20XX/06/05

▶20XX/06/05(1)

 第一資料室でモエに会ったのは偶然か、必然か。ユウタはそんなことを考えていた。


 ユウタがモエを知ったのは炭酸飲料『BITTERビター squashスカッシュ』のコマーシャルだ。緑ボトルの“ライムグリーン”と、オレンジ色ボトルの“ブラッドレモン”があり、ブラッドレモンというのは新品種。赤い果皮に赤い果肉で、黄色いレモンとは違った独特の苦味があるのが特徴だった。


 モエは太陽のような濃いオレンジ色のワンピースを着て、右手にライム、左手にブラッドレモンを持ち、川沿いの原っぱを駆けていく。そして、「太陽とグリーン!」と叫ぶのだ。ユウタがそのコマーシャルを初めて目にしてから、一年も経たずに彼女は押しも押されぬ人気タレントとなった。


 モエが高校を卒業したのは二年前。ユウタより学年は三つ上で、二十歳になったばかり。中学からモデルとして活動していて、身長はユウタより五センチ高い。ネットで検索するだけでモエの情報は簡単に手に入った。


 クラスでモエのことが話題になってもユウタがファンだと公言しないのは、ファンという言葉では不十分なほどモエに対する感情が複雑だからだ。それはブラッドオレンジの色が母親の朱色に似ているからかもしれない。


 ユウタが第一資料室でモエに出会って一週間。この日の朝、ユウタはカメレオンベーカリーでパンを買い、一番乗りの教室で昨夜放送された深夜ドラマを観ていた。


 スマホ画面の中で制服を着たモエが男子生徒を見下ろしている。白地に紺のラインが入ったセーラー服に、三つ編みの髪はカツラらしく紅茶色。


「まーた、ドラマ見逃したの?」


 イヤホンが引き抜かれ、「やっぱり」とトウカがユウタのスマホをのぞき込んだ。いつの間にか教室は生徒で溢れ、時計を見るとあと二十分ほどでホームルームが始まる。


「別にいいだろ。うたた寝して見逃したんだ」


「それで学校に着いた途端ドラマ? ユウタってモエのファン?」


「別にモエ目当てじゃないよ。見始めたら続きが気になるだろ」


「気になってたのに、うたた寝したんだ。宿題はちゃんとした?」


 ユウタが答える前に「してないわけないか」とトウカが先回りして言った。


 ユウタは優等生ではないけれど、宿題をせずに学校に来るなんてことはない。波風は立てず、周りに迷惑はかけない。自己主張せず何も求めない。母親のような生き方はしない。それがユウタのモットーだ。


 ユウタを八方美人だと言うクラスメイトもいたけれど、彼自身にもその自覚はあった。教師にとっても友人にとっても扱いやすい存在でいれば平穏な日々を過ごしていられる。だから、陰口にいちいち反論したりはしない。


「ユウタはモエみたいなのがタイプなんだ」


「だから、違うって」


「誤魔化さなくていいよ。モエを嫌いな男子なんていないんだから」 


 トウカの唇は今日は桜色だった。朱色の口紅は嫌いなのに、淡い色だと物足りなさを感じる自分にユウタは呆れる。そしてふと、第一資料室で見たモエがどんな口紅だったか気になった。深緑の髪と白い肌、色素の薄い瞳、唇の色は――思い出せなかった。スマホ画面のモエは化粧をしていないような自然な化粧。


 トウカはイヤホンを机に置くと、窓際の女子たちに混じった。「高波センセイが」と、浮かれた声がユウタの耳に入ってくる。


 ユウタはスマホ画面に視線を戻し、動画の一時停止を解除した。エンディング曲が流れ始め、時計を確認して冒頭から再生し直すと、幽霊に扮したモエが教室をのぞき込んでいる。


 実のところ冒頭シーンを見るのは五度目だった。昨夜の放送も全部観たし、その後オンデマンドで二回視聴した。ついさっき観終わったのが四度目。


 ユウタは動画をスキップし、16:43に合わせた。


 モエが演じるエチカの足元はぼんやり霞んでいる。エチカは成仏できないまま学校に棲みついた女子高生幽霊という設定だ。 


『あの場所で待ってるから、誰にも見つからないように一人で来てね。朝の職員会議の時間なら先生にもバレないよ』


 西日の射す二人きりの教室で、エチカの頬は茜色に染まっていた。彼女を見上げているのは男子高校生のトモヤ。


 トモヤには霊感があり、神主で教師でもある神谷の助手をしていた。さまよう魂を成仏させるための手伝いだ。神谷は幽霊エチカの存在に気づいていたが、人を害する様子がないため除霊を後回しにしている。一方、エチカに恋するトモヤは密かに彼女との距離を縮めていった。しかし、エチカはいずれ神谷によって成仏させられる運命にあり、トモヤは葛藤する。そんな話だ。


 エチカはきっとトモヤの手で成仏し、笑顔でこの世からいなくなるのだろう。涙のハッピーエンド。それがユウタの予想だった。


 じゃあね、とエチカが手を振り、窓をすり抜けて飛んでいった。ユウタはもう一度16:34に合わせる。


『あの場所で待ってるから、誰にも見つからないように一人で来てね。朝の職員会議の時間なら先生にもバレないよ』


 ユウタの鼓動は速まり、何度聞いてもこれが自分に向けたメッセージのように思えてならなかった。時計を見るとホームルームまであと十分。今まさに職員会議の真っ最中だ。


 ユウタは弾かれるように席を立って駆け出した。扉のところですれ違ったクラスメイトが「おっと」と脇に避ける。


「ユウタどっか行くの?」


「ダッシュでトイレ!」 


「漏らすなよ」


 笑い声を背後に聞きながら、ユウタは焦る気持ちをそのまま足に乗せた。


 エチカが口にした「あの場所」とはきっと第一資料室に違いない。そこにモエがいなければ、きっとこの気持ちに区切りがつく。無駄な期待は捨ててさっさと平穏な日常に戻ればいい。


 転げ落ちるように階段を駆け下りると、クラスメイトの顔が目に入って「っはよ」と声をかけた。


「ユウタ。どこ行くの?」


「ヤボ用」


「また一年から呼び出し?  今年に入って何人目だよ。そろそろ彼女作れば?」


「そんなんじゃねえよ」


 大声で会話して下足置き場を通り過ぎ、紺色ネクタイの一年に混じった。保健室の前を駆け抜け、階段へ向かう人波を押しのけて第一資料室のドアを開ける。すぐさま後ろ手にドアを閉め、鍵をかけた。電気は点けない。


「おはよう、ユウタ。やっと会いに来れた」


 モエの声だ。



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