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■Logout1

 ベッドに横たわる彼女の唇には穏やかな笑みがあった。下ろしたブラインドの隙間をぬって日差しがシーツに縞模様をつくり、医師の白衣も縞々になっている。


 彼女の鼓動は時おり乱れながら、それでもどうにか一定のリズムに戻った。無機質な電子音、廊下を行き交うスリッパ、キャスターを引き摺る音、僕の座る椅子が軋む音。そして、風の音が聞こえた。


 簡易スピーカーを通して聴こえる風音は雑音にしか感じられない。目の前で眠る彼女は、あの世界でこの風音を心地よく聞いているのだろうか。


 学校は森の近くにある。部室裏は緑の香りが充満し、空気は澄んで、日差しは心地いい。


『ユウタ』


 スピーカーから〈モエ〉の声がした。と同時に彼女の口元がわずかに動いたようだった。


 ヘルメット型のゲーム端末を被った彼女は、唇だけが辛うじて見えている。そして、ゲームの世界で自由に手足を動かしている。現実には体が動かなくても、目を閉じていても問題ない。ただ考えるだけ。風が吹いているのは、ゲーム会社が作り出した架空の世界。


 僕はシーツに手を入れて彼女の手を握りしめた。


『俺はモエのその髪好きだよ』


 ゲーム端末に接続したディスプレイにはモエの視界が映し出され、そこにユウタの姿がある。彼が存在しているのは脳波連動型のフルダイブ職業体験ゲーム『SoL〈ソル〉』の中だけだ。


 彼女は自分のアバターを〈モエ〉と名付け、深緑の髪と白い肌を選び、プレイエリアに〈日本〉を指定した。


 一度SoLでプレイすると、脳はそれを現実と認識する。あの世界の全ては生々しく五感を刺激し、彼女がユウタに触れたいと願ったのも仕方のないことだった。彼女は今いるこの現実で僕を感じることができないのだから。


『せっかく来てるんだから、あたしを見て』


 画面に深い緑色をしたモエの髪が映った。 


『ユウタ、一般的な高校生ならここで目をそらすものじゃない?』


 モエが着ているのは初期設定にある白くシンプルなローブ。風が乱した裾の内側にユウタは何を見ているのか。ディスプレイに映るその顔を見て、強制終了したい衝動に駆られる。


『そうかも。でも、俺はモエに近づきたいし、触れたい』


『……触れて』


 スピーカーの音にノイズが混じった。心拍を示す電子音が速まり、医師が彼女の首に触れる。最期にSoLの世界を彼女に見せてあげたいと医師に頼み込んだのは僕だった。それがきっと彼女の願いだから。


『ユウタ』


「ユ……ウ……」


 モエの声に掠れた彼女の声が重なり、医師が酸素量を上げた。


 僕はまだ覚悟ができていない。彼女のいない世界に取り残されてしまうということを、僕の心は拒否し続けている。なぜ今、彼女の目に映るのが僕ではないのか。


 彼女の名を呼ぶ僕の声が虚しく部屋に響き、映像は静止し、モニターの数字がゼロになった。ディスプレイには『error』表示が点滅し、その文字の奥にユウタの唇がある。ユウタの露出した粘膜は血の色を透かした淡い紅色をしていた。


「十五時九分」


 医師が死亡時刻を告げた。ユウタが彼女の死を知ることはなく、僕が愛した彼女の肉体は僕の腕の中にある。――では、彼女の意識は?


 彼女がSoLの世界で目にしたもの、触れたもの、香り。〈モエ〉のデータはあるけれど、彼女の意識はもうどこにもない。


 僕は彼女の代わりにSoLからログアウトし、ディスプレイからユウタの顔が消えた。コードを引き抜き、看護師に手伝ってもらってヘルメットを脱がせ、ようやく彼女の顔を目にする。


 モエとは似ても似つかないその姿が僕は愛しくてたまらない。と同時に、これから先SoLにログインしても彼女の意識がそこにないことが苦しかった。僕は彼女の意識を持った〈モエ〉に触れたことがない。そうしようと思えばできたはずなのに、そうしなかった。最善の道を選んでいるつもりで、いつも後悔ばかりだ。


 彼女の目尻に涙のあとを見つけた。彼女は何を思って泣いたのか、思考の向かう先はあの世界で、僕の意識は彼女とともにそこに囚われる。すべてが繊細で、鮮やかな色をしたSoLの世界に。


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