▶20XX/06/12(2)

 その日の授業が終わってユウタが帰り支度をしているとき、トウカがひそめた声で聞いてきた。


「今日のお昼、例の子と一緒だったの?」


 例の子、とはモエに違いなかった。ユウタが「違うよ」と答えると、トウカは「そうなんだ」と拍子抜けしたように言う。


「ユウタ、浮かれてたし、絶対そうだと思ったんだけどな」


「部室裏で猫にサンドイッチやってた」


「猫?」


 昼間の出来事を思い出してユウタは気分が沈んだ。モエがいるかもしれないと期待してアンパンを手に部室裏を訪れたものの、一人でサンドイッチを食べるはめになっただけ。ドラマの台詞で勝手に期待した自分が間抜けだった。


「あー、なんか海見たくなった」


 まだ海水浴シーズンでもないというのに、ユウタの口からはそんな言葉がこぼれ出た。部室裏から海を見たからかもしれない。


 そういえば、サンドイッチを食べた後あの黒猫はどうしたのか。モエに買っていったアンパンは半分だけ残って地面に落ちていた。猫にやった記憶はないけれど、いつの間に食べられてしまったのだろう。記憶がはっきりしないのはきっとモエのことばかり考えていたせいだ。


 ユウタはとめどない疑問を振り払うように首を振った。


「急に海に行きたいなんてどうしたの、ユウタ。センチメンタル?」


 トウカはおかしそうにユウタの顔をのぞきこんだ。


「天気いいし、なんとなく」


「海行くならあたしも乗ってく」


「乗ってくって、勝手に決めるなよ」


「気分転換しようよ、お互いさ」


 お互いさ、という言葉にユウタは少し救われる。


 トウカはもう行くつもりで立ち上がっていた。父親が帰って来るのは遅いから、それまでにご飯を炊いて、おかずはスーパーで買って帰ればいい。


「じゃあ、海までドライブするか」


「ドライブって」


 トウカを自転車に乗せ、ユウタは通学路と逆方向へ土手沿いの道を走った。見えてきた橋はいつもの橋よりも長く、二人はその手前でコンビニに寄った。ユウタはビタースカッシュのライムグリーンを、トウカはパピコを買って半分をユウタに渡す。並んでパピコを食べながら自転車を押して橋を渡ったが、河口近くで川幅が広く、橋の終わりはなかなか来なかった。


「ユウタの好きな子って、一年?」


「違うよ」


「じゃあ同級生?」


「このガッコの子じゃない」


「そうなんだ。どこの学校?」


「違う世界のヒト」


 なにそれ、とトウカが笑う。


「違う世界のヒトって、身分違いの恋みたいな?」


「そんなもん。触ることもできない」


「お嬢サマ? ユウタ、そんな人とどうやって知り合ったの」


「映画の撮影の日に学校に忍び込んでた」


「ほんとに?」


 質問攻めで聞き出そうとするトウカに、ユウタは撮影の日に第一資料室であったことをほぼそのままに話した。相手が芸能人であることは伏せたから、制服の似ている市内の有名高校の女生徒と勘違いしたようだった。


「ねえねえ、もしかしてユウタの一目惚れ?」


「さあね。そっちこそ、高波には一目惚れだったの?」


 ボロがでないうちにと、ユウタは話をトウカに向ける。


「あたし? 一目惚れじゃないよ」


「何かきっかけがあったの?」


「そういうのでもない。みんなでワイワイ言い合ってセンセのとこに押しかけてるうちに、思ったよりハマっちゃってたみたい」


 空になったパピコの容器を口に咥え、トウカはペコポコと音をさせた。


「あのさ、あたしがユウタにつきあおうって言ったの、この前だけじゃないじゃん?」


「生物のときの、あれ?」


「うん、あれ。あれ、半分アリかなって思いながら言った」


「残り半分は?」


「センセのこと考えてた。だから冗談ってことにした」


「俺は翻弄されただけか」


「本気にしてなかったくせに」


「時効だから言うけど、俺もあのとき半分くらいアリかなって思ってた」


「つきあうの?」


「うん」


「じゃあ、あたしたちつきあうタイミング逃しちゃったんだ。今はお互い違う相手のこと考えてるわけだし。もし両方ともダメになったらつきあう? あたしはほぼ確定だけど」


「俺も、ほぼ確定だけどね」


「ってことは、いつかつきあうかもね。その前に二人とも失恋しちゃうんだ。あたしと違ってまだチャンスあるんだからがんばりなよ、ユウタ」


 トウカはずっと冗談交じりの軽い口調だった。橋を渡り終えてパピコの空容器をコンビニのゴミ箱に捨て、ユウタはペットボトルをトウカに渡す。彼女は一口飲んだあとハンカチで飲み口についた口紅を拭き、キャップを閉めた。


「あとどれくらい?」


「十分くらいかな」


 土手を外れ、埠頭へと続く道を途中で逸れて海岸へと向かった。潮の香りが濃くなり、向かい風に逆らって自転車を進めるとしばらくして海が見えてくる。


 小さな漁船が波に揺られていた。道沿いには民宿と料亭が並び、奥には駐車スペースがある。そこに自転車を停め、二人は砂浜へ足を踏み入れた。


 潮風が耳元で唸り、波音は時を刻む振り子のようだった。これが現実ではないということが信じられず、靴を脱いで裸足になり海に足を浸すと、引き波がユウタの足裏の砂をさらっていく。


 トウカが水面を蹴り上げ、ユウタも真似て波を蹴った。


「恋人同士に見えるかも」


 トウカの言葉で砂浜を見渡したけれど、誰の姿もない。


 モエに恋しながら、ユウタは変わらずトウカを意識している。トウカへの気持ちはモエに向かうほど激しくないけれど、一緒に過ごした時間が多い分だけモエへの気持ちより複雑だった。


「トウカ。恋人と友達の違いってなんだろう」


「恋人と友達?」


 トウカはフッと吐息とも笑いともつかない声を漏らした。


「もし、あたしとユウタがつきあったとして、何も変わんない気がする」 


「何も?」


「キスとか、するかもだけど」


「したくせに」


「だから、変わんないって言ってるじゃん」


 トウカの足は踝まで浸かり、濡れないようスカートの裾を持ち上げていた。光の加減で揺れる足の爪が桜貝のようだ。


「トウカは、高波に触りたいと思わない?」


「思うよ」


「恋人と友達の違いって、そこらへんじゃないの?」


「そっか。ユウタは例の彼女には触りたいけど、あたしはそうでもないんだ」


「変なこと聞くなよ」


「ユウタが先に言ったんじゃない。あたしはセンセじゃなくても、寂しくて誰かに抱きしめてほしいって思うことあるよ。寂しくなるのはセンセのこと考えてるとき。だから、ユウタにもキスした」


 トウカに触れたいという衝動がユウタの内側に芽生えた。それが寂しさを埋めるためなのか、純粋にトウカを求めてなのかはわからない。迷いながら手を伸ばそうとしたときポケットの中でスマホが鳴り、取り出してみると『母親』と表示されていた。


「誰?」


「母親」


「出ないの?」


 スマートフォンの向こうにいるのはアバター? それともNPC?


 着信音は切れる気配がなく、トウカの声に背中を押され電話をとった。トウカは電話には興味ありませんと主張するように波打ち際へ歩いていく。


「……もしもし」


「もしもし、ユウタ? 元気にしてる?」


「別に。何も変わらないよ」


「そっか、そうだよね。あたしがいないのはユウタにとっては日常だよね」


 俺の景色からログアウトした人。それなのに、声だけをこうして寄越してくる。その理由は?


 スピーカーから聞こえる声は以前と変わらず、甘さと気怠さですべてを包み込んでしまう。アハハと母親は笑い、ユウタが踏みしめた砂を波がいとも簡単にさらっていった。


 ユウタの記憶にある母親は、何が楽しいのかいつも笑っていた。声を荒げたことはなく、軽やかな足どりで「行ってきまぁす」とユウタの視界からいなくなる。


「いい母親じゃなくてゴメンね。なんとなくそれだけ言いたくなったの。じゃあね」


 自分勝手にかかってきた電話は、自分勝手に切れてしまった。「じゃあね、また」なのか「じゃあね、バイバイ」なのか。


「ユウタ」


 トウカは首をかしげ、何か言いたげに口を開いたけれど何も言わなかった。スカートの裾をたくし上げると無言のままユウタに近づき、手をとって海から上がる。


「捨て犬みたいな顔してたよ」


「知ってるだろ。うちの母親のこと。捨て犬みたいなもんだよ」


「電話、かかってきたじゃん」


「自分が言いたいこと言ったら切れた。まあ、あの人の人生に俺が口出しできるわけじゃないけど」


「口出ししてもいいんじゃない? お母さんがいなかったらユウタはここにいないんだもん。言うだけでもスッキリするかも」


「今さら言えるかよ」


「じゃあ、海に向かって叫ぶとか」


 トウカの手が離れ、彼女は両手でメガホンを作って叫んだ。


「センセー!」


 得意げな顔で、トウカはユウタに向き直る。


「トウカ、続きは?」


「……バイバイ」


 虚を突かれ、ユウタは動揺する。トウカは笑っていたけれど泣いてしまいそうに見えた。


「次はユウタの番」


「嫌だよ。おかあさーんとか、バカだろ。どうせあの人には聞こえないのに」


「じゃあ、ユウタがしたいようにしなよ。ユウタのことなんだから」


 トウカの右足が砂を蹴り、ユウタの足先にかかった。


「トウカは少し似てる気がする。うちの母親に」


「お母さんに? どこが?」


「口紅の色」ユウタが言うと、トウカは苦笑する。


「ちょっとフクザツ。これ、センセに褒められた色なんだ。キレイだねって」


「教師のくせに」


「そう。教師のくせに」


 トウカはポケットからハンカチを取り出し、グイっと唇を拭った。完全には落ち切ってない淡い色の唇に、色のないリップクリームを塗る。


「あたしはお母さんじゃないから、言いたいことは直接お母さんに言ってね」


 トウカの唇は赤ちゃんの頬のような淡い色をしていて、ユウタはそこに触れたいと思った。


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