20XX/05/29
▶20XX/05/29(1)
ユウタはわずかな空腹を感じながらペダルを踏み続けていた。橋の中央まで来ると立ち漕ぎをやめ、傾斜で加速するのにまかせて深呼吸する。川面は空を映し、土手はハッとするほどの緑色。気づけば五月も終わりに近づいていた。
一台の軽自動車がユウタの自転車を追い越し、運転席で揺れたツインテールと、車体にベタベタと貼られたステッカーに彼の目がとまった。
ユウタはふと想像する。きっとあの運転手は車の構造に詳しくなく、車はただの移動手段でファッション。自分好みに飾り、コストパフォーマンスが良ければそれでいい。――そんなふうに自分勝手に想像するのがユウタの癖だった。そしてこう考える。
俺は免許がないから運転できないけど、運転してみろと言われたらきっとできる。アクセルとブレーキがわかっていれば十分だ。
『あなたのすべてを知らなくても問題じゃないの。それはきっと、車の構造を知らなくても運転はできるっていうのと同じなのよ。DNAがどんな塩基配列になっているか知らなくても生きてるっていうのと同じ。理屈は分からなくても私がこうしてトモヤの目の前にいるのも、たぶん同じ』
ユウタは昨夜観たドラマのワンシーンを思い出した。台詞にある「私」とは、ドラマに出てくるエチカという名の女子高校生で、エチカは幽霊だった。
学校の教室でフワフワと浮くエチカ。テレビで見た映像を脳内で反芻しながら、『すべてを知る』とはどういうことかと考えた。
すべてを知るのは神様くらいだ。神を信じているわけじゃないけれど、信じたほうが楽に生きられるくらいには思っている。――ユウタの思考はそこでストップした。
無意識にかけたブレーキ音で我に返り、ハンドルを切って土手沿いの道へ曲がった。
香ばしいパンの匂いが鼻先をかすめ、坂道を下ると年季の入った黄緑色の看板が見えてくる。昔ながらの商店街。ユウタ行きつけのカメレオンベーカリーは今日も変わらず営業中だ。
「パンの作り方は知らないけどアンパンは好きだ」
店の前に自転車を停めると、女店主が「おはよう」と笑顔でユウタを迎えた。母親よりもずっと年上で六十前後。
「おはよう、ユウタ君。アンパン焼けたばかりよ」
「やっぱり焼き立てが最高だよね」
最近のユウタにとって焼き立てパンが朝の匂いだった。芥子の実がのったアンパンとウィンナーロール、ペットボトルのお茶を買って店を出る。坂道を戻って土手の桜の下に自転車を置いた。細い砂利道を歩いて土手を下り、いつも座る平たい石に腰を下ろしてアンパンを取り出す。
数週間前までは、母親がスーパーで買った菓子パンとインスタントコーヒーがユウタの朝食だった。彼女がいなくなったのはゴールデンウィークが明けてすぐ。と言っても、連休の間も母親は出かけてばかりでほとんど顔を合わせていない。
男のところに行ったことは明らかで、父親がその居場所を知ったうえでユウタに黙っているのだとしても責める気はなかった。どうせ訪ねていく気もないのだから。
ユウタは母親のことが嫌いだった。考えるだけで胸が重くなり、自分の存在が薄っぺらな紙きれのように思えてくる。いっそ風に飛ばされてこの世界から抜け出せたらいいのに。
ユウタに何があっても目の前の景色は変わらなかった。対岸の土手の奥には民家がひしめき、その上空を飛行機が白線を引いて遠ざかる。
あの飛行機はどこに向かうのか。何人の人間が乗っていて、どんな素性の人たちで、何に喜び、何に悩み、いつ生まれていつ死ぬのか。とりとめのない疑問が浮かんでは消えていった。
あの人の朝食は今日もパンだろうか?
「世の中の大抵のことは知らなくても生きていける」
手をかざして視界から飛行機を消すと、「何やってんの、ユウタ」と、背後から耳慣れた声がした。仰ぎ見ると声の主はクスッと笑い、風に揺れたスカートがユウタの首筋をなでる。
「トウカ、おはよ」
「おはよ」
入学当初は耳が見えるほど短いショートカットだったトウカの髪は、今では肩下まで伸び、陽に透けて彼女の輪郭を飴色に染めた。
「朝ごはん? いい匂い。ひと口ちょうだい」
ユウタの隣にしゃがみ、トウカはスカートの裾を引っ張って膝を隠した。雛鳥のように口を開け、瞬きする長いまつ毛は生き物のようだ。
ユウタが食べかけのアンパンを差し出すとトウカはパクリとかぶりつき、パンの縁に残った朱色を指でちぎってポイと口に放り込む。トウカの朱色の口紅はこれまでも何度か見たが、そのたびに母親のことが頭を掠めて好きにはなれなかった。
朱色はユウタの母親が好んでつけていた口紅の色だ。彼女は保護者として最低限の義務は果たしても、優先順位は常に自分が上だった。幼い息子を放って遊びに出かけるその人に、ユウタはいつしか何も求めなくなった。
朱色の唇からユウタが目をそらすと、今度は淡い紅色のマニキュアが目に入る。
トウカが口紅やマニキュアをするようになったのは二年に進級してからのことだ。きっかけは春に赴任して来た担任の数学教師。『高波センセってカッコいいよね』と、彼女がその教師に向ける眼差しは熱を帯びていた。
「ねえねえ、今ごろ撮影してるのかな」
トウカは草の上にペタンとお尻をつく。
「撮影って?」
「ユウタ、聞いてなかったの? 映画の撮影にうちの学校が使われるって、昨日高波センセが言ってたじゃない。一年の教室らしいけど、有名人って誰が来てるんだろうね。センセを問い詰めたけど教えてくれなかったんだ」
チェッというトウカの舌打ちは、片仮名の発音だった。
「トウカ、また高波のとこに押しかけてたのかよ」
「あたしだけじゃないよ」
「女子人気高いな、うちの担任」
「ユウタも似たようなもんじゃない。モテモテのくせに」
「俺のはいいように使われてるだけ。八方美人だから」
「それ、自分で言う?」
「言うよ」
「不器用なやつ」
トウカはクスクス笑い、ユウタの心臓は一瞬だけ速まった。
トウカが自分にとって特別だという自覚はあったけれど、恋愛という言葉で括ってしまうことには違和感があり、このあいまいな状態をユウタはむしろ気に入っている。
トウカのすべてを知ればこの感情の正体がわかるのだろうか。そんな考えが頭を過った。
「何、ユウタ? あ、もしかしてパン顔についてる?」
トウカは指先で口元を拭う。
「ああ、うん。とれたとれた。そろそろ学校に行くか」
「天気いいし、サボりたいね」
「サボったら高波に会えないけどいいのか?」
「それはヤダ」
桜の下で自転車にまたがると、トウカは当たり前のように荷台に座ってユウタにしがみついた。
「レッツ、ゴー」
押し付けられた柔らかさに意識が向かないよう、ユウタはペダルを踏む。
「トウカ、高波狙いだろ? くっついてるとアイツに見られるかもよ」
「いいの。高波センセは先生だから。アイドルみたいなもの」
トウカ以外にも高波のファンは数えきれないほどいて、女子同士で盛り上がっているのは傍目に見ていても楽しそうだった。けれど、トウカのは他の女子とは違う気がしている。ユウタが口を挟むことではないけれど、つい勘ぐってしまうのはトウカが傷つくのを見たくないからだ。
「高波って、なんで女子にモテるんだ?」
「カッコいいじゃん」
「見た目?」
「あと、ちょっと影がある感じ」
「そうか?」
「そうだよ。笑っててもなんか寂しそうな時があるんだ。それに優しいし、オッサンじゃないし、でも大人だし、独身なんだからモテるに決まってるじゃん」
「女子高生に、だけどな」
「僻まない、僻まない。ユウタと高波センセって、ちょっと雰囲気似てるよ」
「うれしくない」
土手道を歩くクラスメイトを追い抜き、不意にトウカの片手がユウタから離れた。
「おっはよー」
離れていたトウカの手が戻って来ると再び背中に熱がこもり始め、ユウタは自転車のスピードを上げる。
「落ちんなよ、トウカ」
「落とすなよー、ユウタ」
土手から外れて緩やかなカーブを曲がると、じきに正門前の人だかりが見えてきた。
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