▶20XX/05/29(2)
「あっ、ユウタ。シャツに口紅ついちゃった」
「マジ?」
「ごめん。あとでリムーバーあげるから」
高校はもう目の前だった。正門のまわりには撮影の噂を聞きつけたのか他校の学生服と私服姿の男女がたむろし、彼らと押し問答しているのは生活指導の体育教師タッペイ。トウカを荷台に乗せたまま、ユウタは自転車でその脇をすり抜けた。
「二人乗り、降りろー!」
野太い声が追いかけて、ユウタは笑いながらラストスパートをかけた。グラウンドの隅にはトラックが何台かあり、部外者らしい姿も見える。
「タッペイ怒ってたよね」
駐輪場に自転車をとめて鞄をトウカに渡すと、彼女は正門を見て笑っていた。野次馬はさらに増えて、大柄なタッペイが埋もれて見えなくなっている。
「俺たちのことなんてかまってられないよ」
「先生も大変だねー」
同情しているとは思えない口ぶりで言い、トウカは騒ぎの原因に目をやった。西棟校舎と東棟校舎をつなぐ渡り廊下は屋根だけの簡易なもので、その奥の中庭は筒抜け。中庭に面した西棟校舎の一角に生徒が群がっている。一年の教室あたりだ。
「ねえ、ユウタ。撮影見に行ってみる?」
「トウカが行きたいなら……」
「あっ!やっぱり見に行くのやめにする」
トウカは唐突に反対方向へと駆け出した。彼女の向かう先に高波の姿があり、向こうも手に持ったバインダーを振って応える。
「おはよう」
「おはよー、センセ」
トウカは浮かれた足どりで、ピョンと跳ねて担任の前で足を止めた。百九十センチ近い高波と百六十ちょっとのトウカの身長差がユウタは気に食わない。
「ユウタも、おはよう」
「おはようございます」
「ユウタもトウカも、撮影には興味ないの?」
トウカは高波の隣に並んで歩き、ユウタは斜め後ろをついて行く。
「見に行っても無駄っぽいからやめたんです」
無駄っぽいじゃなくて高波がいたからだろ? とユウタは内心毒づいた。高波は「そうだよなあ」とのんきな顔でうなずいている。
「先生、撮影は順調なんですか?」
「さあ、僕には何とも。野次馬がいっぱいで近づけないよ。撮影が延びても二年生には影響ないしね」
ユウタが「あ〜あ」と大げさにため息をつくと、高波は「当たり前だろ」と気安い笑みを浮かべる。女子に人気があるくせに男子からやっかみを受けるような気障さはなく、ユウタは案外この担任が嫌いではなかった。
「あ、そうだ」
高波がバインダーを叩き、パシンと軽い音がする。
「ユウタ、悪いけど教室行く前に第一資料室に寄ってくれるかな。入り口脇のダンボールに配布資料が入ってるから、教室に持って行っといて」
「第一資料室? 撮影してるのって、その辺ですよね」
「さっき行ったら衝立で仕切られてたから、期待しても何も見えないよ」
「なぁんだ」
つまらなそうに口を尖らせたのはトウカだった。高波の視線が彼女の唇を捉えたけれど、生徒がどんな派手な化粧をしても何も言わない。うるさく指導しているのはタッペイくらいだが、赴任早々「みんなオシャレだね」と感心していた高波も他の教師とは少々感覚がズレている。
「じゃあ、ユウタ。鞄だけ教室に持って行っといてあげる」
「サンキュ」
ユウタがトウカに鞄を渡すと、高波は「じゃあよろしく」と東棟の職員玄関へ小走りに向かった。
生徒玄関でトウカと別れ、ユウタは一年生だらけの西棟校舎の廊下を奥へと進む。西棟と東棟、渡り廊下と中央棟で囲われた中庭では創立記念の桜が葉を茂らせ、人だかりはその桜の下まで膨らんでいるが、ユウタは他人事のように窓越しにその様子をながめた。
しばらく行くと保健室があり、その奥にある階段の先が第一資料室。高波が言っていた通り第一資料室の先には衝立が置かれ、廊下は塞がれていた。階段手前を左へ曲がった廊下は職員室へと繋がっている。
「おはよう。二年生さんがこっちに何か用事?」
階段手すりに白衣姿の養護教諭が背を預けていた。臙脂色のネクタイで学年がわかったようだった。
「担任の高波先生に言われて、資料室に」
「野次馬じゃないのね。まあ、でも、隙間からのぞいたら見えるかもしれないわよ」
養護教諭はからかうように顎をしゃくった。年齢はユウタの母親と同年代だが、化粧っ気のない顔と浅く焼けた肌を含め外見は正反対だ。
「撮影って誰が来てるんですか? 有名人?」
「有名人。だから教えられないのよ」
目元にシワを寄せて笑う養護教諭に、ふとこんな人が母親なら、と思う。そして、そう考えたことに苛立ちを覚える。母親が違ってもどうせ世の中は理不尽で、大抵のことは受け止めるしかないのだ。
「先生が言うならのぞいてみようかな」
「さて、何か見えるかしら?」
ユウタにとって相手のノリに合わせるのは苦ではなく、何を求めているのか分からない人間が一番やりづらい。興味のあるフリをして衝立の横から奥をのぞいたユウタの頭の中には、まだ母親が居座っていた。
何をやっても褒めも叱りもしなかった母親。その視線はユウタの顔を素通りし、呼びかけても返ってくるのは気のない相槌ばかり。母親の目に映るのはいつも鏡の中の彼女自身だった。
ユウタが『自分は世界の背景なのだ』と悟りのような考えに行き着いたのは小学生の時だ。図鑑で擬態する生物のことを知り、コノハチョウやカメレオンのように、母親の世界で自分は周囲と同化しているのだと思った。
母親だけではなく誰にとってもユウタは背景でしかなく、ユウタにとっても他人は背景だった。母親も背景の一部に過ぎず、それに囚われるなんてバカらしい。この世界はひとまとまりの風景画。土手で川をながめる時、教室の窓からぼんやり空を仰ぐ時、ユウタは今でもよくそんなふうに思うのだった。
「何か見えた?」
ユウタは振り返って肩をすくめ、養護教諭も同じように肩をすくめる。無言のコミュニケーションに満足を覚え、ユウタは資料室のドアを開けた。
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