▶20XX/06/05(3)

「ユウタ」


 モエの声が間近で聞こえ、草の香りが鼻先をかすめた。目を開けると何かで陽光が遮られていたが、すぐにそれがモエの顔だと気づく。


「なんちゃってキス」


 彼女は照れ笑いを浮かべたが、そのキスはまったくの無感触で本当にしたのかどうかもわからなかった。それはつまり妄想と一緒だ。ふと、幽霊のエチカが頭を過った。


 エチカはトモヤに触れることができないし、トモヤもエチカに触れられない。モエがエチカと違うのは、空を飛んだり壁をすり抜けたりできそうにないこと。


 モエはユウタの隣に座ると彼の肩に頭をのせた。長い黒髪がユウタのシャツを滑り落ちていく。


「モエは、アバター?」


「うん。あたしがちゃんとした手続きでログインしてれば、体温も匂いも感じられる。触れるし、キスもできる」


「キスはしたんだよね」


「うん。したよ」


 ユウタの頭には疑問が浮かんだ。


 モエがアバターならユウタ自身は何者なのか。その答えはモエが知っているのだろうし、ユウタ自身も想像がついていた。けれど、口にする勇気はなかった。口にしてしまえば自分の心がガラガラと音をたてて崩壊しそうだったから。


 空には薄い雲がかかり、視界を一羽の鳥が横切って、ユウタはトウカと一緒に校舎裏に来たときのことを思い出した。二年になってすぐの生物の授業で、植物採取のため二人で校内を回ったのだ。


 あのとき「つきあっちゃう?」とトウカは軽い口調で言って、ユウタが返事をする前に「冗談だし」と背を向けた。ユウタはやりきれない気持ちで空を見上げ、その時も今みたいに一羽の鳥が飛んでいたのだ。


 喉元まで出かかっていた「つきあおうか」という言葉を、ユウタは未だに飲み込んだままにしている。そして今、モエから世界の秘密を聞かされ、そこから目を背けるように自転車で二人乗りしたときのトウカの体温を思い出している。


「ユウタ」


 モエが差し出した手は空気みたいだった。


「意味が分からないよ」


「分からなくても、そういうものなの。あたし限定で感覚器官が麻痺してると思えば納得できない?」


「モエは何も感じないの? 俺以外のものはちゃんと触れるの?」


「ゲームの登録情報を元に、あたしと接触する可能性が認められる人間には触れられるっぽい。蓋然性がどうとかって言ってた。あとはプレイヤー同士ならOKみたい」


「プレイヤー同士?」


「うん。高波先生とかね」


「高波が?」


「彼とはこっちの世界で会ってないから、彼に本当に触れるのかよくわからないんだけど」


 頭がクラクラした。モエは非常階段をゆっくり上り、ユウタは彼女の手を(見せかけだけ)握った状態で後に続く。二階、三階、四階と上がるにつれ視界がひらけていった。


「ねえ、モエ。高波とはどんな関係?」


「コイビト」


 繋いだ手が離れたことに気づかないまま、モエはユウタを置いて階段を上っていく。屋上にたどり着いてようやくユウタがいないことを知り、


「ユウタ、ショックだった?」


 子どもを諭すように声をかけた。ユウタは踊り場に立ちすくんでいる。


「混乱してる。この世界でモエが高波と接触する可能性はあるけど、俺と接触する可能性はないってことだよね。可能性がない俺にわざわざ会いに来たのはどうして?」


「可能性って、信じることだって思う。ルールの外に出れば、可能性もゼロじゃなくなるかもしれない」


 信じることほど虚しく、期待することほど愚かなことはない。ユウタはうつむいて吐息を漏らした。


「実験用モルモットって、こんな気分かも」


 高波とモエが恋人なら、ユウタとのキスは好奇心からの行動に過ぎない。触れることのできない相手にキスをしたら――という、ただの接触実験だ。


 重い体を引きずるようにユウタは階段を上った。足先から伸びる影が、離れることなくついて来るのがなぜか鬱陶しく感じられる。


 モエの言葉を信じるなら、ユウタは架空の世界の住人だ。プレイヤーなら〈現実〉の記憶があるはずだが、ユウタにはこの世界の記憶しかなかった。モエにとってユウタはNPCノンプレイヤーキャラクターで、プレイヤーの言動に反応するだけの存在。


 絵画の上に人形を置いてままごとをするようなものかもしれない。ユウタは絵に描かれた人間で、モエは絵画の上に置かれた人形。モエの世界とユウタの世界にはそれくらいの隔たりがある。


 ユウタがモエの前に立つと、彼女は悲しげに目を潤ませていた。


「実験用モルモットはあたしの方だよ」


 ユウタの言葉はモエの耳に届いていたらしい。 


「あたしはずっとベッドに寝たきりで、色んな機械に繋がれて、朝も昼も夜も何種類も薬飲まされるの」


「このゲームのために?」


「そうじゃない。あたし病気なの。小さい頃からずっと病院暮らしで、家にいたことなんてほとんどない。新しい治療法とか薬とか、うんざりするほど試したのに、今はもうベッドから一歩も動けなくなっちゃった。最悪だよ」


 吐き捨てるように言うと、モエは突然駆け出した。そしてフェンス際で振り返り、ユウタに向かって大きく手を振る。


「こっちが現実ならいいのに!」


 誰かに見つかってしまうのではないかと心配したけれど、彼女は気に留めず全身で笑う。ユウタも思わず駆け出し、気持ちの欲するままに彼女を抱きしめた。 


「全部、嘘ならいいのに。モエはちょっとアブナイ女で、高波を頼って学校に忍び込んで、俺に会いに来た。そうだったらいいのに」


「そうだよね。ほんと、生きてるとままならないことばっかり。自分の意志なんてない。まわりのみんなは優しいけど、比べちゃうんだ。みんなにできることがあたしにはできない。あたしはあたしって励ましてくれるけど、本当にわかってくれることなんてない。体が動かないのはあたしのせいじゃないけど、でもそれがあたし。あたしって何だろう。たまに、神様があたしを実験台にしてるんじゃないかって思う。神様が作ったゲームの中で、それを現実だと思い込まされてるだけなんじゃないかって。でも、それでいいんだ。――世界のすべてを知らなくても、あたしはあたし。それはきっと、車の構造を知らなくても運転できるっていうのと同じ。DNAがどんな塩基配列になっているか知らなくても生きてるのと同じ。理屈は分からなくても、あたしがこうしてユウタの目の前にいるのとも、たぶん同じ」


 モエの言葉はエチカの台詞を真似たものだった。


「俺は何を信じたらいい?」


「世界を」


「壮大だね」


「壮大なもののほうがいいのよ。信頼が揺らいでもどこかで吸収されるから」



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