▶20XX/06/05(6)

「ちょっと職員室で話そうか」


 数学の授業のあと、ユウタは高波に連れられて教室を出た。後ろ頭を見上げる顎の角度が上向きなのを悔しく思いながら、大人しく後ろをついて行く。薄い水色のストライプのシャツを着たアバターからは、かすかに柑橘の香りがした。


 職員室に入ると高波は自分の席に座り、ユウタを見上げて指でコツコツと机を叩く。


「ユウタ、何かあった?」


 その瞬間、苛立ちがユウタの胸の中で弾けた。アバターのくせに。モエの恋人のくせに。


「家のことでちょっと」


 ユウタは愛想笑いではぐらかしたつもりだったが、隠しきれない本心がぶっきらぼうな言い方になった。


 ユウタの家の事情は一部で噂になっていて、母親が家を出ていったことは高波も知っている。少し前にもその件で呼び出されたが、根掘り葉掘り聞くわけでもなく、ユウタはその淡白さに好感を覚えたのだった。しかし、高波がアバターならあの態度の意味は変わってくる。


 不意に、母親もアバターではないかという考えがユウタの頭を過ぎり、サッと血の気が引いた。


 職業体験ゲームのアバターなら、職業と無関係の息子に関心がなくてもおかしくない。家をあけてばかりだったのも納得がいく。父親はNPCで、自分と同じようにアバターに惚れたのだろうか。でも、職業体験でアバターが子どもを産むなんてあり得ない。


「そうか。家のことか」


 高波の声でユウタの思考は途切れた。


「先生とは関係ないことなので放っておいて下さい」


「そう言うな。僕が口出しすることじゃないのは分かってるけど、話くらい聞くから」


 高波は励ますようにユウタの腕を掴んだ。モエには触れられないのに、高波の手を知覚するのが腹立たしい。振り払いたい衝動を我慢していると、予鈴が鳴って高波の手が離れた。


「次の授業は世界史だっけ。遅れるなよ、ユウタ」


 高波は椅子を回し、ユウタが「先生」と呼びかけると顔だけこちらに向ける。


「先生、歴史を勉強する意味って何ですか?」(どうせ、歴史も過去もゲームの設定なのに)


「ユウタは歴史に興味ない?」


「それが本当にあったことなら知りたいです。歴史って、本当にあったことなんですか?」


「あったとされていること、かな。新たな発見で史実が覆されることもあるし。なんにせよ、昔を知ることは大事だよ。温故知新。過ちを繰り返さないように過去から学ぶんだ」


「過ちって、後の人間がそう決めつけたものでしょ」


 ユウタの言葉に高波は肩をすくめ、腕時計をチラと見た。


「これ以上は世界史の先生に聞いて。ほら、急がないと。午前サボり、午後も遅刻じゃマズイだろ」


 会話を打ち切るように高波は椅子から立ち上がった。


 本鈴が鳴り始め、高波は「廊下は走らずに急げ」と念を押して第一資料室のドアを開ける。ログアウトするのかもしれないと閃き、ユウタは心の中で十数えてから資料室のドアを開けた。


「先生?」


 返事はなく、書架の間をくまなく歩いても担任の姿はなかった。


 高波やモエがいなくても世界は続いている。それは彼らの他にもプレイヤーがいるからなのか、それとも、この世界においてゲーム要素は副産物で主目的が研究だからか。


 プレイヤーがいなくなっても思考し続ける自分の脳が、ユウタには奇妙に思えた。自分がこうして廊下を歩いているのも、実際にはコンピューターの中で電気信号が流れているだけのこと。そう考えると真面目に授業を受けるのがバカバカしくなり、遠回りして教室に向かった。


「遅刻!」


 鋭い声を飛ばしてきたのは胡麻塩頭の中年教師。


「すいません。担任に呼び出されてました」


「なら仕方ないな。早く席につけ」


「はい」


 トウカが「おかえり」と囁き、ユウタは「ただいま」と返す。モエと高波の間でも同じようなやりとりがあるのかもしれない。


『おかえり』『ただいま』


 ユウタの想像は止まらない。ベッドに上半身を起こしたモエが、VRゴーグルを外した高波に声をかける。


『お仕事お疲れさま。仕事って言ってもゲームだけどね』


『そっちこそ、疲れてない?』


『平気。あなたに会うために現実に帰ってきたのよ』 


 二人が重ねる唇はユウタとモエのキスのような「なんちゃって」ではなく互いの体温を伝えあう。妄想の中の二人の姿はモエと高波のままで、容姿端麗な二人のキスシーンはどこかリアリティがなかった。


 ユウタは小さくため息をつき、教科書のパルテノン神殿をながめた。紀元前に建てられたこの世界遺産は、彼らの〈現実〉にもあるのだろうか。ゲーム設計者が作ったのか、この世界のNPCが勝手に建造したのか。


 パルテノン神殿のように、このゲームにはいつまでもユウタのデータが残るのかもしれない。不思議なのはモエや高波のようなプレイヤーの存在だった。彼らがログアウトしてもこうして時間は進み、彼らはこの世界で連続して存在していない。ログインすればそこからスタートし、ログアウトすれば消える。


 明日モエが会いに来たとしても、それは一週間後の彼女かもしれないし一年後の彼女かもしれない。一週間後にモエが現れても、ついさっきログアウトした直後にログインしたという可能性だってありうる。たとえモエがずっと現れなかったとしても、ユウタは死ぬまでモエを待ち続ける気がした。


 教室にはチョークの音が響き、生徒の三割がコクリコクリと船を漕いでいる。ユウタは机の陰でスマホを操作し、音を消してドラマを再生した。


 トモヤがエチカに手を伸ばし、その手がエチカの体をすり抜ける。そして彼はじっと自分の手を見つめる。


『なにがちがうんだろう。ぼくとエチカは』


『からだがあるか、ないか。かな?』


 音声がなくてもユウタは台詞を覚えていた。トモヤとエチカの違いが体の有無ならば、彼ら二人に共通するものはなんだろう。


「……ウタ、ユウタ」


 トウカの声で顔を上げると、いつの間にか授業は終わっていた。すでに教師の姿はなく、トウカが怪訝そうに首をかしげている。


「ユウタ、やっぱり今日変だよ。もしかして彼女できたんじゃなくて、フラれた?」


 ユウタが口ごもると、傍にいたクラスメイトが反応した。


「ユウタ君が? じゃあ、わたし立候補」


「ダメだよ。ユウタはみんなのユウタなんだから」


「こらこら。傷心のユウタをからかわないで。ね、ユウタ」


 トウカがクラスメイトを諌める。


「いや、フラれてないから」


「じゃあ、上手くいったの?」


「だから、そういうんじゃないって。からかってるのはお前だろ、トウカ」


 友人たちは「なあんだ」と期待はずれの顔で帰っていった。女子二人が「センセのとこ行ってみよ」とトウカに声をかけたが、彼女は「ごめん」と手を合わせる。


「今日用事あるから、あたし先に帰んなきゃ」


「そっか。じゃあ、あたしたちがしっかり聞いといてあげる」


 思わせぶりな笑みを交わし、女子二人はパタパタと廊下を駆けていった。


「ユウタ、帰ろっか」


「用事あるんだろ。先帰っていいよ」


「土手まででいいから送ってよ。自転車で」


「俺は無料タクシーではありません」


「とか言いながら送ってくれるくせに」


 ユウタの返事を待たず、トウカは軽い足どりで教室を出て行く。帰る前に屋上をのぞいてみるつもりでいたユウタは、ため息を吐いてトウカの後を追った。


 トウカは自転車の荷台に座ってユウタの体に腕を回し、ユウタはその手がモゾモゾと動くのを腹のあたりで感じた。もしこれがモエだったらと想像したが、それはトウカの声で遮られる。


「ユウタ、屋上のあの子に見られたらヤバいって考えてる?」


「まさか」


 ユウタはペダルを踏み込んだ。トウカはそれ以上〝あの子〟の話題には触れず、クラスメイトを見かけるたびに「バイバーイ」と手を振る以外は黙ってユウタにしがみついていた。

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