▶20XX/06/05(5)
教室の自分の席でユウタは高波の後ろ姿をながめていた。
高波がアバターならば彼の容姿が整っているのも女子にモテるのも納得できる。数学教師としてプレイする高波にとってこの世界はゲームで、ログアウトすれば恋人が待っていて、そこに彼の日常がある。高波が単なる娯楽としてこの世界に来ているのか、それともモエのためにゲームをしているのか、本人に聞いてみたいけれどさすがにそれは無理だった。
高波の目を盗んで振り返ったトウカが、ユウタの机に小さな紙を置いた。そこにはこんなことが書かれている。
『もしかして彼女できた? 体育サボって屋上いたよね。一緒にいたのって一年?』
トウカに見られたのはどの瞬間だろう。ルーズリーフの端を四角くちぎり、ユウタはトウカに宛ててメッセージを書いた。椅子を蹴って合図を送ったときチョークの音が途切れ、トウカは振り返らずに背筋を伸ばす。
高波がカンカンと音をさせて黒板の文字『i』を指した。
「アイがある部分を虚部と言います」
高波の声を、ユウタの脳は誤変換する。――愛がある部分は、虚部。
クラスの半分くらいが黒板の文字を見つめ、残りの半分は下を向いていた。ユウタはルーズリーフの端に『ゲームを終了する』と書いてペン先でタップしてみたが、当然ながらログアウトできない。
高波が説明するiがこの世界で何の役に立っているかわからないけれど、数学が高波の世界と共通しているのは確かなようだった。iを理解すれば、この世界を包摂する彼らの世界のことも理解できるだろうか。モエとの間にある隔たりを取り払えるだろうか。
トウカがタイミングを見計らってサッと振り返り、ユウタはメモ書きを渡した。そこにはこう書かれている。
『人ちがい 土手でアンパン食ってねてた』
トウカは疑わしげにユウタを一瞥し、背を向ける。その背中を見つめながら、ユウタは屋上でのことを思い返した。
「もうそろそろ帰ろうかな。疲れちゃった」
モエはそう言って屋上のコンクリートに寝転がった。傍で見下ろすユウタに「またね」と微笑んで目を閉じる。
「一人にならないとログアウトできないの」
「モエ、今度はいつ会える?」
返事はなく、ユウタは非常階段の踊り場まで降り、十数えて屋上にあがるとモエの姿は消えていた。
ユウタはモエがいた場所に寝転がってしばらくぼんやりし、そのあと教室には戻らず、自転車に乗ってカメレオンベーカリーへ向かった。アンパンを買って土手で食べ、学校に戻ったのは午後の授業が始まる直前だ。教室に入ってきた高波が「あとで職員室に」とユウタに耳打ちし、いつも通り授業が始まったのだった。
スリッパを擦る音が机の間を移動している。顔を上げると高波と目が合ったが、ユウタが顔をそむけずにいると彼は真顔のままわずかに視線を移動した。そして不意に笑みを浮かべる。トウカが高波に向かって小さく手招きをしていた。
「センセ。ここはこれでいいんですか」
トウカの声を聞きながら、ユウタはノートの端にiと書き、四角で囲んだ。愛の四角関係かもね、と頭の中でモエに話しかける。
ユウタの心をかき乱す彼女はこの世界に存在しない。思考と戯れてばかりいるユウタは自分に実体があることをもどかしく感じることがあったけれど、本当はいつもあたたかな腕で抱きしめられることを求めているのだ。
高波がトウカの席から離れ、ユウタはからかうつもりで前の椅子を蹴った。トウカは反応することなく、ノートに鉛筆を走らせている。
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