置いた。
いや、誰かなんて白々しい。この場にいるのは俺を含め、二人しかいないのだから。
ゆっくりと振り返ると、それはそれはいい笑顔をした梨乃が立っていた。笑っているが、こめかみに青筋が浮かんでいる。
「ねえ、今何時だと思う?」
「……俺の予想だと七時くらい」
「ええそうよぴったりよ」
「あ、そうなの」
「……で、この書類の山は何かしら」
「なんだと思う?」
「アキ君が終わらせなかった仕事の数々かしら?」
「ええそうよぴったりよ」
「死ね」
「ごめんなさい」
大きなため息をつく梨乃。これほどため息をついているのだ、彼女の中に幸せは残っていないだろう。
「まあすぐ終わらせるよ。待っとけ」
「……私も手伝うわ」
「無理すんな。寝起きだろ」
「……あなたよりかはマシだわ」
「まあそうだな。……あ、呼び方直したのな」
「……呼び方?」
首を傾げながら俺の横に座る梨乃。ふわりと甘い香りがした。
寝起きから覚醒し始めているのか、先ほどまでのアキ君という呼び方は直っている。しかしまだ眠いようで、書類とにらめっこしながらも、その瞳はどこかとろんと現実世界にいないようだった。
「あとちょっとだな」
「……あなたがもっと早くしてたら、こんな遅くまで働く必要はなかったのだけれどね」
「はいはいすんません」
「まったく、もっとしっかりしてよね。そんなんで将来どうするつもりなのかしら」
今の梨乃は眠気のせいで心の中の声までも呟いてしまっているようだ。それにまだ覚醒し終えていないので、いつもの毒舌もなりを潜めている。
梨乃はぺらぺらと喋りながら、それでも手は休めずに作業を進めている。これが俺と彼女の違いなのだろう。
返事をしない俺を不審に思ったのか、梨乃がちらりとこちらを見る。
「ちゃんと聞いてるの? まったく、あなたが大きくなってもこんなんだったら、私も困るわよ」
「……お前にゃ関係ないだろ」
ぎろりとにらまれる。寝ぼけているとは思えないほどの眼光だった。
「関係あるわよ……」
「関係あるのかよ」
「……将来旦那がこんなんだったら、私まで色々言われそうじゃない」
「はいはい、そらまあすいませんでした……………………は?」
「……え?」
ぴらり、手に持っていた紙が指から滑り落ちた。
何を言われたのか分からなかった俺は、素っ頓狂な声を上げ梨乃の顔を見てしまう。
梨乃も自分自身が何を言ったのかわかっていなかったらしく、ぽかんと口を開けてこちらを見返している。
しかし、だんだんと彼女の顔が赤く染まっていく。自分が経った今何を口走ったのか気づき始めたのだろう。いや、正確には先ほどからだが。
今やリンゴよりも真っ赤になってしまっている梨乃の顔を見ながら、俺も自分の顔が熱くなるのを抑えられなかった。
「今お前……なんて……」
「い、いやっ違うから! 何勘違いしてんの!? キモイ!!」
「いやけど……今お前旦那が──」
「し、知らないから! 知らないから!」
珍しく慌てた様子の梨乃は、顔を真っ赤にしながら立ち上がり、そのまま部屋を飛び出していった。残された俺は、熱くなった顔を手で扇ぎながら、天井を見上げる。
ほんっと、勘弁してくれ……。
「結局、仕事もスーパーも一人きりかよ……」
一人愚痴るが、俺の頭はそんなことなど考えていなかった。
朝から色々と言ってきたが、そのすべてはこの一言で収まってしまう。
俺の毒舌幼馴染が稀に見せるデレが可愛すぎて辛い。
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