▶20XX/06/05(4)

 ユウタはグラウンドから聞こえるホイッスルの音を聞いていた。一時間目は体育。耳に届くのはクラスメイトの掛け声、ホイッスルを鳴らすのは体育教師のタッペイ。


「ユウタ、一時間目サボっちゃったね。高波先生になんて言い訳するの?」


「適当に言うよ。ねえ、モエは高波のことなんて呼ぶの?」


「内緒」


「じゃあ、モエの本当の名前は? モエじゃないよね」


「あたしはあたし。この世界のあたしはモエ」


 ユウタが見つめるとモエはふいと視線をそらした。


 実際のモエはどんな顔で、どんな髪型をして、瞳は何色なのか。現実の彼女とのキスはどんな感触なのか。ユウタはモエの住む〈現実〉に想いを馳せる。


 ――ベッドに横たわるモエ。酸素マスク、点滴、バイタルチェックに来た看護師が何か記録し、ベッド脇には安っぽいスツール。そこに座る男は恋人。目を閉じたモエの青白い頬に、高波の手が触れる。


 ユウタは首を振って妄想をかき消した。


「モエの現実が知りたい。俺がいるこの場所、この世界、俺自身も幻なんだよね? ゲームを作ったやつの気まぐれで簡単に消えてしまう」


「そんなことないよ。むしろ消えるのはあたし。たぶん、そんなに先の話じゃない。あたしの現実とユウタの現実は違うけど、でも同じなんだよ。いつかあたしもユウタもいなくなっちゃう」


 モエはかすかにほほ笑んだ。


「あたしね、いつも想像するの。本当は、神様も世界を好きなようにできないんじゃないかって」


「神様なのに」


「そう、神様なのに。あたしは神様のほっぺにできたニキビみたいなもの。何かの不具合でポツンとできちゃって、そのうちなくなる。なんてね。ニキビなんてないほうがいいのに、勝手にできちゃうんだ」


「よくわからないけど、モエは神様の気まぐれで消えちゃったり、生まれたり、死んだりするわけじゃないってこと?」


「そうだといいなって思ってるだけ。神様でもどうしようもないんだって思った方が、諦めがつくから」


「諦めるとか、言うなよ」


「諦めなかったんだよ、ずっと、長い間」


 モエの寂しげだけどさっぱりした表情がユウタの胸を詰まらせた。


 ユウタは他人に諦めるなと言えるような生き方をしていない。いつも傷つかないように先回りして、モエのことも今日会えなかったら諦めるつもりでいたのだ。


「もしモエの言う通りだとして、この世界がゲームなら制作者がいるんだよね。この世界を書き換えられる神様がいるってこと。プレイヤーのモエは無理でも、NPCの俺はパッと消されるかもしれない」


 モエは首を振ってユウタの推測を否定した。 


「このゲームはちょっと特殊で、ユウタが最初からいなかった世界を作ることはできても、ユウタが存在するこの世界を消すことはできないと思う。両方存在することになるの。データは時系列に沿って繋がってるから書き換えはできないんだって。あ、これは高波先生のウケウリね」


「パラレルワールドみたいな?」


「うん、それ。そもそも、このゲームは研究のために開発されたものらしくて、実際に人口予測や環境予測とかにも使われてるらしいの。スポンサーに名乗りを挙げたのがゲーム開発やってる会社だったから、こんなふうに入り込むことができるようになったみたい。職業体験ゲームとしてね」


「じゃあ、俺が突然ここからいなくなったりはしない?」


「たぶんね。わかんないけど」


「でも、この世界がゲームだなんて知りたくなかった」


 強い口調で言うと、そっか、とモエはため息をついた。


 自分が頑なになるのは高波への嫉妬かもしれないとユウタは思う。自分が惹かれているのがタレントのモエなのか、ドラマの中のエチカなのか、腕の中にいるアバターか、そんなことをぐるぐると考えてしまう。本当のモエはそのどれでもなく〈現実〉の世界でベッドに臥せる顔も知らない女だというのに。


「ユウタが知らない方が良かったって言うなら、そうしてもいいよ。でも、あたしはもう君には会いに来ない」


 モエはまっすぐユウタを見つめた。


「それは、モエがもうこの学校に来ることはないってこと?」


 モエは首を振り、フェンスに手をかけるとグラウンドをながめる。


「学校はあたしの憧れ。だからここにはまた来る」


「学校には来るけど、俺には会わないってこと?」


「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。やり直すの。ユウタにこの世界のことを喋っちゃう前に戻って、そこからリプレイする。あたしは何も喋らない。ユウタにあたしがアバターだってバレないようにする」


「いま一緒にいたこの時間はリセットされるってこと? 俺の記憶はなくなるの?」


「君の記憶は残るし、あたしと一緒にいた時間も消えないよ。ただ、この後に続く世界にあたしは来ないってこと。さっき言ったでしょ、パラレルワールド。このゲームにはいくつものパラレルワールドが存在してるの」


 ユウタの口からは「パラレルワールド」と、オウム返しの言葉が漏れた。


「非常階段の一番下で、あたしはこの世界の秘密をユウタに喋った。あの時に戻って、そこから世界は分岐する。……なんて偉そうに言ってるけど、本当はあたしもよくわかってないんだ。それに、ゲームの時間は一方向にしか進まなくて、巻き戻してリプレイするっていうのは基本できないの。でも、高波センセイが色々試してるみたいなんだ。本当はダメなんだけど」


「教師のくせに、犯罪じゃないの?」


「だから内緒。彼が色々やってくれるのは全部あたしのため。もし上手くリプレイできたら彼のおかげ。あたしはここではない別の世界線に行って、そこで君とは違う別のユウタに会う。そのユウタにはこの世界の真実は話さない」


「俺は取り残されるの? 記憶を残されたまま?」


「ひどい女だって思っていいよ。でも、あたしはユウタに会いたいし、ユウタがこの世界の真実を知らない方が良いっていうならそれも叶えたい」


「もし、リプレイに失敗したら?」


「どうなるんだろう。ユウタの記憶がなくなっちゃうかもしれないし、見つかったら登録抹消されちゃうかも。わからないけど」


「わからないことだらけだね」


 ユウタがつぶやくと、「それが普通でしょ」とモエは悪戯っぽい目で彼を見た。


 ユウタは〈この世界がゲームだと知らないユウタ〉を想像し、そのユウタの前にモエが現れるシーンを思い描く。嫉妬と同時に同情心を抱いたのは、そのユウタもモエに触れることができないからだ。


「ねえ、モエ。モエがアバターだってことを隠しても、俺はいつかきっと知ることになると思う。モエがいくら気をつけても、俺は」


「俺は?」


「こうしたいと思うから」


 手を伸ばし、ユウタはモエの手首を掴んだ。


「モエに、触れたい」


「生徒と教師と、不法侵入者の三角関係?」


 はぐらかそうとしているのか、モエはクスッと笑う。


「モエ。この世界での恋人は募集してないの? それとももういる? モエはモテそうだもんね」


 冗談めかして聞いたけど、モエはその質問には答えなかった。


「集合!」


 タッペイの声がかすかに聞こえ、モエはグラウンドに目をやった。ユウタは小さな人影の中にトウカの後ろ姿を見つける。


「ねえ、あたしもユウタに触れたいよ」


「俺に? 高波じゃなくて」


「高波先生には、触らない」


「恋人なのに」


「彼が待ってる。だからあたしは現実に帰るの。高波先生は、彼じゃない」


 ユウタには彼女が怯えているように見えた。モエはあとどれだけの時間を〈彼〉と過ごすことができるのか。幽霊のエチカのように、モエは自分が世界からいなくなることを覚悟しているようだった。


 ドラマの中でトモヤとエチカが互いに触れ合うことができないように、モエとユウタも触れ合うことはできず、そしてエチカもモエもいつか消えてしまう。トモヤの恋も、ユウタの恋も報われることはないのだ。


「モエ、俺が待ってる。だから、またここに来て。モエのことをアバターだって知ってる、この世界がゲームだって知ってる俺のところに」


「うん」


 モエの潤んだ目を見て、NPCの自分にはやはり意思などないのだとユウタは思った。傷つくだけだと分かっているのに、モエに惹かれるのをどうすることもできない。きっと、この世界に生まれた時からモエに惹かれるよう設計されていたのだ。この気持ちがバグだとしても、ユウタ自身がそれを修正することはできない。


 見上げた空を飛行機が過ぎっていった。あの飛行機はどこに向かうのか。何人の人間が乗っていて、それはどんな素性の人たちで、何に喜び、何に悩み、いつ生まれていつ死ぬのか。


 ユウタは手をかざし、視界から飛行機を消した。隣で、モエが同じように手をかざしていた。

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