20XX/06/12
▶20XX/06/12(1)
いつも通りの平日だった。朝起きると父親は仕事に出かけていて、ユウタは一人身支度を整えて家を出た。空は晴れ渡り、気温はぐんぐん上昇している。通勤ラッシュ前の国道を走りながら、ユウタの鼓動は速まっていた。頭にあるのはモエのことだ。
カメレオンベーカリーでパンを四つ買い、土手でアンパンとウィンナーロールを平らげ、残りは袋に入れて学校へ向かう。教室に着くとスマホでドラマを再生した。
「ユウタってば、完全にモエのファンじゃん」
トウカの声はオープニング曲にかき消されたけれど、表情から何を言われたのか分かった。今日のトウカの唇は朱色だ。
スマホ画面ではエチカが地面から十センチほど上に浮かんでいた。暢気な彼女とは対照的に、トモヤは身を隠すようにあたりをうかがっている。校内で起こったある事件――女子のスカートが無差別に切り裂かれるという悪質な悪戯の犯人として、神谷が疑いの目をつけたのがエチカだったのだ。
『エチカ、しばらくどこかでおとなしくしてたほうがいいよ』
『トモヤは心配性だね。それより、あたしアンパン食べたいから明日のお昼に買ってきて。部室裏で待ってるから』
絶対よ、とエチカはトモヤの鼻先で人差し指を立て、サッと姿を消してしまった。トモヤの手が虚しく空を掴むのはいつものことだ。
不意に画面が手で覆われ、ユウタが顔を上げると「時間切れ」とトウカの唇が動いた。ユウタは大人しくイヤホンを外し、スマホを机の下にしまう。
高波は教卓の上で出席簿を開いていた。彼の存在はこの世界がゲームであることの証拠のように思え、ユウタはモエに会える期待感と同時に自分の存在が揺らぐのを感じる。
『アンパン食べたいから明日のお昼に買ってきて。部室裏で待ってるから』
これがモエからのメッセージかどうか、確認しなければ気が済まなかった。
正午を過ぎてチャイムが鳴り、高波は「じゃあ今日はここまで」と教科書を閉じた。ガタガタと席を立つ音が教室を満たし、日直が黒板の数式を消していく。何人かの女子が高波のまわりに集まり、その中の一人がトウカに手招きした。
ユウタはリュックからカメレオンベーカリーの袋を出して席を離れる。
「あれ、ユウタ。今日はどこで食べるの? また三組?」
トウカの手には弁当とファッション誌。唇の色は雑誌の表紙モデルとそっくりだ。深緑の髪のモデルは顎をわずかに上げ、読者を見下ろすような物憂げな眼差しをしている。右肩を露出し、髪と似た色をしたワンショルダーのワンピースは爬虫類のような鈍い光沢を帯びていた。朱に塗られた唇は捕食対象をおびき寄せる罠のようだ。
「今日は部室で食ってくる」
「人気者は体がいくつあっても足りないね」
じゃあね、とトウカは女子の群れに混じった。教室を出る間際にユウタが教壇に目を向けると、高波の視線がトウカの存在を確認するようにチラリと動く。
高波はトウカの気持ちに気づいているに違いなかった。トウカの前で意図的に恋人の存在を口にしたのなら、教師の立ち回り方としては正解なのだろう。
「ユウタ、学食行かねえ?」
下足場へ向かっていると友人たちが声をかけてきた。
「今から行くとこあるんだ」
「ユウタ、この前の借り。何かおごるから購買部行こうぜ」
「サンキュ。気持ちだけもらっとく」
「ユウタ君、これおすそわけ」
「ありがとう。今度お礼するよ」
受け取ったミルキーをポケットに突っ込むと、ユウタは気持ちを抑えきれず廊下を駆け出した。
昨日ドラマがなければ友人と一緒に学食でカレーを食べ、ついでに購買部で何か買ってミルキーをくれた友人にお返ししただろう。けれど、今のユウタの頭にはモエのことしかなかった。
『部室裏』
その言葉が頭の中を回り続けている。
校舎を出て坂道を上がり、生徒が行き来する部室前を素通りし、建物の裏手にまわって壁を背に座りこんだ。目の前には車二台分ほどのスペースがあり、剥き出しの土にはところどころ雑草が生えている。
張り巡らされたフェンスの向こうに草が生い茂っているが、小高い丘の上にあるこの場所からは街並みが見下ろせた。線路が街を横切り、遠く空の下で青い海が陽光を反射している。
パンの袋を傍らに置き、ユウタが動画配信サイトにアクセスするとファッション誌のモデルが制服に身を包んで飛んでいた。
「ユウタ。今日は授業サボらずにちゃんと受けた?」
黒髪が風になびいていた。モエは髪を片手で抑え、ユウタの隣にしゃがみこむ。
「本人が目の前にいるのに、こんな小さな画面で見ることないでしょ?」
「本人とドラマの役は別物だよ。この中の人はエチカ、君はモエ」
「ユウタはエチカとモエどっちが好き?」
モエの指が画面に触れ、エチカはトモヤに笑顔を向けたまま静止した。モエは顔をあげると、街の景色に目を細める。電車が右から左へと進んでいき、かすかにその音が聞こえ、青い空に飛行機雲が筋を引いた。
「そんなの聞くまでもない」
「エチカの方が好きなの?」
「まさか」
モエは楽しそうにアハハと笑い、脇に置いてあった袋に気づいて中をのぞきこむ。
「このパン屋さん気になってたんだ。あたしに買ってきてくれたんでしょ。あ、これこれ」
彼女が袋から取り出したのは、芥子の実がのったごく普通のアンパン。見た目は普通だが、味は絶品だ。
「食べてみたかったんだ、アンパン。日本の伝統食。アニメのヒーローにもなってるよね」
パンにかぶりついたモエは、鼻息荒く「ふんふん」とうなずいている。その仕草がおかしくてユウタはクスクスと笑った。
「モエ、満足した?」
「うん、最高においしい。ユウタの知ってる味とあたしの感じてる味が同じなのかよくわからないけど、あたしにはおいしいよ」
彼女の口元に粒あんがくっついていた。ユウタは無意識に彼女に手を伸ばしたが、そこにあるのは小豆の粒だけだ。
「モエは今日も黒髪なんだね。制服だし」
「うん。期限までもう少しあるんだ。サラサラストレートの黒髪ってニホン的でいいよね。懐古趣味のゲーム会社に感謝しなきゃ」
「緑の髪も似合ってるよ。どこに行っても目立つけど」
「あたしのやってる仕事ならあれもアリだよ」
モエはスマホ画面に触れて動画を再生した。ユウタはサンドイッチを袋から取り出して封を開ける。
「ねえ、エチカとトモヤの関係って、あたしとユウタに似てると思わない?」
モエは画面を見つめて言った。
「それはどういう意味で?」
「どういう意味だと思う?」
「エチカは、トモヤをどう思ってるのかな。トモヤはエチカが好きなんだろうけど」
「好意のようなものは感じてるよ。それが恋愛感情なのかどうかはわからない。でも、ちょっとだけ距離をおいてるんじゃないかな。だって、エチカは予感してるから。自分が消えちゃうって」
「モエも、そうなの?」
ユウタの手がパンの袋を潰し、クシャリと軽い音がした。モエは長い髪を片側に寄せ、そっと顔を近づける。唇は赤ちゃんの頬のような淡い紅色をしていた。
「ユウタ、一般的な高校生ならここで目をそらすものじゃない?」
「俺はモエに近づきたいし、触れたい」
「無理だよ」
「そう、無理なんだ。モエがアバターだってことを俺は知ってるし、俺が単なるゲームのモブキャラに過ぎないって教えてくれたのもモエだ。そう思えば少しくらい大胆になってもいい気がしてる」
モエは小さく笑い声を漏らし、ユウタは彼女の唇のありかを確認してキスをする。目を閉じると草の香りがした。
瞬きほどの時間でユウタが目を開けると、モエはじっとユウタを見つめている。照れ臭さを覚えてそらした視線は、モエの襟元からのぞく白い肌に惹きつけられた。
「やらし。ユウタどこ見てるの?」
「不可抗力だよ。モエのやってるのがエロゲーなら良かった」
「これは職業体験ゲーム。エロゲーだとしてもどうせ触れられないのに」
ふれられない、とモエは釘を刺すように口にする。ユウタはそのことに不満と不安を覚えた。
「モエは職業体験でタレントやってるんだよね。ちなみに高波の〈現実〉での仕事は何?」
「彼はセールスエンジニア」
「セールスエンジニア?」
「医療関係のシステム開発してる会社にいるんだけど、開発する人じゃなくてセールスする人。ホントはね、学校の先生になりたかったんだって」
「なれば良かったのに」
「ちょうど教員の採用が減らされた時期だったって。あたしは就職活動とかしてないからわかんないけど」
「モエはタレントになりたかったの?」
ユウタの質問にモエは「うーん」と唸った。
「あたしは自分と一番離れた場所にいる人になってみたかった。綺麗な服を着てニコニコ笑って、歌って踊るの。それで、ドラマで色んな役を演じる」
「高校生になれば良かったのに」
「学生は職業じゃないもん。それに、勉強はもうたくさん」
「俺も。ねえ、モエ。学校の外には出られないの?」
「うん。高波先生が色々試してくれてるんだけど、これまであたしが関わった場所しか行けないって。そこのフェンスから向こうは無理。行ったら……」
「行ったら?」
「たぶん不正がバレちゃうからダメだって」
「高波がそう言ったの?」
「うん」
「そっか。海、見せたかったんだけど」
「あ、あたしも海好き。撮影で何度か行ったんだよ」
モエは屈託なく笑う。ユウタは自分が彼女に何をしてあげられるのか考えたけれど、思いつくのはできないことばかりだった。
ニャアと鳴き声がして顔をあげると、塗装の剥げたフェンスの上を黒猫がのんびり歩いていた。二人を見ると草むらへ降り、モエはそろりそろりとフェンスに近づいて「なぁん」と猫なで声を出す。
モエと猫との間で「にゃあ」「ニャア」というやりとりが何往復か続き、ユウタはサンドイッチを半分にちぎってフェンスの向こう側に手を伸ばした。
「ユウタ、ずるい」
「おびき寄せてみるから、ちょっと待って」
人馴れしているのか、猫は恐れることなくユウタの手元に近づいて匂いを嗅いだ。その仕草がモエに似ていて、ユウタが気を緩めた隙に猫はサンドイッチを奪い、ハムだけ取り出して食べてしまう。よく見ると、首元に紺色のリボンが付いている。
「あたしも触りたかったのに」
「ごめん。もうちょっと近づいて来たら捕まえられると思ったんだ」
モエの落胆を知ってか知らずか、ペロリと口元を舐めた黒猫は優雅にフェンスを乗り越えてこちら側にやって来た。ユウタの手の匂いを嗅ぎ、顔を擦り付けてくる。
モエは残っていたサンドイッチを猫の鼻先に近づけ、ハムをくわえた隙に抱き上げようとした。すると、するりと身を翻してフェンスに足をかける。
「あっ」
モエが反射的に手を伸ばし、その手はフェンスを越え――……
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