こんな夏が送りたかっただけの話。

じゅそ@島流しの民

第1話 あなたの夏はどこから? 私は君から。

 目を覚ますと、開け放たれた縁側の窓から漂う夏の蒸し暑い匂いが鼻を擽った。視界の端に映るのは、紐で丸められその存在意義を否定された簾の群れ。足元まで伸びて来た陽光から逃げるように、僕は寝がえりを打った。

 ひんやりと冷たい木の床が僕の眠気を奪っていく。薄らと目を開けると床に落ちていた団扇とコンセントの抜けた扇風機が見えた。どちらも暑すぎるこの気温の中では大して意味を持たない代物であった。

 静かに身を起こすと遠くからさざ波のような蝉の鳴き声が聞こえてくる。ぼんやりと外を眺めると、山のような入道雲が遠くの空で大きく広がっていた。

 実家に帰ってきてから既に三日が経っている。都会にいるときはあんなにも実家に帰りたいと喚いていた僕だったが、帰ってきたら帰ってきたでやることが全くない。


 大きく伸びをした僕は立ち上がり、日差しで熱くなった縁側を歩いて台所まで歩いていく。

 床も柱も天井もすべて木だった客間とは違い、台所は様々な材料で作られていた。

 床と壁は淡いクリーム色のタイルで、天井はコンクリート。若干古い日常映画で出てきそうな雰囲気な台所である。

 ひんやりと冷えたタイルの上を歩きながら、僕は冷蔵庫を開けた。温かみのある黄色い光が灯り、冷蔵庫の中を照らした。田舎が嫌だと飛び出した中学三年生の時点では大きく思えたこの冷蔵庫だったが、今見ればなんとも小さく古い冷蔵庫だろうか。

 冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出して飲む。熱くなった体が食道を通して冷えていく感触を楽しみながら、僕はぼんやりと古ぼけた椅子に座り台所を見渡す。

 陽の光が入ってこないからか、台所はぼんやりと薄暗く、何だか湿っぽく不気味な雰囲気を醸し出していた。埃の積もった蛍光灯の傘の上をなるべく見ないように、僕は紐を引いた。

 くすんだ光が台所を照らし出す。先ほどまで陽光を見ていたせいで明るく思えなく、目がしょぼしょぼしてしまう。

 大して明るくはないが、薄暗かった台所は見違えるように明るくなった。よく見えるようになった台所は、飛び出したあの日から全く何も変わっていなかった。

 その事実が何だか嬉しくもありながら、同時に悲しくもなってしまう。

 自分だけが前に進んでいるような気がして、そのうち取り返しのつかない場所にまで進んでいってしまうような気がして。

 もう一口麦茶を飲むと、僕は紐を三回引っ張って電気を消し、台所を出た。今日は外に出よう。

 ちらりと窓の外を見ると太陽が痛いくらいに輝いている。制汗スプレーと日焼け止めを持って行かなくてはと思いながら縁側を歩いていく。


「変わったよな……」


 昔は、どんなに暑くても虫取り網と水筒だけで外に飛び出していた。あの時の僕には怖いものなんてなかった。日焼けは男の誇りとさえ思っていた。

 だが今はどうだ、持つのは携帯と財布と制汗スプレー。何だか嫌になってしまう。


 しかしまあ、こういう類の変化はしょうがないものである。僕は日焼け止めをまんべんなく塗ると、意を決して玄関から出た。

 途端に痛いほどの陽光が肌に突き刺さる。すぐに汗が噴き出て来た。


「あっつ……」


 家を出ると、目の前には大きな自然が広がっている。田舎だから当たり前かもしれないが。

 道の傍に生えている木は、陽の光に当たって濃い影を地面に落としている。太陽の明るさが、葉の緑の暗さをより一層際立たせていた。

 木の下に滑り込むと、熱くなっていた頭皮が冷えていく。頭上から降ってくる蝉の鳴き声が鬱陶しい。見上げると翠の天蓋が広がっている。幹に止まっているアブラゼミが羽を震わせながら鳴き喚いていた。

 首筋に垂れた一筋の汗を拭い、再び影の外に出る。ちりちりと痛い肌に、今日は風呂が大変そうだなとまるで他人事のように呟いた。



 ◆



 畑の畦道を歩いていると、嫌でも人とすれ違う。

 しかし勘違いしてはいけないことがある。すれ違うと言っても、それは妙齢の美しい女性などではない。

 十中八九畑仕事をしている帽子+タオルのおばさん乃至はおじさんである。間違っても田舎に出会いなどを期待してはいけない。

 昨今は田舎を題材にしたアニメィションやら漫画などが増えてきているせいで、田舎に余計な幻想を抱く輩が多い。はっきり言っておくが、田舎に住んでいていいことなんて一つもない。

 コンビニは遠いし、何かイベントがあったとしても絶対に東京だし、GPSを使うゲームでは大体損をする。

 百害あって一利なし。結局、都会の方が利便性に優れているのである。


 しかし、何故人々はこんなにも田舎に心を奪われるのだろうか。現実にはありもしない田舎の風景画にありもしなかった己の若かりし頃を思い、懐郷に浸ろうとするのだろうか? 

 ノスタルジィを感じる大抵の人間は都会生まれの都会育ちである。


 結局、人々は優しい夢を見ているのだ。

 田舎に何かを置いてきてしまったという、思い違いをしているのだ。


 見ているだけで心が締め付けられそうになる翠。ぼんやりと死について考えてしまいそうになるほどに深く白く柔らかい入道雲。

 我々は、無邪気さと共に、教科書よりも大切な何かを田舎へ置いてきてしまったのだと、こう思い込んでしまうのだ。


 とんだ勘違いである。お前たちが忘れたのは二次関数と大繩の入り方だけだ。


 本当の田舎に住んでいる奴は、田舎に何かを忘れただなんて思っていない。

 逆だ、逆なんだ。僕たち田舎の人間は、田舎に全てを取られたのだ。

 青春も、思い出も、懐郷の気持ちさえも。


 全部、全部、全部、搾取された。一滴残らず、搾り取られた。


 だからこそ僕は、取り返さなくてはいけない。



 裏山の入り口に突っ立って空を見上げながら、僕はそう決意した。


 僕はこの帰省中に、絶対に田舎から取り戻してやる。

 何を、なんて、自分でもわかっていない。

 ただ燻った思いが、何かを取り戻さなければと突き動かす無名の感情が、僕を焚きつけていた。


 森に一歩足を踏み入れると、ひんやりと涼しい空気が頬を撫でた。濃い草いきれに思わずむせて、空を見上げた。差す陽光は葉によって遮られ、細々としか地面に届いていない。煌びやかな木漏れ日が辺りに満ちていた。斑模様の影が風に合わせ静かに左右へと動いていた。


 草むらは虫で溢れており、少し足を進めるだけでこの世の終わりが来たかのような慌てぶりでバッタたちが跳んでいく。それが少し面白くて、つい笑みを漏らしてしまう。しかし時たま方向感覚が狂ったバッタが僕の脚にくっついてきたりして、それはとても気持ち悪かった。

 けたたましい蝉の鳴き声に包まれながら歩いていく。時折シャツの中を通り抜けていく風が気持ちいい。

 けもの道を通っていくと、開けた場所に出た。見上げると、そこら中の林冠が仰け反るような形になっていて、まるでここだけポカンと森が大口を開けたような形になっていた。


 一段と太い梯子のような光が差し込んでいる。絵画かと思ってしまうほどに儚く美しいその風景に、僕は暫しの間見惚れていた。青々とした葉が光に透けて、薄い葉脈を見せびらかしていた。深い緑の影と明るい緑のコントラストに、呼吸をも忘れて見入っていた。

 ここで粋な大人なら木陰に移動して文庫本でも読むのだろうが、生憎本を持っていない。携帯の中に電子書籍ならあるが、電子書籍では格好がつかないだろう。

 寝転がって空に浮かぶ入道雲でも眺めていたい気分だったが、生憎と虫だらけの草むらに横たわるほどの勇気は僕にはない。木に凭れかかるのだって、そこら中を歩いている蟻が気になって出来やしない。

 いつの間に僕は変わってしまったのだろうか、そんな憂鬱から来るため息を長々と吐きだして、額に浮かんだ汗を拭った。


 ふと目の前に聳える大木を見ていると、何かの記憶が浮き上がってきた。


『この木の上から見える夕陽、とっても綺麗なんだよ!』


 誰だったのだろうか、あれは。

 覚えている。確かに覚えていた。


 僕と同じくらいの短さに切り揃えられた髪の毛に、僕より少し高かった身長。一丁前の子供らしく日焼けした姿はとても眩しくて、時々浮かべる笑顔と合わさった場合なんて、まともにその顔すら見れないほどだった。

 そうだ、思い出した。僕の近所に住んでいた幼馴染の少女だ。


 名前は忘れてしまったが、確かに覚えている。

 あの日、あの夏、彼女は確かにここにいた。他でもない僕と、この大木の前で。


 悠然と流れる入道雲が太陽を覆い隠した。透き通るように青かった空が若干くすんだような気がした。雲の切れ端が銀に輝いて、わずかな光だけを漏らしていた。


 家を出てから何も飲んでいない。喉はカラカラだ。だが、僕はそんなことも気にならないほどに目の前の大木に見入っていた。


 目を瞑ると、今まで霞がかっていた記憶がはっきりとしていく。


 覚えている、彼女を。

 およそ山のぼりをするのには適していない白いワンピースとサンダルで僕の目の前に現れた彼女。ぶかぶかの麦わら帽子を深く被るその姿は、何だかひどく滑稽に見えてしまう。

 蚊に刺されちゃったと舌を出して笑うその無邪気な表情。どくんと胸が跳ね上がる。


 僕の手を引いて山を駆けあがる彼女。サンダルでどうやってそこまで駆けれるのかと疑問に思ったが、そんな疑問は忙しなく更新される彼女との思い出ですぐに消え去った。


 大木の前で立ち止まった彼女は、僕の手を離してその幹にしがみついた。離れた掌は汗でじっとりと濡れており、蒸し暑いはずの空気がやけに涼しかった。涼しいのに、なぜか離れた手が惜しかった。もっと繋いでいたいと、無意識にそう思っていた。

 太い枝に乗った彼女は、腰に手を当てて大きな声で笑っていた。陽光が彼女のワンピースを透かし、細い腰のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせていた。





 目を開くと、それまで外に追いやられていた蝉の鳴き声が押し寄せるように耳へと雪崩れ込んでくる。


 彼女の顔を頭の中で思い描きながら、僕は再び足を進めた。



 ◆



 暫く進むと、小川を見つけた。助走をつけて跳ぶと簡単に越えられてしまうほどに細い川だった。光が反射して煌々と輝いているその川もまた、彼女と共に訪れたことのある場所だった。


 特に思い入れはない。ただ、彼女と一緒にここでサワガニや蛙を捕まえたり、足を水の中に入れ涼んだりしていた。


 近くに寄ってみると、なかなかに澄んでいる水だ。しゃがみ込み手で掬う。湧き水なのか、適度に冷たく、太陽光で乾ききった肌に吸収されるようだった。川底にはごろごろと石が転がっており、茶色い苔で覆われていた。小魚がその苔を啄んでは逃げ、すいすいと泳いでいく。見ているだけで首元が涼しくなるような光景だった。

 石を手で退かしてみると、その下には挟まった葉に紛れ、ハゼやらサワガニが隠れていた。急いで逃げ始めるその姿を見て、僕は思わず笑みを零した。

 ぬめった石から手を離すと、靴と靴下を脱いで川に足を入れた。足が冷やされ若干擽ったかった。流れて来た草切れが足首に当たって、何だか気持ち悪い。ぬるぬると滑る足元に気を付けながら、僕はゆっくりと川を渡る。

 子供のころは勢いよく飛び越えていたこの小川だったが、今の僕にそんな度胸はない。滑って転んだらどうしようと心の中のブレーキが作動してしまった。

 川から上がり、水を払ってから靴下を履く。濡れているせいで履きにくい靴下と靴を我慢して無理やり履いて、僕は歩き出した。


『蛙は直接触ったらダメだよ。私たちの体温って、蛙にとったらとっても熱いみたい』


 そんなことを言っていた彼女を思い出して、再び笑みを浮かべる。まるで感傷に浸っている僕のように敏感な存在である。

 ワンピースの裾を持ち上げ、ざぶざぶと水を蹴り上げながら川を渡る彼女を覚えていた。跳ね上がった水滴が光を反射して光をまき散らす様を、まるで昨日のことのように覚えている。


 携帯を見ると、結構な時間が経っていた。早く帰らなくては。


『この木の上から見える夕陽、とっても綺麗なんだよ!』


「…………」


 帰ろうとしていた足がぴたりと止まる。頭の中を占めるのは、一寸前に思い出したばかりの彼女のこと。何故こんなに忘れられないのだろうか、そんなこともわからないまま、僕は再び歩き出した。



 ◆



 何度か道に迷いかけ、先ほどの大木まで辿りついた時には既に太陽は傾いており、蜜色の光が浅い角度から僕を照らしていた。

 僕の目の前には、夕陽に照らされながら聳える大木が。枝が多いので、見た目に反して登りやすいらしい。彼女が小さな頃に言っていた。

 既に姦しい蝉の声は止んでおり、蜩の切ない鳴き声だけが肌寒くなってきた辺りに空しく響き渡っていた。

 樹皮に触れると、がさりとした感触と共に、人工的ではない暖かさが掌に伝わってくる。

 幼いころとは筋力が違うので、木登りは案外簡単だった。

 自分の身長の数倍以上の高さに上ったところで、大した恐怖心は沸いてこない。ここだけは良い変化と捉えていいのだろうか。


 ぼんやりと下を向いていた僕は、顔を上げ言葉を失った。


 とても綺麗な夕陽だった。

 多分、どんな言葉を用いたところで、この美しい夕陽を表すことが出来ないんだろうな、なんて考えてしまうほどには、美しかった。


 赤い夕陽は完全な丸で、ぼうっと見ているとまるでそれはコルク抜きでくり抜かれた瓶の口のようにも見える。僕たちは瓶の中にいて、くり抜かれた空を見上げている、そんな気がしてならなかった。


 静かに、音を立てることなく山肌を掠りながら沈んでいく太陽を眺めながら、僕は一人静かに満足感に浸っていた。

 よくわからないが、田舎に奪われた何かを取り返したような気になっていた。失くしていた何かを取り戻したような思いを抱いていた。


「彼女にもう一回会いたいな」


 そんな言葉が口をついて出た。何故かそんな思いが心を占めていた。


 母なら何か知っているだろうと思った僕は、急いで木から下り家に向かって走り出した。


 そうだ、彼女に会おう。会って、礼を言うんだ。僕が失った何かを取り戻してくれてありがとうと。掌から零れ落ちた名もなき存在を見つけ出してくれて、感謝していると。


 景色が流れるように後ろへと飛んでいく。ひんやりと冷たい、それでも湿気のせいで暑苦しい中を全速力で走る。

 心はこれから起こるであろう大冒険に踊り、息と共に弾んで、夏の夜空に滲んでいった。


 ああ、彼女に会いたい!! 今すぐに会いたい!!!



















 






「え? 〇〇ちゃん? あの子、今年の冬に結婚するらしいわよ。めでたいわねぇ」



 まあ、どうせこんなことだろうと思っていたけど。



 ◆



 新幹線は嫌いだ。

 僕は身体を緩やかに押すGに抗いながら、ぼんやりと外を眺める。

 小さな頃から路面電車に乗っていた僕にとって、新幹線の車窓から見える風景というのは何ともまあ情緒のない破廉恥なものに思えて仕方がないのだ。

 がたがたと揺れる電車の中はまるでゆりかごのようで安心できるが、新幹線はそうではない。すぅーと音もなく高速で進むのは便利かもしれないが、何だかそれでは人の温かみがないように感じる。音も振動もなく動き続ける風景を見ると、心の底から恐怖が沸き上がってくるのだ。


 閑話休題。さて、場面は変わって僕は実家から都会へと帰る途中の新幹線である。

 思い出の彼女が名も知らぬ男の肉棒を咥えていたことに暫しの間傷心した僕であったが、まあ正直なところ十年くらい前に遊んだだけの関係なのだ。彼女は僕のことなんか覚えていないのだろう。事実、僕だって昨日まで忘れてたし。

 前の席に取り付けられたトレイがやけに小さく感じる。弁当とコーヒーを置けば何だかぐらぐらと不安定に揺れてしまい、慌ててコーヒーを支えた。

 窓の外に見える空は不安になってしまうくらいに蒼い。重なった入道雲が、深い影を山の上に落としていた。

 外では蝉がけたたましく鳴いているのだろう。しかし、全ての音を置き去りにした新幹線の中で響くのは、人々が蠢く微かなそよめきと冷房の静かな風音だけである。

 だが外に色濃く映る影と光を見ているだけで、何だか首元に熱が帯びてくるような感覚になる。僕は急いで目を瞑り、冷たい冷房にわが身を晒した。昨日の外出のおかげで存分に焼けた肌がちりちりと痛んだ。

 多分、後数時間もすれば都会について、鬱陶しい人ごみの中に紛れなくてはいけないのだろう。蝉の代わりに人がうるさくなるだけさとつぶやくが、何だか心の中にはふわりと軽い寂しさが残った。




 帰りたくないなぁ。ぼそりと呟いた後に、気が付いた。



 なんだ、ちゃんと田舎、好きじゃん。



 車窓から見える、目まぐるしく高さが変わる塀の上に忍者を走らせる妄想を描きながら、僕は懐郷の情にどっぷりと浸る。


 大丈夫、この気持ちがあるだけで、後数か月は都会でもやっていける。

 ぎらりと銀色に光る太陽の光が眩しくて、遮光性の高いカーテンを閉める。ちらりと隙間から見えた青空に、少し惜しい気持ちを抱くが、思い切って閉めきる。


 まあ、今見逃したとしても、いつでもまだ見れるさ。


 夏はまだまだ終わらない。

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こんな夏が送りたかっただけの話。 じゅそ@島流しの民 @nagasima-tami

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