▶20XX/05/29(3)
第一資料室にはびっしりと書架が並び、奥の窓から淡い光が射し込んでいた。埃とインクの匂いに誘われ足を踏み入れると、床がギシリと音をたてる。誰もいないはずの部屋でかすかに空気が揺らぎ、ユウタは足を止めた。
ギシリ、ギシリと軋む音はやまず、書架の奥に影が揺らぐ。
「誰?」
その声にユウタは息をのんだ。
「あの、担任に言われて資料を取りに来ました。暗いですよね。電気点けます」
「ダメ!」
スイッチにかけた手を慌てて引っ込めたが、指先が震えているのに気づいてこぶしを握りしめる。声は若い女性のもので、ユウタにはその声に聞き覚えがあった。
「ごめんなさい。内緒で入ってしまったから見つかると困るの」
深緑色の髪が揺れ、土手の草原を思い出す。
「もしかして、撮影で?」
「うん、内緒ね。怒られるから誰にも言わないで」
「言わないよ。モエが来てるなんて言ったらパニックになる」
沈黙に彼女の警戒心を察し、ユウタは慌ててフォローした。
「本当に誰にも言わない。でも、その髪でウロウロしてたらすぐバレちゃうよ」
「あっ、そっか。そうだよね」
ユウタからは緑の輪郭しか見えなかったけれど、彼女は小さく笑ったようだった。
深緑の長い髪とアーモンド形をした魅力的な目を持つモデル出身の売れっ子タレント、モエ。ここ最近、メディアで彼女を見かけない日はない。
「ねえ、君は高波先生のクラス?」
「えっ?」
「……アッ、変なこと聞いちゃった。今の話は忘れて。それより君、何か取りに来たのよね? 早くしないとホームルーム始まっちゃうよ」
モエの諭すような口調にプライドを傷つけられ、ユウタは一歩足を踏み出した。
「ねえ、遅刻しちゃうよ?」
「高波の許可はとってある。それより、モエは高波の知り合い?」
一気に距離を詰めればモエが逃げてしまいそうで、ユウタは足音を忍ばせてゆっくりモエに近づいた。テレビで見るより幼い顔つきに、冬用のブレザーと襟元にリボン。ヒールのない靴を履いていてもユウタより目線が高かった。
「呼び捨てはダメだよ。高波センセイ、でしょ?」
「モエは高波センセイを知ってるの?」
「内緒」
「内緒になってないよ」
「知り合いといえば知り合いだけど、会ったことはないかな」
「ネットで知り合ったとか?」
「その逆。リアルの彼は知ってる」
モエはあいまいなやりとりでユウタをはぐらかし、反応を楽しんでいるようだった。そのとき予鈴が鳴り、モエが音源を探して部屋を見回す。スピーカーのない資料室は時間の流れから取り残されたようだ。
本当に時間が止まればいいのに――ユウタが願ったとき、モエが顔をのぞきこんできた。
「また、会いに来ようかな」
「誰に?」
「君にって言ってほしい?」
「高波に? モエは高波に会いに来たの?」
モエは視線をそらすと不安げにドアに目をやった。その行動が、ユウタには高波を避けたがっているように見える。
「俺に会いに来てくれるのなら、いつでも歓迎だけど」
軽口を装ってユウタは本心を口にした。が、誰からも愛される人気タレントのモエに、母親にすら見捨てられた自分が何を言っているのかと自嘲の笑みが口元に浮かぶ。きっと、数分後には自分のことなど忘れられているのだ。
「ねえ、君。名前は何ていうの? あたしはもうバレてるけどモエ」
「俺? 俺は……」
ユウタ、と名乗ろうとしたとき、廊下からその名を呼ぶ声がし、スリッパを擦る音が近づいて来た。
「ユウタ、また会いに来るね」
慌てた様子で背を向けるモエに、ユウタは咄嗟に手を伸ばした。が、掴んだつもりの腕はユウタの手をすり抜け、モエはあっという間に書架の奥に姿を消す。床の軋みが止まり、埃っぽい空気とインクの匂いだけが部屋に残った。
「ユウタ、早くしないとホームルーム始まるぞ」
戸口に高波が立っていた。出席簿を脇に抱え、不思議そうに首をかしげている。
「どうした? 幽霊でも見たのか?」
ユウタは急に現実に引き戻されたような感覚になり、モエと過ごした数分間は夢でも見ていたのではと思った。それか、いつもの妄想。
「ほら、ぼうっとしてないで行くぞ」
ユウタはドア脇のダンボール箱を胸の前に抱え、横目で担任の表情をうかがった。
「せんせ……」
「ん?」
「いや、なんでもないです」
内緒ね、という彼女の言葉を思い出してユウタは口をつぐんだ。言葉にしてしまえばすべてが失われてしまいそうで、願掛けでもするようにグッと唇を引き結ぶ。
「ユウタ、何か悩んでることがあったらいつでも相談にのるよ」
担任からこんなふうに声をかけられるのは二度目だ。ユウタは前回と同じように「大丈夫です」と愛想笑いを返し、高波も前と同じように寂し気な笑みを浮かべる。
教室の自分の席に座ると、前の席のトウカが振り返って「撮影見えた?」と聞いてきた。ユウタが肩をすくめると、彼女も同じように肩をすくめる。
「起立」
ふと、シャツの袖口のボタンに深緑の髪が一本絡まっているのを見つけた。
「礼」
指でつまもうとすると、その髪はどこかへ消えて見えなくなる。
「着席」
期待しない。自分に言い聞かせたけれど、モエに会いたいという気持ちは日を追うごとに膨らんでいった。
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